安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2008年1・2月号

安泰寺での修行生活とその諸問題について
(オウムから12年・その19)

Antaiji


 「オウム事件から10年」という題で、このシリーズを書き出してから3年が経とうとしています。「10年」ではなく、もほや「13年」になろうとしています。第一回目では「禅宗はその間、何を・・・?」という問いから出発し、まず臨済宗と黄檗宗でオウム事件どう捕らえているか、ということを検討してきました。こんご、曹洞宗の対応にもふれたいと思いますが、その前には現代の日本既成仏教の堕落の原因について考えることにしました。仏教の堕落がなければ、オウムのような新興宗教も流行らないからです。そして、堕落の一原因としては僧侶の妻帯について考え、私自身のこと、今の安泰寺のことについても書かなければなりません。それが済んだら、徳川時代の檀家制度、聖徳太子のときから始まった国家による仏教の輪入と利用も視野に入れておく必要があります。最後には、余裕があれば、オウム真理教自体やその他の教団(例えばヤマギシなど)についても、考えたいと思いますが、今から何年後の話になるでしょう。

 2008年の「火中の連」は二月おきに書きます。これは今年の1・2月号になるわけですが、英語版と日本語版の内容が違うものになってしまいました。英語版はヨーロッパにおける曹洞宗の国際布教に現場で積極的かつ批判的な精神で加わっている、私の大先輩の慈相師への頼りと、「禅と戦争」の著者であるブライアン・ヴィクトリアとのやりとりをのせています。興味のある方は英語版をご覧ください。今月の日本語版は「安泰寺での修行生活とその諸問題について」ですが、実は安泰寺が去年からSOTO禅インターナショナルという団体から、5年計画で年間10万円の支援金を頂いています。有り難いことです。その支援金の使われ方、そして安泰寺の修行生活等について、以下の報告書を書きました。

「安泰寺での修行生活とその諸問題について」

沿革

 安泰寺は1924年、開山丘宗潭老師によって曹洞宗宗学研究の学堂として、京都洛北の玄琢に開創された。以来、第二次世界大戦まで、伝統宗学はこの学堂によって継承発展した。眼蔵家として評価の高い岸澤惟安老師と衞藤即應老師も安泰寺で住職をしていた。 第二次世界大戦中には荒廃の一時期もあったが、1949年、沢木興道老師と内山興正老師の師弟が入寺し道元禅師の只管打坐を綿密純粋に行持する参禅道場として再興した。坐禅と托鉢行に徹した簡素な修行道場はいつしか世に知られるところとなり、参禅の士は国内ばかりでなく世界各地から集うようになった。修行者の増加に加えて周囲の宅地化による騒音は坐禅道場としての条件を満たすことができなくなり、また、山の静けさと中国禅の理想でもあった自給自足の生活を求めるため、1977年に六代目住職の渡部耕法老師が現在の場所、兵庫県の日本海側の久斗山に移転した。周囲を山々に囲まれ、境内地は50haある。 冬季は2メートルを超える積雪があり、冬安居中の入下山は不可能になっている。

移転の理由

 当時、30人ほどいた雲水と住職は仏教教団内に革命を起こす意気込みがあった。
 「現代において、宗教の不在とその果たす役割に不信を抱く者が圧倒的な数にのぼっているが、その不信や課題に真剣に取り組もうと志向する教団や宗団がほとんど見受けられないのが実状である。[中略]故にまず、はじめなければならないのは、教団、宗団自身の本来の姿勢に立ち帰る内なる革命であろう。[中略]移転するに際しては、半自給自足の生活をさらに徹底して完全自給自足の生活に転換すること。閑寂な地であること。周辺に宅地等が進出することのない場所等を念頭において行動を開始した。これらのことは、単に安泰寺創設の意志に背かないばかりでなく、仏教特に禅の本来的な姿勢に背くことなく、真剣に求道しようとする者にとって必然的なことである。[中略]中国唐代の百丈禅師は、坐禅修行者の僧団を初めて開設した人であるが、その中心となるものは、“一日為さざれば、一日食らわず”であった。禅宗本来の姿はそこにあった。我々がここで行事しようとすることは、単に目新しいことをしようとしているのではなく、歴史的な背景にもとづいた古来の日常生活を今、事実行うことである。[中略]汗を流して泥にまみれて耕作し、自給し、その中で坐禅を行じてゆくことが、我々修行者の果たさなければならない責任であり、うちに向かっての革命である。」(安泰寺の「取得理由書」より)
 ところが、自給自足の生活は彼らの想像を絶するものだった。当初、京都市内いにあった境内の売却によって膨大な資金はあったもの、新しい土地で中心だった大根作りに失敗し、現金収入はなかなか得られない。そして移転10年目には最後の資金を使い果たし、代が変わり、住職と雲水のほとんどが道場を離れ、それぞれ小さな檀家寺に落ち着いた。

私の安泰寺への道

 私が仏門に入るキッカケとなったのは、16歳の時の坐禅との出合いである。当時、住んでいたドイツの高校の寮に坐禅のサークルがあった。ある日、先生に誘われたが、最初は断った。二回目のときに「一度やってみないと、イヤとは言えないじゃないか」と言われ、一度だけやってみることにした。その結果、現在、日本の山奥の寺の住職をしている。私がここまで魅せられてしまった、坐禅の功徳は何だったのか。まずは「身体の発見」だったと思う。7歳の時に母親を亡くしてから、ずっと色々な思いに耽っていた。「人はなんのために生き死にするのか」「人生の意味とは」「本当の私とは」…それらの疑問への解決を自分の頭の中でいくら追い求めても見つからない。自分の頭の中で空回りしていたそれらの思いの先に、まず「からだ」という生命現象が存在しているという事実には全く気付かなかった。そして初めて坐禅をした。足を組み、背骨を伸ばし、あごを引く。そこにはいつもと違う自分がいて、いつもと違う世界が見えていた。いや、いつもと違う世界を発見したと言うより、それまで自分が佇んでいた頭の中の世界から、現実への出口が見つかった気がした。ようやく「からだ」という窓を通して、広い世界が見えてきた。
 大学を卒業するまでずっと坐禅道場に通い続けた。学校では物理学の傍ら、日本学と哲学も勉強したが、将来の夢は「坐禅の本場」日本で禅僧になることだった。1990年に一年間休学して、半年間は京都大学で学び、半年間は安泰寺に参禅者として受け入れてもらった。京都曹洞禅センターを主催していた奥村正博老師の紹介だった。後に師匠となった七代目住職、宮浦信雄老師の最初の言葉は今も記憶に新しい、「安泰寺をオマエが創るのだ!」。
 ベルリン自由大学を修士課程で卒業してから、正式に入門したが、一生懸命悟りを追い求めていた私が二年間で挫折した。当時は私のほかに日本人の雲水が4人しかいなく、皆私より10年20年上の年輩ばかりだ。また、日本式の上下関係にも中なじめない。修行を投げ捨て、国に帰ることも考えたが、先輩に「安泰寺はオマエにまだ甘すぎる、臨済宗の本山僧堂に行ってこい」といわれ、京都の東福僧堂に一年間安居した。なるほど、自分の修行に対する甘さに気付かれることが多く、さらに一年は小浜の発心寺に安居した後、師匠の許に戻った。私の「自分探し」はその時点で終わっていたが、師匠からより大きな現成公案を突きつけられた、「寺の会計には金がない。今後どうやって寺を支えて生活するか、オマエら自身のことだから各自で考えて提案をし、そして実行に移すこと。托鉢以外なら、何をやってもいいぞ」。また、その頃よく師匠に言われた言葉は「オマエなんか、どうでもいい!」。
 結局、この公案に答えられないまま、雲水として8年間の修行を経て下山し、2001年9月大阪城公園でホームレス生活に入った。ブルーシートのテントを張りながら、毎朝坐禅会を開いた。が、その冬師匠は除雪中に事故死したため、寺に呼び戻され結果として9代目の住職となる。

差定

 安泰寺の差定は如常と接心と、二通りある。接心も如常も振鈴は3:45、止静は4:00より。如常の日は搭袈裟は6:10、続いて粥座(ただし、中身は玄米ごはんにみそ汁、おかず)。続いて伽藍の掃除、7:30より作務(自給自足のための田んぼ・畑づくり、台所と風呂の燃料である薪作りのための原木だしなどである)。12:00に斎座(中身は麺類が多い)、15:00まで作務。15:30より入浴、17:00に薬石。17:30に茶礼(ティー・ミーティング)、18:00〜20:00坐禅。接心の場合(接心は毎月、5日接心は一回、1日接心は4回)4:00〜21:00まで15回の坐禅、9:00と15:00に二回の食事。
 坐禅の時間は年間実質1800時間、自給自足のための労働は約800時間、展鉢は約400時間、輪講(お経の勉強会)200時間、掃除150時間などである。朝課や晩課は基本として行っておらず、日常の読経は行鉢念誦、搭袈裟偈、開経偈、四弘誓願など、一年中の法事は三仏忌にとどめている。
 この差定は微細なところは調整することがあっても、30年来ほとんど変わっていない。

参禅者

 安泰寺では短期参禅者と長期の安居者を今のところ厳密に分けておらず、そのとき寺にいるもの全てを「修行者」と見なしている。参禅期間が長引いて、そのまま出家得度した人も大勢いるし、安泰寺の堂頭も「参禅者の成りの果て」というのが普通である。一年には100人〜150人の参禅者が訪れている。日本人と外国人はだいたい半々だが、日本人の平均滞在時間が一周間に対して、外国人は一ヶ月以上いる者が多くて、実際に寺にいるものの4分の3が外国人であることが普通だ。ヨーロッパ人が最も多く、北米・南米、オーストラリアからも参禅者はたくさん来られる。その窓口となっているのは寺の8カ国語によるホームページである。アジア圏では台湾、タイ、バングラ、スリ・ランカから南方仏教の僧侶も来られているが、ビザの取得の問題がある。山内ではいつの間にか英語が共通語になってしまった。
 彼らのほとんどの参禅の目的は坐禅にあり、形式に興味を示さない者が多い。安泰寺も決して形式に拘っているわけではないが、永平清規などの精神を重視しているため、彼らに形式の中で本来表現されるべき心を理解させることに苦心して面もある。日本人の参禅者の中には外国人と違い、僧侶の道を就職に変わる一つの進路と勘違いしたり、精神療法を求めたり、また親から寺に送られてきたりする者すらいるが、寺として一緒に生活したい者ならたった一人を拒まない方針を貫いている。 

現実問題の数々

経済)
 托鉢に頼らないで寺を支えていくのが現時点では無理である。一年のうち約2、3週間は寺の全員を連れて京阪神方面の遠鉢に出掛ける。寺の出費は年間120万円〜180万円ほどあるが、その三分の一は托鉢、三分の一は参禅者からのお布施、三分の一は縁のある寺院でのお盆の棚行の手伝いで賄っている。出費の中身は電気代、燃料(主に農機具、草刈り記とチェーンソーのガソリン)、機械類の購入と修理(農機具)、自給できない典座の材料(油、砂糖、塩、小麦粉、調味用など)、曹洞宗宗費、車検(寺の軽自動車)、電話代などである。支援金もこれに当てている。現実問題として、30年前に建てられた伽藍は雪国の気候に適しておらず、毎年の豪雪で屋根や壁が傷んでいる。雨漏りや落ちた城壁を直すのは修行の一環となっている、向こう10年間で大幅な修復の必要性を感じている。そのための積み立てがないので、今後インターネット上で呼びかけてみたいと思っている。

叢林内のコミュニケーション)
 修行者の多くは日本語が全く話せない。少数派の日本人も皆が英語を流暢に話せるわけではない。同じ仏道を目指しながら一緒に生活しているのに、ひとつの寺の中では「外国人組」と「日本人組」ができてしまい、互いにコミュニケーションがとれない場合がしばしばだ。そこで2年前から「Japanese English Conversation(日英会話)」なるものを提案した。週に1回、地域の方々も交えて、前半は英語、後半はニホンゴでコミュニケーションをとり楽しく時間を過ごそうというのが狙いだ(無論、参加費無料)。身ぶり手ぶり辞書片手でいいから、外国人から英語を学び、今度は日本人にニホンゴの先生になってもらおうと思ったのだ。ところが地域からの参加者はほとんどいなかった。山の麓でも、寺のことを知らない人がたくさんいるので、寺の修行者同士の理解だけではなく、寺と地域の相互理解も高めなければならないため、去年から16キロ離れた廃業になったパチンコ屋を借りて、毎週日曜日に町まで下りることにした。

弟子の育成)
 参禅者ばかりでは、寺の運営はできない。得度をしていない短期参禅者5人に対して、一人の雲水がほしい。無論、得度したばかりの雲水だけでは何もできない。少なくとも「先ず三年」いてもらわなければ、寺としては何の戦力にもならないし、本人としても修行らしい修行はできないはずである。最初の一年は誰しも、何が何だか分からないままに過ごしている。二年目に初めて春の種まきと夏の草取り、秋の収穫と雪囲いのそれぞれの作業の関連性が身体で分かるようになって、そして三年目以上になると、それがようやく人にも伝えられるようにもなる。しかし、三年間寺にいるだけではなく、何のために自分が安泰寺に来たのか、ここで何の修行をしようとしているのか、という問いかけが最初からなければ、無駄に時間が流れてしまうだけだ。「安泰寺をオレが創る」と「オレはどうでもいい」という大人の姿勢も要求される。残念ながら、私が住職になってからの六年間はそういう人がまだ現れてこない。一ヶ月経てば、寺のメンバーの半数は入れ替わってしまう。一年もたてば、全員が変わることもある。先日教えていたことは今日再び教えなければならない。畑や田んぼ、典座、薪小屋、機械の扱いと修理はなかなか任せられない。かといって、全部を住職自身がやるわけにもいかない。結局は六ヶ月しか寺にいていない参禅者が重要な責任を持つようになる。そのために大きく背伸びする者もいれば、その重圧でつぶれてしまう者もいる。2009年から一般参禅者に春から夏にかけての100日間だけ門戸を開き、7月から3月までは3年以上安居するつもりで来た人だけを置くことを考えている。

家庭と叢林)
 もう一つの課題は、僧侶、とりわけ安泰寺住職の家族の立場である。寺と家族は違う。それを一緒にしてしまうと、普通の世襲制の寺のようになり、僧堂の雰囲気がなくなってしまう。しかし実際問題として、住職の私は寺にもいなければならないし、家族ともいなければならない。朝の3:45の振鈴から夜の20:00の夜坐が終わるまで、彼女たちと顔を合わせる時間はそんなにない。逆に、私から「袈裟の付け方があまりにもだらしない」と怒られて、「堂頭は家庭を持っているから、袈裟の正しい付け方を教えてもらいたくても聞きにいけないじゃないか」と寺を出た弟子もいる。家庭は叢林からお父さんを奪われていると思い、叢林は私の家庭から堂頭を取られていると思うらしい。仏道修行のため全てを捧げたいという気分だが、自分の家族すら幸せにできなければ、何が仏道修行だという疑問もある。じっくり悩むしかない問題かもしれないが、悩んでいるのは私一人ではない。「知事清規」のエピソードの中には、慈明と慈明婆の話もある。慈明は毎日寺から抜け出して、慈明婆のところに通って、一緒に飯炊きなどする。しかし、「知事清規」では弟子の楊岐禅師の問題にしか焦点が当てられず、結局慈明とその婆の問題については考察されていない。現在もそうだ。安泰寺の前々前住職の代からみな妻帯したが、今までその正しいあり方の実物見本が見受けられない気がする。「大人に育つ・育てる」と「家庭を持つ」という私のこの二つの問題は決して二つではなく、一つの問題である。

(ネルケ無方)

約1年安居して、たまには火中の連に参加しようかなって思い、ちょっと書いてみました。 結果的に、長くなりそうなんで続き物にしました。

最近の安泰寺と領主気分の俺

自分が安居してはや11ヶ月目に突入。月日が流れるのは早いものだ。

11ヶ月前安泰寺での自己紹介「今、自分は自分の事が解らない。今の性格は、本来の自分では無いはずだ。今日から、一年程お世話になりたい。ここの生活なら、本来の自分を取り戻せるかもしれない。」みたいな事を、茶行で言った日記の記録がある。

今、思い出してみると当時はいっぱいいっぱいだったことが、手に取るように解る。 しかも、「 今、自分は自分の事が解らない。今の性格は、本来の自分では無いはずだ」なんてよく言えました。穴があったら入りたい・・・・・。

それに、矛盾してるし・・・・・自分のこと解らんけど、今の自分は自分じゃないような気がする・・・・マジ、どんだけ自己否定しとーとやって感じです。

しかも、もっともらしいこと言っておいて上山はタクシーで(爆笑)

自己否定と自己愛が織り成した、変人状態でしたね、うん。

あれから、約1年経ちそうやけどなんか変わったかなぁ、俺。 見た目的には変わりました、マイナス16kg・・はい、安泰寺の名前変えましょう。 ダイエットテンプルANTAIJIなんかに、若い女性に受けますね。 「来たれ、体重に悩むうら若き乙女達。集え、未来の女神達」なんて、三流広告出せば 結構、参禅者来るかも・・・その内完璧な菜食主義寺になったりして(笑)マジ、かんべんです。

冗談はさておき、約一年経つけどあんま変わってないような気が・・・・・・・ しいて言えば、元気になった、鼻が天狗並みに高くなりそうだ、この寺で一番の古参に なってしまったぐらいですかね。

この寺で一番の古参ということは、人に教えんといかんということです。 まだ、半年ほどの、しかも得度すら受けてない27歳のくそ餓鬼が雲水頭となり、ほとんど自分より年上の雲水に教えるなんて、安泰寺ならではの珍事中の珍事です。

この状況で、くそ餓鬼の俺がだまって大人しくしているはずがなかった。 それまでの半年間、先輩にやり込められていたうっぷんを晴らすが如く、四散八方に 怒鳴り声という奇声を発し、教え(今、思えば命令に近かったような気が)を聞かないものは体で解ってもらった。(自分で書きながら表現が怖い)

もちろん、自分も滅茶苦茶馬鹿ではないんで、一応理屈が通った時しか怒らなかったが。

後に、一人雲水が寺を後にすることになるとも思わずに・・・・・・ 

(つづく・前田哲一)

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