流転海47号

安泰寺文集・平成22年度


由紀 (浦安市・40歳)


 朝方ようやく明るくなりかける頃なんとなく目が覚めていた。私はいつも町中に住んできたのだけど、子どものころは町中でも家の周辺にもっと雰囲気があった。空気の透け具合とか深み、どこにつながっているのかなと感じさせるような空気があたりを包んでいた。「人間」でできている環境に疲れても、包んでくれる空気は懐が深かった。だけどそんな空気をしばらく吸っていない。朝や夕方の空の色も空気の深さも、今はちがう。それが何の違いなのか時々考える。その朝も昔感じていた朝の空気を思い出そうとして、でも今は手が届かないと思っていた時、一羽の鳥がないた。窓の外すぐ近くで、よく聞くような朝のさえずり。普段なんとなく聞くのとは違う次元の音だった。それまでに思っていたことにつながったのだろうけど、生命と存在の一致、それを一瞬にして明らかにした声だった。日常の中のたよりない感じ、今ここにいていいのだと安心できないこの違和感がどこからくるのか、それは自分の存在と生命の間の隙間からなんだ、という答えがそのとき出た。自分は容れものとして外界と接していて、その中にある生命は容器に守られていると同時に隠されている。容れものは壊れにくいようで、簡単に壊れるらしい。容れものは、変えられるようでいてそう簡単に形を変えられない。外界から見えるのはその容れものだけだ。容れものも「自分」の一部、他人からみるとすべてかもしれない。それは皮膚のように内部にも外部にも直接触れている。外部から勝手にくっつけられた(と感じる)もの(札やフジツボみたいな)や、いらないのに噴き出してきてしまったようなもの(吹き出物やシミ)は、不快だ。自分はそうじゃないと思っている「自分」を外界が「自分」にみていると感じるとき、ときに耐え難いほど不快だけど、「関係ない」と平気でいることができない。ほんとうの自分はあるのか?容れものの中、生命を包む隙間には何があるのだろう。水、空、澱、宝、外界にあるものと同じようにいろんなものがありそうだけど、その隙間の複雑さを「自分」だと思っているのだろう。隙間が自分、たぶん。では生命は?それがほんとうは自分の原因なんだけど、やるせない隙間があいている。生命は自分だけのものじゃない。底の奥ですべてにつながっている。その生命として生きられないのが自分である。自分だけじゃなく他人も、人間はみな。修行ができている人はフェーズが少しあるいはどこか根本的に違ってくるかもしれないけど。ふつうに見て触れているのは容れもの、ほんとうの生命に触れられるのは時折。悩みも間違いも幸福感もそのズレから発生してくる。でも鳥の声からわかるのは、そこでは生命と容れものがぴったり一致しているということだった。容れもの=生命=存在、それが完全に一致しているのを感じた。それは言ってみれば美だった。理も情も超えた一致、人間がそこから疎外されているとも、それを共有できる人が少ないとも思わない。でも安住することは誰にもできない。

 それから今年の夏、ベランダにセキレイが巣をつくった。セグロセキレイっていうのかな。ベランダの端っこにある、気がつかなかった隙間がちょうどよい出入り口になっていて、私から見られることなく母鳥は出入りできる。もともとカラスは見ない近辺なので、安心して巣を作ったのかなー。気づいたときには、巣に小さな卵が5つ並んでいた。(室外機のすぐ外だったので、それから巣立ちまでクーラーは我慢。ちなみに浦安も猛暑でした。)ヒナが生まれるまでは平穏な日々。セキレイさんは卵を温め続けるわけでもなく、昼間は結構留守にしている。今のうちに食べ溜めして体力をつけているのかも。ちなみに父鳥らしい姿は見られず。噂ではセキレイは一夫二妻の場合などもあるし必ずしも夫婦で子育てはしないらしい。ヒナが孵ったものの、はじめはヒナも静か。なるべく見ないようにしていたが母鳥が留守の間に盗み見ると、目も閉じていて動かないし、生きてる?と心配になる。携帯電話で写真を撮ってみたら、その音に反応してヒナ全員が赤い口を一斉にがばっと開けてこちらがびっくり。母鳥は朝から晩までエサを運び、日に日に留守時間が短く、せわしなくエサを運んでくる。噂通りヒナの糞も掃除している(水辺に捨てにいくらしい、水辺=川は徒歩5分くらい)ので、巣はとても綺麗。(ヒナが大きくなるとそうはいかなかったけど。)ヒナが大きくなってくると、急にヒナの声がするようになった。母鳥が近づいてくると、ピヨピヨピヨピヨと一斉に賑やかになきだす。母鳥もときどきピー、ピー、(わかったわかった、という感じ)とやさしく返事をしたりしてまさに会話。(「小鳥の歌」は事実に基づいていることをこの年になり知る。)

 ヒナがだいぶ大きくなり(噂では2週間で巣立つ)、ベランダをチョンチョンお散歩したりし始める。カーテンの下から見えるのでレースカーテン越しに喜んで見ていたが、盗み見がバレたときの母鳥の警戒がすごい。「ピピピピピピピピ!」と警戒音を発しながら怖いくらい近くを旋回して威嚇する。(場所を貸しているのは私なんだけど・・。)すごすごと分厚いカーテンをひき(昼間だけど)、ベランダの平和を提供する。(クーラーがつけられないので、窓は網戸のまま。)ヒナは文句なしにかわいい。全然警戒しない、天真爛漫。私という人間が見えていないだけなのか、母鳥がいないときは、兄弟姉妹の中でも能天気で元気なやつが、こちらが見ていても無邪気に首をかしげながらベランダをチョンチョンとお散歩していた。そんなときに母鳥が帰ってくるやまたけたたましい警戒音で飛び回りヒナを隅に追い立てる。母鳥のストレスが思いやられてかわいそうだからあまり見られない。

 毎朝日の出とともにヒナたちのピイピイいう声で起こされていたのが、ある朝突然の静寂。突然で寂しかったけど、無事に巣立ってよかったよかった、とちょうど休みだったしその日の昼間ベランダの掃除をしていたら事件が。。。室外機の下に、一羽だけみそっかすの子が隠れていた。水を流して掃除していたら、バタバタと水の中から這い出してきた。この子だけまだ飛べないらしい。室外機の下はすでに水びたし。体温を下げてはいけないとの噂なので、水の中に行かせないように工夫をし(パニック状態で怯えきったその子はなんとしても室外機下に潜り込もうとする)、隠れ家のダンボールを提供。そこに隠れて弱った様子で震えているので心配したけど、人の気配を消して祈ること半日、母鳥が忙しそうに戻ってきて励ますようにヒナに話しかけ、ヒナも返事をした。あーよかった。次の日にはその子も無事に巣立った様子。今では鳥の言葉が少しわかるようになった気分。海辺のせいか鳥が多く、別のムクドリの母鳥らしき警戒音を尻目に満腹そうな野良猫が歩いていくのを見て胸を痛めることもある。

 ほんとうは生命だよなあと思う。帰命という言葉も安泰寺で教わった。でも生命からどうしてもずれてくる苦しさ。生命のまわりの余計なものをどうするのか、それが毎日、最後までついてまわる。


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