安泰寺

A N T A I J I

安泰寺への道

大人の修行(その7)


はじめて安泰寺に上山したのは22歳の時。それまで6年間はあちらこちらの道場で参禅したり、自分一人で坐禅してみたりしましたが、毎日坐禅していても、私のこうした坐禅はむしろ趣味ではないかという疑問を持つようになり、早く一日24時間修行ができるような所へ入門したくなりました。

坐禅に出会ったのは16歳の時ですが、一年経った17歳の時はもうすでに「坐禅だけは一生やり続けたい」という決心はありました。私が子供のころから追い求めていたもの、生きる意義というようなもの、そういうものがもし存在するならば、坐禅の中からでなければ、永遠に見つけることはできないのではないかと、思うようになったからです。私がそれまで人生を考えていた次元と全く違う次元を、坐禅の空間は持っていると私は身体で直感しました。高校を卒業すればまっすぐに日本に渡って禅僧になるつもりでした。大学に入ってくだらないことを勉強しても時間の無駄としか思えず、それまでの私は数学と物理学は好きでしたが、それらの科目は果たして、私の人生に関係のあるものかどうかが疑問になりました。生きることに意味があるとしたら、その意味は禅の中に見いだせるはずだと確信しました。

家族が反対したのはもちろんのことですが、友達にもなかなか理解してもらえませんでしたが、私の決意を揺るがしたのはもともと私を坐禅に誘ってくれていた学校の寮の先生でした。彼は、渡日する前はまず日本語を勉強し、またいずれドイツに帰ったときに就職出来るように、大学を卒業して資格を手に入れた方がよいといわれました。生きていくためにはいずれ就職しなければならないというごく当たり前の思いはそれまでの私の頭を横切ることがなく、生活をするためには資格が要るということも知りませんでしたが、先生がいわれたのは、就職ができないから仕方なくいつまでも寺でいそうろうしている人もいる、オマエは社会に戻っても生活出来ないような人になってはいけない、ということでした。そういわれていた私はびっくり仰天いたしました。一般社会で生活ができない人が仕方なく禅寺でイソウロウ!?私が想像していた「禅寺」はむしろエリートの世界、一般社会をはるかに越えた世界でした。そこで修行している禅僧達は俗人の分からないことをすべて見通すスーパーマンのようなものではないか。禅が分かればすべてが可能なはずだから、なんで今から生きていくための就職を心配しなければならないのか、理想に燃えていた青年にはよく分かりませんでした。

しかし、私はやがて納得し、日本で禅僧になる前は日本語だけでも覚えようと思って、ベルリン大学に入学しました。当時はニューエイジという「思想」が流行り、素粒子もこの大宇宙も、中国の老荘思想やお釈迦様が説かれていた仏法と同じ法則に従って動いているのではないか、と推理されていた時代でした。考えの浅い私もこの流行に乗り、日本語と並んで大学で哲学も物理学も専攻しました。坐禅して悟りを開くだけではなく、ノーベル賞をも手に入れるのだと、我が身を弁えることの知らない私でした。2年半過ぎたころ、素粒子の勉強だけでも一生がかかるかもしれないと悟り、物理学の勉強を止めてしまいました。 ベルリンで大学に籍を置いていた当時は毎朝晩近くにあった坐禅道場に通いましたが、やがて日本で「本当の坐禅」なるものを追求したいという決意は依然としてありました。ドイツの大学では普通の卒業がなく、修士課程の「マスター」を取得しない限り、大学を卒業出来ません。22歳の時は大学の勉強にうんざりし、ベルリン大学を一年休学をして、京都大学で留学しながら「本物の禅」に触れたいと思いました。

京都大学で学びながら、京都から電車で一時間離れた園部にあったの「曹洞禅センター」で毎月行われていた接心に参加致しました。しかし、京都大学での勉強はベルリンでの大学生活と同じくらい退屈で、私が追い求めていた「本物の禅」も京都には存在しませんでした。なるほど、観光客向けの禅寺はたくさんありましたが、一般の人も毎日修行できるというような道場は皆無に等しいでした。禅宗のお坊さんも一種のビジネスマンにしか見えませんでした。彼らは坐禅よりも「お勤め」の葬式法事に熱心でした。お寺の中心は墓場と位牌にあり、坐禅道場としての生命は見受けませんでした。京都大学で学んで何ヶ月かしてやっと、私が一番お世話になっていた先生まで曹洞宗の僧侶であることがわかりました。先生は大学でカントを教えていたので、まさか彼が禅僧だとは予想だにもしませんでした。そんな私は曹洞禅センターが唯一の希望であると察し、夏の間、2ヶ月程、園部にある昌林寺に接心に参加することを決めたのです。この7月、8月という2ヶ月間で初めて「大人の修行」なるものを体験しました。お寺の人々は手取り足取り私にすべてを教えてくれると思いこんでいたのですが、参禅1日目にして料理の手伝いをさせられることで、それが誤解であったと気付いたのです。2週目で私がきっちりと料理を提供出来るように、1週目に料理を学ぶのであろうと予測出来ました。スクランブルエッグより手の込んだものは作ったことがなかったので、たったの1週間、料理を手伝うだけで人に食べさせられるものが提供出来るのかどうか心配でなりませんでした。実際、その時の料理当番は1週間前にスエーデンから来日し、私が見習いをした日こそが料理当番デビューの日だと言ったのです。それから3日後に、暑くてむしむしするからと言って彼はそこを去ってしまったのです。よって、たったの3日間をイラついたスエーデン人のもとで手伝ったのちに料理当番として過ごさなければならなくなってしまいました。私はそこの和尚さんにどうして私が参禅者の為に料理ができようか、まずは誰かが私に料理を教えるものが道理ではないかと尋ねましたが、彼の答えは「これこそが道元禅師の言う自証三昧やないか。正法眼蔵読んどかなあかんやろ」というものでした。私は日本中の寺院が檀家廻りで忙しい8月によりこの「自証三昧」を実感したように思います。その和尚さんは京都にある大きな寺院の手伝いでてんてこまいで、2週間の間は昌林寺には深夜に寝に帰ってくるようなものでした。他の人は、休暇が終われば寺を去っていき、結局、私独りの生活となってしまいました。5時に振鈴をならすものの誰も寺にはおらず独りで2時間の坐禅。朝食を食べて作務をし風呂をたき夕食を食べたら2時間の坐禅。禅寺に真の禅を求めて来た者への最高の修行。それこそが自証三昧であり、私の言う大人の修行なのです。

昌林寺で初めてある参禅者から安泰寺のことを耳にする機会がありました。彼は2週間あまり安泰寺で過ごしたのですが、英語のできない雲水達とコミュニケーションはできなかったものの、雲水達は深い三昧を24時間実践していると言っていました。昌林寺の和尚さんも安泰寺のOBであったこともあり、それを自分自身の目で確かめるために安泰寺に行ってみようかと思いました。安泰寺での自給自足の生活、薪での料理、薪ストーブ、月に二回も行われる接心、これらの現実は私の夢でもあったのです。そして雲水も皆、日本人だというじゃないですか。これまでに十分すぎる程、ニセガイジン修行者を見てきた私には日本人の雲水との修行が必要なのです!そうして私は「本当の禅」への道を得たわけです・・・ しかし今、考えてみると私の心にある偽りにだまされていたのか見当もつきません。

それはさておき、安泰寺を知ってしまった私は、京都大学での勉強を投げ出して半年間を安泰寺で過ごそうと決めました。初めて安泰寺に上山したのは、1990年9月30日のことです。その日は寺への道をすっかり流してしまった台風19号の上陸から2週間後のことでした。何人かの雲水達はまだショックを隠しきれない状態でしたが、私はなぜだかさっぱり分かりませんでした。下界と遮断され、郵便すら来ない山の中での禅道場なんて素晴らしいじゃないかと。上山した私は寺に電気や電話があるのにも驚きました。禅僧はそんなもの要らないんじゃないかと。 そして数日後、接心が始まりました。私は安泰寺では道元禅師のいう伝統的な真の禅、混じりけのない只管打坐、オモチャのない接心を実践していると聞いていたのですが、驚くなかれ、そこで私が見たものとは一体なんだったのでしょうか。禅堂に響くのはいびき、坐蒲にはそっくり返り、壁に向ってこっくりこっくりと居眠りをするという有りさまだったのです。 (続く) (堂頭)

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