安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2009年 1・2月号

安泰寺への道

22才の時、初めて安泰寺に上山。先輩の永流さんと。ハナノキはまだ細かった。


 22歳の時は大学の勉強にうんざりし、ベルリン大学を一年休学をして、京都大学で留学しながら「本物の禅」に触れたいと思いました。

 京都大学で学びながら、京都から電車で一時間離れた園部にあったの「曹洞禅センター」で毎月行われていた接心に参加致しました。しかし、京都大学での勉強はベルリンでの大学生活と同じくらい退屈で、私が追い求めていた「本物の禅」も京都には存在しませんでした。なるほど、観光客向けの禅寺はたくさんありましたが、一般の人も毎日修行できるというような道場は皆無に等しいでした。禅宗のお坊さんも一種のビジネスマンにしか見えませんでした。彼らは坐禅よりも「お勤め」の葬式法事に熱心でした。お寺の中心は墓場と位牌にあり、坐禅道場としての生命は見受けませんでした。

 京都大学で学んで何ヶ月かしてやっと、私が一番お世話になっていた先生まで曹洞宗の僧侶であることがわかりました。先生は大学でカントを教えていたので、まさか彼が禅僧だとは予想だにもしませんでした。そんな私は曹洞禅センターが唯一の希望であると察し、夏の間、2ヶ月程、園部にある昌林寺に接心に参加することを決めたのです。

 この7月、8月という2ヶ月間で初めて「大人の修行」なるものを体験しました。お寺の人々は手取り足取り私にすべてを教えてくれると思いこんでいたのですが、参禅1日目にして料理の手伝いをさせられることで、それが誤解であったと気付いたのです。2週目で私がきっちりと料理を提供出来るように、1週目に料理を学ぶのであろうと予測出来ました。スクランブルエッグより手の込んだものは作ったことがなかったので、たったの1週間、料理を手伝うだけで人に食べさせられるものが提供出来るのかどうか心配でなりませんでした。実際、その時の料理当番は1週間前にスエーデンから来日し、私が見習いをした日こそが料理当番デビューの日だと言ったのです。それから3日後に、暑くてむしむしするからと言って彼はそこを去ってしまったのです。

 よって、たったの3日間をイラついたスエーデン人のもとで手伝ったのちに料理当番として過ごさなければならなくなってしまいました。私はそこの和尚さんにどうして私が参禅者の為に料理ができようか、まずは誰かが私に料理を教えるものが道理ではないかと尋ねましたが、彼の答えは「これこそが道元禅師の言う自証三昧やないか。正法眼蔵読んどかなあかんやろ」というものでした。私は日本中の寺院が檀家廻りで忙しい8月によりこの「自証三昧」を実感したように思います。その和尚さんは京都にある大きな寺院の手伝いでてんてこまいで、2週間の間は昌林寺には深夜に寝に帰ってくるようなものでした。他の人は、休暇が終われば寺を去っていき、結局、私独りの生活となってしまいました。5時に振鈴をならすものの誰も寺にはおらず独りで2時間の坐禅。朝食を食べて作務をし風呂をたき夕食を食べたら2時間の坐禅。禅寺に真の禅を求めて来た者への最高の修行。それこそが自証三昧であり、私の言う大人の修行なのです。

 昌林寺で初めてある参禅者から安泰寺のことを耳にする機会がありました。彼は2週間あまり安泰寺で過ごしたのですが、英語のできない雲水達とコミュニケーションはできなかったものの、雲水達は深い三昧を24時間実践していると言っていました。昌林寺の和尚さんも安泰寺のOBであったこともあり、それを自分自身の目で確かめるために安泰寺に行ってみようかと思いました。安泰寺での自給自足の生活、薪での料理、薪ストーブ、月に二回も行われる接心、これらの現実は私の夢でもあったのです。そして雲水も皆、日本人だというじゃないですか。これまでに十分すぎる程、ニセガイジン修行者を見てきた私には日本人の雲水との修行が必要なのです!そうして私は「本当の禅」への道を得たわけです・・・

 しかし今、考えてみると私の心にある偽りにだまされていたのか見当もつきません。
 それはさておき、安泰寺を知ってしまった私は、京都大学での勉強を投げ出して半年間を安泰寺で過ごそうと決めました。初めて安泰寺に上山したのは、1990年9月30日のことです。その日は寺への道をすっかり流してしまった台風19号の上陸から2週間後のことでした。何人かの雲水達はまだショックを隠しきれない状態でしたが、私はなぜだかさっぱり分かりませんでした。下界と遮断され、郵便すら来ない山の中での禅道場なんて素晴らしいじゃないかと。上山した私は寺に電気や電話があるのにも驚きました。禅僧はそんなもの要らないんじゃないかと。

 安泰寺での初めての夜は私にとっていまだに印象深いものです。田舎の山の中に安泰寺だけがぽつんとあるにもかかわらず、どこからか騒がしげな音楽が聞こえるのです。街の中でさえそんなにうるさいことは希だというのに、初めての夜は一晩中、黒人が“ハレルーヤ!!!ワァーオ!キャーッ!!!”と歌っていました。私はてっきり山の頂上に教会があるのではないかと思っていました。そういうわけでみんなが坐禅中に居眠りするのも一晩中鳴り続ける音楽が原因じゃないかと思ったりもしましたが、みんながみんな居眠りをしているわけではないにしろやはり5人のうち少なくとも3、4人は居眠りするのが常でした。ドイツからはるばる「本物の禅」を経験しに来た私にとって、このことは大変残念なことでした。どうして坐禅中に居眠りができるのだろうという疑問が私の中に湧きあがります。ヨーロッパでは1回の接心に2、300人の人が集まるというのに居眠りしている人はそうそう見つけることができません。安泰寺に来たのは間違いだったのか。ドイツの道場で修行するべきなのだろうかと頭を悩ませました。

 考えてみればその時すでに前住職でのちに私の師匠になった宮浦信雄老師からの教えを忘れていたように思います。彼が一生を終えるまでのなかで私にとってもっとも大切であるその教えを。
 「安泰寺はオマエが創るんだ。『安泰寺』という既製品がここにあるのではない。ここにあるのはオマエが創る安泰寺しかない。」
 この言葉は師匠が安泰寺に初めて上山した人の皆に言っていたようです。安泰寺はオマエが創る。

 だのに、私はもうすでに文句を言いたくなっていました。本堂での居眠りの風景を目の当たりにして、私は安泰寺を批判的な目で見ましたが、それは私が創った安泰寺の裏返しそのものだったのです。もしくは頭の中で描いていた「悟った師匠」と私の助けとなる「出来のいい先輩」へのふわふわとした憧れに対する反面教師的なものだったのかもしれません。一体誰がこの問題の原因なのか、良くも悪くも安泰寺を創っているのは誰なのか、愛と憎しみ、戦争と平和は一体全体誰が作り出しているのかはっきりと分かるまでにしばしの時間がかかりました。と言うよりは真っ先に自分の「修行」の管理すらできない誰かさんには分かるはずもない問題でした。隣に坐っている人のイビキよりも、自分自身の心のありようが問題なのに・・・「オレがここで一生懸命坐禅しているのに、アイツが居眠りしやがって」と、腹を立てるのです。

 接心が終わると夜中の騒音がどこから来ているのか漸く分かりました。ちょうど稲刈りが終わり、当時はもうすでに使われていなかった野球場の向こう側に架けていた新米を、イノシシが毎晩毎晩、山を下りてきて食べるので、そのイノシシを怖がらせるためにラジオを大音量で流していたのです。大音量のラジオから流れる音楽はイノシシを怖がらせる効果はありませんでしたが少なくとも人間を眠らせない効果だけはあったようです。

 安泰寺で生活をするにつれて坐禅中に雲水が居眠りするのにはいくつかの理由があると明らかになってきました。食事以外には休憩もなく、朝の4時から夜の9時まで坐りっぱなしの接心が5日ないし3日間、月に2回も行われます。安泰寺の修行生活の中心はこの接心の他にないと私は思っていました。こんな接心より厳しい修行があるのでしょうか。実は、安泰寺でももっと厳しい修行はいくらでもありました。接心後すぐに分かったことですが、その年は安泰寺への道を流してしまった台風19号が秋雨前線と重なり、約4週間も雨が降り続けました。それは道だけではなく田圃も土砂崩れでなってしまい、生活水をくみ取っているダムは泥や石、木などで溢れんばかり埋め尽くされました。京都で飲んだ水道水も日本の他の都市同様まずいものでしたが、安泰寺の水は驚く程それにもましてひどいものでした。そう、水が茶色だったのです。それは接心後に見たダムで理由が明らかになりました。水道から出ていた「水(?)」はダムに溜まっていた泥でした。

 接心後の3日間はダムの泥や石などの異物を取り除く作業でした。雲水達は早く綺麗な生活水を取り戻したいため、雨はざーざー降り続けても、作務は日がどっぷりと暮れるまで延長されました。接心は足の痛みとの戦いですがそれにもまして作務は地獄でした。作務を3日続ければ放参といわれる「休みの日」がありました。その日は朝晩の坐禅をしていないので「放参」と言われていますが、その代わりに4キロの道なき道を歩いて下り、自転車でさらに12キロ離れた浜坂へ郵便を取りに行ったり醤油や油、トラックやトラクターなどの機械で使うガソリンを買いに行きました。それらの荷物は1人20リットルタンクを二つ背負って再び山を登らなければなりません。こういった「休みの日」のあとは再び作務が続けられ、倒れた木々を切り、薪小屋に運び、それらを典座や風呂用の薪に割ります。 かつての道を補正し、米は脱穀をします。畑での野菜作りは軽作業と見なされ、やはり「休みの日」に回されました。当時は土砂降りの日でさえ屋外で作務をしました。そうして接心の日だけが私たちの休日となったのです。

 安泰寺で経験した生活は私の考えていた「禅修行」と大部違いました。先月号にも書きましたが、生きるための作務の大変さ、雲水の坐禅中の居眠り、そして「安泰寺をオマエが創るのだ!」という想像もしなかった修行態度。もう少し詳しく振り返ってみたいと思います。

 まず作務の大変さですが、何も「禅修行」だから厳しい作務をさせられていたわけではありません。修行している雲水達が自分の修行生活を支えるために普通のことをしているだけなのですが、それはその年の台風19号の影響もあって、思っていたよりはるかに大変な作業でした。22歳の私は「自給自足」という言葉に憧れを持っていましたが、実際には本より重い物を手に持ったこともありませんでしたし、草と野菜の見分けもつきません。そういう私が雨の中で3日間土木を運んだだけですでに肉体的な限界に達してしまいました。雲水頭に休憩時間に言われました。
 「ドイツの坐禅道場は怠け者の集まりかね?」

 私は決して怠けているつもりではありませんでしたが、どうしても間に合わないのです。それまで学校ではいつもデキる方でしたので、半人前のことしかできないという経験は初めてでした。しかし、一番大変だったのはもちろん私自身ではなく、私をオンブしてくれていた雲水達でした。彼らから見れば、一生懸命がんばっている私でも足手まといに過ぎなかったことはたしかです。

 もう一つ私を悩ませたのは、その作務の驚くべき効率の悪さでした。もちろん、足手まといの私には「こうしたら早く済むのではないか」というようなセリフを言えた義理ではありませんでした。のちに私の師匠になった宮浦堂頭さんも当時はまだ雲水と一緒に作務をしていましたが、決して全てをリードしていたわけではなく、なるべく経験の浅い雲水達にも責任感を持たせようと、身を引くことが多かったのです。ところが、「脳味噌より肉体を動かせ」という禅の世界ですから、2時間で済まされる作業が三日間もかかるというようなこともよくありました。こういうときに理屈を言わずだまって無駄な作務に精を出す雲水達を見習うことは簡単なことではありませんでした。が、今から考えると、修行において一番「効率の悪い」のはやはり坐禅なのですが、その坐禅を目指すのであれば、よっぽど自分の肉体も脳味噌も無駄にするつもりでなければ、つとまらないのです。そういう意味では、安泰寺の効率の悪い作務こそいい修行になっていたかもしれません。

 米の脱穀で花粉症になり、その年の冬までずっと咳をしていました。作務中も坐禅中もそして夜中じゅうも。自分自身も苦しいのですが、それ以上に周りには迷惑だったはずです。脳味噌は納得できない、身体はついていけない、胸が息苦しい、その中で自分の居場所が見いだせたのは坐禅の時のみでした。22歳の大学生だった私はどうしてこれでも安泰寺に居続けたか、どうして山を下りなかったかといいますと、「別に、このままで死んでもいい・・・」というあきらめがあったからだと思います。ある時、雲水が「オマエは無神経だとしか思えない」と教えてくれましたが、あの時は「無神経」という言葉も分からず、何の話か分かりませんでしたが、おそらく生きることに何の関心も示さないことだったと思います。

 しかし、「もし安泰寺の生活に耐えず、坐禅もできなければ、死んだ方がマシかもしれない」という私の思いがあったからこそ、このまま大学に戻ることを一度も考えませんでした。ネクラな私は長生きしたいとか、楽しく生きていきたいなどというようなタイプではありませんでした。坐禅に生きたい、それがダメなら自殺するしかない・・・という悩める青年でした。

(ネルケ無方)

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