安泰寺

A N T A I J I

べつに、死んでも・・・

大人の修行(その9)


安泰寺で経験した生活は私の考えていた「禅修行」と大部違いました。先月号にも書きましたが、生きるための作務の大変さ、雲水の坐禅中の居眠り、そして「安泰寺をオマエが創るのだ!」という想像もしなかった修行態度。もう少し詳しく振り返ってみたいと思います。

 まず作務の大変さですが、何も「禅修行」だから厳しい作務をさせられていたわけではありません。修行している雲水達が自分の修行生活を支えるために普通のことをしているだけなのですが、それはその年の台風19号の影響もあって、思っていたよりはるかに大変な作業でした。22歳の私は「自給自足」という言葉に憧れを持っていましたが、実際には本より重い物を手に持ったこともありませんでしたし、草と野菜の見分けもつきません。そういう私が雨の中で3日間土木を運んだだけですでに肉体的な限界に達してしまいました。雲水頭に休憩時間に言われました。  「ドイツの坐禅道場は怠け者の集まりかね?」

 私は決して怠けているつもりではありませんでしたが、どうしても間に合わないのです。それまで学校ではいつもデキる方でしたので、半人前のことしかできないという経験は初めてでした。しかし、一番大変だったのはもちろん私自身ではなく、私をオンブしてくれていた雲水達でした。彼らから見れば、一生懸命がんばっている私でも足手まといに過ぎなかったことはたしかです。  もう一つ私を悩ませたのは、その作務の驚くべき効率の悪さでした。もちろん、足手まといの私には「こうしたら早く済むのではないか」というようなセリフを言えた義理ではありませんでした。のちに私の師匠になった宮浦堂頭さんも当時はまだ雲水と一緒に作務をしていましたが、決して全てをリードしていたわけではなく、なるべく経験の浅い雲水達にも責任感を持たせようと、身を引くことが多かったのです。ところが、「脳味噌より肉体を動かせ」という禅の世界ですから、2時間で済まされる作業が三日間もかかるというようなこともよくありました。こういうときに理屈を言わずだまって無駄な作務に精を出す雲水達を見習うことは簡単なことではありませんでした。が、今から考えると、修行において一番「効率の悪い」のはやはり坐禅なのですが、その坐禅を目指すのであれば、よっぽど自分の肉体も脳味噌も無駄にするつもりでなければ、つとまらないのです。そういう意味では、安泰寺の効率の悪い作務こそいい修行になっていたかもしれません。  米の脱穀で花粉症になり、その年の冬までずっと咳をしていました。作務中も坐禅中もそして夜中じゅうも。自分自身も苦しいのですが、それ以上に周りには迷惑だったはずです。脳味噌は納得できない、身体はついていけない、胸が息苦しい、その中で自分の居場所が見いだせたのは坐禅の時のみでした。22歳の大学生だった私はどうしてこれでも安泰寺に居続けたか、どうして山を下りなかったかといいますと、「別に、このままで死んでもいい・・・」というあきらめがあったからだと思います。ある時、雲水が「オマエは無神経だとしか思えない」と教えてくれましたが、あの時は「無神経」という言葉も分からず、何の話か分かりませんでしたが、おそらく生きることに何の関心も示さないことだったと思います。

 しかし、「もし安泰寺の生活に耐えず、坐禅もできなければ、死んだ方がマシかもしれない」という私の思いがあったからこそ、このまま大学に戻ることを一度も考えませんでした。ネクラな私は長生きしたいとか、楽しく生きていきたいなどというようなタイプではありませんでした。坐禅に生きたい、それがダメなら自殺でもしようか・・・という悩める青年でした。

 ところが、私の唯一の生きがいだった坐禅の時は雲水から「居眠りタイム」と見なされる傾向がありました。それには先月も述べたとおり、生きるために必要な作務の大変さも関係していましたが、これだけではないと思います。もう一つの理由はやる気のなさです。初心者が「坐禅してもなーんにもならんぞ!」と言われると格好よく聞こえなくもないのですが、その「何もならない」坐禅を実際に5、6年間やり続けているうちに、さすがに「このままで良いのだろうか、下手したら本当に何もならないのかも?」という疑問がわいてきます。そこからが「大人の修行」のしどころなのですが、大概は師匠からその解決を求め、そしてそれを自分が期待している形でさし出してもらえないのなら、もう坐禅をしようという気持ちがしおれてしまいます。「まだ何とかなるかもしれない」と思っている間は気合いを入れて坐ってみますが、「いや、本当に何もならなかった」というあきらめがつくと、あとは坐禅の時間になるといやいや坐禅堂で集まり、仕方なく居眠りするのみです。

 そして、実のところこれが一番怖いのですが、この居眠りがいつの間にかクセになり、本人に「自分が居眠りしている」という自覚すらなくなります。たとえ師匠から「寝ルナ!」と注意されても、「まさか、オレのことじゃないだろう・・・オレ、普通に坐禅していると思うんだが・・・何もならない坐禅って、こんなものじゃないの?」としか思わなくなります。ここまで落ちてきますと、自分の修行が自分で管理できなくなるだけではなく、師匠がせっかく手を差し伸べても、その声が聞こえなくなってしまうのです。 (続く・堂頭

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