安泰寺に来て衝撃を受けたことの一つは、やはり、鹿の解体です。安泰寺に来て三回目の冬を迎えようとしていますが、今でも緊張します。
普段は、猟師さんが仕止めた鹿をお布施して下さるのですが、ある時、猟師さんのわなにかかった鹿を仕止める場面に立ち会った時がありました。その時、仕止められまいとする鹿の迫力を目の前で体験しました。その鹿は、恐怖と言うのか怒りと言うのか、震えながら必死でした。仕止めようとする私たちから逃れようと全身の力を込めて檻に体当たりしていました。全身傷だらけになっていました。
以前お世話になっていた修行道場で、お葬式の大切さを知りました。しかし、生きていくための仏教を、もっと学びたいと思っていた私は、お世話になっていた修行道場の老大師や得度の師匠に無理を言って安泰寺に来ました。しかし、そんな私の空想的な「生きていくための仏教」を、その鹿に否定されたように思います。
どう生きたらよいのか?このことで悩んで来たように思います。よく考えれば、よく考えなくても、既に生きているなら、そんなことで悩まなくてよいのかもしれません。しかし、そのことで悩んでいるように思います。その答えを仏教に求めて、今でも答えを得られないでいます。
安泰寺では、修行とは何か?を問われる場面があります。鹿の解体作業で感じることも、その場面の一つだと思います。そして、どう生きたらよいのか?という問いと修行とは何か?という問いは同じ問いだと思いました。なぜなら、修行とは生きることであると思うからです。あるいは、生きることが修行であるからだと思います。
修行とは何か特別なことをすることではないと思います。しかし、特別ではない、普通のことをするということが、私にとっては難しいことです。さすがに超能力を得られるとは思っていませんが、根拠もなく、仏教で言われる、いわゆる四苦八苦をまぬがれられるとは漠然と思ってしまっていることに気づきます。自分だけは、根拠もなく、他人からも、特別視されたいと思ってしまっていることに気づきます。
「どう生きたらよいのか?」という問いへの答えは、全然分かっていません。もしかしたら、問わなくてもよいことなのかもしれません。しかし、傷だらけになって檻に体当たりしていた鹿は、必死ということを思い出させてくれます。