安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2009年 7・8月号

臨済宗に遊山

僧堂の入り口。


掛搭志願

 「たのーみまーしょー」、京都のある臨済宗本山の玄関先で腹の底から声を絞り出したのが一九九五年の十月でした。その日の朝六時過ぎに、雲一つも浮かばない秋空の下で網代笠を手に持って参道を登った時、庭掃除をしていた相撲取りのような体をした雲水とふっと目は合いましたが、お互い軽く会釈しただけで通り過ぎました。玄関の壁に網代笠を立てかけてから、草鞋を履いたまま上がり框に横座りになり、袈裟文庫(註:雲水用の「ランドセル」のような荷物。この中にお袈裟、そして「死骸の始末料」として封筒に一万円を入れ、食事で使う持鉢や教本など、風呂敷に結んでこの袈裟文庫につける。)の上に不自然に体をよじって構えます。予 め用意していた封筒を差し出します。その中には規定に従って、ぎこちない筆遣いで書かれている漢文の掛搭願書、履歴書と誓約書が入っています。「貴道場の規制を遵守するは勿論、大事了筆迄必ず退場仕らず、若し規制に犯触てば何らの御処分これ有ると決して苦しからず候、・・・」、ようするに悟るまでは僧堂を離れないことと、規矩を破った時はどんな刑罰もお受け致しますと約束をするわけです。

  しばらく沈黙が続いたあと、衝立の向こうから「もう一回」という声が聞こえたので、さらに大きな声で「たーのーみーまーしょー」と叫んでみました。今度いかにも建物の奥ふかいところからでてきたかのように最初は小さく、次第に大きな声で「どおーれー」といって副司(註:「ふうす」と読み、雲水の間では「フッさん」とよばれる僧堂の窓口をも勤める取締り役)という係の雲水が現れます。

 「いずこより」

 「美方郡安泰寺徒弟、ネルケ無方、当僧堂に掛搭致したく、お取次ぎをお願いいたします」  

 「しばらくお待ちください」

 奥にいったん姿を消した雲水はややあって再び床に手と頭をつけて、

 「当道場はただいま満衆に付き他の道場に足元の明るいうちの御巡りください」

 前もって、覚玄さんから教えられたように答えが帰って来ました。少なくとも、そのような問答だったはずです。何しろ、この雲水は以前アゴを骨折したことがあって、うがいをするような発音で喋っていましたので、外国人ではなくても聞き取りにくい日本語になっていました。後ほどフッさんの話を土下座の形で聞くことの多かった私は一体何を言われているのか、全く分からないことが多かったのです。

庭詰め

 「庭詰め」が始まったのがそのあとです。「あっちへ行け」と言われるにもかかわらず、とにかく二日間玄関に坐り込むのです。たまにはあっさり引き下がる者もいるようです。その時「これは芝居だから、戻って来いよ」と雲水が慌てて後を追うこともあるそうですが、私を含めほとんどの志願者はこの儀式の仕来りを事前から聴いています。何を言われても、とにかく玄関の中でひれ伏し続けるのです。

 捻れた姿勢で痛む腰。額を乗せた両手、窮屈に曲がった足。いつの間にか体があきらめて、痛みの感覚すら失われます。耳に入るのが、後ろで猫がいびきをかいているような音だけです。どのくらい時間がたったでしょうか、ちょっと気がゆるんだ頃です。

 「こらー、いつまでいるつもりか。さっさと出て行け」という罵声が聞こえたと思いきや、襟を捕まれ玄関から追い出されました。やや抵抗しているうちに相手の足を踏んだら、向こうもムキになって私を庭に投げてしまい、網代笠も石たたみの階段の下まで飛ばされました。

 笠を取りに階段を下りていたら、石垣の陰でもう一人の雲水が待ちかまえていました。

 「これも一応決まりですから、あそこの六角堂の裏で骨延ばしをして、煙草でも吸ってください。三十分くらいたったら、また戻ってね」とニコニコしながらいいました。実は、この「追い出し」は慈悲の心で行われていたのです。少しでも体のしびれを癒すために一日二回行われています。なんだ、結構リラックスした雰囲気ではないかと、半ばがっかりした気持ちになりました。煙草も吸いませんし、厳しさを求めていたのですから。

バケツでご飯

 十時過ぎふすま越しに何匹かのライオンたちが吠えるような声で般若心経を唱えているのが聞こえてきました。そして「カチャカチャ」という音と、「はよう食え」という罵声がしばらく飛び交い、また静かになりました。

 「お願いいたします、斎座(註:僧堂の昼食。僧堂によっては午前中の十時過ぎに食べられることもある。)お願いいたします」

 暗号のようなことを言われて、訳が分からないままついていたら食堂に通されました。ご丁寧な呼び方の割りに、あまりにもひどい食事に驚かされました。草鞋を脱がずに食べられるようにという配慮からか、食堂の床より一段低い板の部分に安泰寺で牛の餌やりで使っていたとおなじ金属製の大きなボールの中にうどんが山盛り。土間に坐ってそれを残さずに食えと言うのです。覚玄さんがカルシウムや栄養剤の他に、胃腸薬を荷物の中に入れてくれた理由が少しづつ分かり始めてきました。

 私より三日前に上山したらしいもう一人の雲水は板張りの床に上がっており、平然として顔でやはり金属製のエサ箱からうどんを食べていました。まだ驚きを隠せない私とこの人の余裕に雲泥の差を感じました。ひょっとしたら、私が微動だにしまいと玄関先でひれ伏している間、死角になっている私の後の物置に坐って、ときたまイビキを聴かせていたのが彼だったかもしれません。

 姿勢を変えることが許されませんから、二日目からは「早く追いだしてもらえないだろうか」と、逆に追い出しをあてにしている位です。運悪く、二日目にはフッさんが外出しており、追い出しされることなくその日が過ぎようとしました。その時は「要領」という言葉すら知りませんでしたが、その意味するものを事物見本で拝見できました。二便往来(註:トイレに往き来すること)といって、一時間おきに私の三日先輩が物置を出て、一服しているのではありませんか。さすが、先輩から教わらなければならない「智慧」が山ほどありました。

 一日の終わりには一応お客さんとして、「本日は足下も暗くなりましたので旦過寮にお泊まり下さい、明朝は早々とお帰り下さい」と手のひらを返したように、この度はバカ丁寧に旦過寮という三畳の部屋によばれます。草鞋を脱ぎ、用意されたバケツの水と一枚のぞうきんで足を拭いてから、上がりました。「旦過寮」といっても、先着の新到がさきまで居眠りをしていた物置のことです。彼はどうやら隣の典座寮の倉庫に移動させられました。しばらくすると、赤盆にのせた綺麗な茶碗にお茶まで持ってこられました。先のエサ箱との差は何を意味しているのでしょうか。そして和紙張りの提灯の明かりで、投宿帳に筆と墨汁で名前と住所を書かされます。部屋には蛍光灯がついていますから、何も提灯を持ってこれられなくても、とあきれる一方、この新人扱いのシュールさにこそ何らかの意味が隠されているのかもしれないぞ、という期待もありました。

旦過詰め  

 二日間の庭詰めが終わると、今度は五日間この旦過寮に坐らせます。安泰寺で十分坐禅に慣れていた私にとってこちらの方が楽でした。三日ぶりに背筋を伸ばして坐れるという開放感。頭の上の小さな窓から秋空の前に揺らぐ竹が数本見えて、気持ちの良い風がふすまの開いた部屋を吹き抜けました。私はドイツに帰る前、とにかく厳しいと言われていたこの僧堂に少なくとも半年間、あるいは一年間いようと決めて「たのみましょう」を掛けていましたが、「入門試験」がこんなものなら、もっと長く居れるかもしれないと、高をくくっていました。人を人だと思えないあの食事を出され方を除けば、朝三時から夜の九時までは何も心配することなく、ただひたすらに坐禅に打ち込めたのですから。この独房の中でしたら、人間関係で煩わしい思いをすることも当然ないし、安泰寺のように、摂心中にイノシシが大豆畑を荒らされたり、窓の外から山羊が「メーメー」と訴えている声が聞こえたりすることもありません。

 確かに、ここの生活が現実離れをしていました。漢文を混じりながらの丁寧な言葉遣いと急に飛び交う罵声。昼間に境内でカメラを構える観光客と「追い出し」という野蛮な芝居。山門をでてすぐ目の前にある日赤病院の迷惑を考えることなく、夜の十二時に鳴らされる巨大な梵鐘の無神経さと、お茶の席での心づくしのギャップ。考えれば考えるほどおかしくなりましたが、禅は考えるのではなく、無になることの筈ですから、自分の思考をストップさせるためには、この環境がデザインされたのかもしれません。

初相見

 二日間の庭詰めと五日間の旦過詰めが終わったころ、係の雲水に一週間ぶりに頭を剃るようにと言われました。どうやら、僧堂のトップである老師に会うらしいです。「試験」をパスしたわけです。

 ほほえんで「先にシャワーした方がいいじゃないのかな」と軽い気持ちで聴いてみました。何しろ、ずっと風呂に入っていません。

 「ふざけるなよ、はよカミソリをださんか」

 旦過寮を出たからといって、緊張感をとぐには早すぎました。慌てて袈裟文庫から和カミソリと研石を出しました。安泰寺ではシックの一枚刃を使っていましたが、臨済宗の新米雲水はそんな近代科学文明の便利な産物の使用が認められないため、覚玄さんの錆びた和カミソリを貸してもらっていました。

 「今更とぐ暇があるまい、このままで行くしかないな」

 彼は私の垢だらけの頭をその錆びた刃物で容赦なくそり始めました。時間がないらしく、あちこち血が出ても、手を止めることはありません。どうせ、私の頭より老師のスケジュールが重要ですから、無理がありません。老師への最初の挨拶を禅寺で初相見といいます。お袈裟と衣に白衣と足袋をつけ「相見香」と筆で書かれた封筒を用意します。たった千円で一派の管長をも兼ねる僧堂の老師にお目にかかれるのは新到くらいです。「お目にかかる」といっても、相見中はこちらがずっと平身低頭して顔を畳みにこすりつけなければなりませんから、老師の話を聞いた後でも、どんな顔でどんな感じの人かはなかなかつかめませんでしたが。話の内容は、曹洞宗には曹洞宗の家風、臨済宗には臨済宗の家風があるから、当僧堂では臨済宗の家風に徹して修行に励むべきだとか。安泰寺のお袈裟や衣、応量器の持参が認められず、臨済宗の雲水の持ち物一式を買わされたのもそのためか。  

新しい仲間

 相見が終わって、典座寮に戻った時はちょうど日天掃除(註:午前中や午後に行われる外回りの庭掃除など)の休憩中でした。ここで初めて皆に紹介されることになりました。これが済むと、これまで安泰寺での二年間の修行についての質問は二つ三つありましたが、

 「そうですね…」

 と答えようとすると、何人かの雲水がふっと笑いだしました。

 「『そうですね』だってよ」

 この一言で、どうせ安泰寺ではろくな修行していないだろうと判明したらしい。後で気付いたのですが、「そうですか・そうですね」という日本語は僧堂では存在しません。単語につづく「は・が・を・の・に」も不要。「お願い致します」が「お願いします」になっただけで、びんた一本が飛びます。大学の教科書で学んだ日本語とはだいぶ違っていました。

 特殊な言葉の壁だけではありません。私を囲んでいた雲水はどうしても、私の出家の動機が理解できないようです。お寺に生まれたわけではありません。将来「坊主」と言う職業で金儲けをしようと言うわけでもない。外国から来た目の青い男はどうして自分たちと同じ格好をして、同じ門を潜ってきたのだろうか。

 「そうか、お前は自分のために修行しているのか。えらいな。まるでお釈迦様みたいだな」

 なぜ不思議がられるのか、私も私で理解兼ねました。釈尊の後を追うのが本来ではないか、と。彼らは安泰寺の仲間と違い、在家出身の雲水は少なかったです。十一人のうち四人は私より半年前、その年の春に入門していたばかりですが、ようやく自分より下の立場が出来たという安心感を浮かべて、上目線で私を確かめていたのです。

 「ザイケかぁ、困ったもんだ。教えるのに苦労しそうだ。ましてや外人だからな。」

 安泰寺で味わっていた何ともいえない疎外感は一体何だったのであろうか。そこで一番若かった私もちゃんと同じ仏道修行者として暖かく仲間に入れてもらえたのではないか、この時点で初めて気づきました。安泰寺でのギクシャクした人間関係の原因はどこにあったのだろうか、その答えが数日後意外な形で出ました。

 こちらは、当時二十七歳の私より年が上のは二人しかいません。一番上のフッさんと自衛隊上がりのリュッさん。彼もその春に入門していたのですが、ヤンキー出身でバツイチ、顔にしても立ち振る舞いにしてもお坊さんと言うよりもやくざの兄貴という感じでした。たまたまお寺のお嬢さんと仲良くなり、半ば強制的に婿に、そして義理の親の弟子にされました。

 僧堂を出た今では再び離婚し三回目の結婚をしましたが、山寺の鐘突き堂にタイムスイッチをつけて、住職の傍らにスナックのマスターを勤めているユニークなキャラです。

 ちなみに、僧堂での私の呼び名は「ホッさん」でした。自分のことを「わたし」や「僕」ではなく、正式には「ホッソ」と言わなければなりません。皆それぞれ、自分の得度名の一番下の一字でよばれていました。「竜」は「リュッ」となり、「方」は「ホッ」となります。お互い苗字を知ることはすくなく、匿名性に近い状態で関わり合っています。後にいろんなブレーキが利かなくなったり、限度が超えられたりしたのもそれと関係しているかもしれません。

「末単」という、立場のない立場

 雲水のほとんどの人はお寺の生まれです。宗門の花園大学を二十二歳で出てからすぐに入門してきます。ですから、三、四年目の人も私より若い人ばかりです。無論、僧堂の上下関係に置いては、そんなことはどうでもいいのです。一日でも早くその僧堂に掛搭した者を先輩として敬わなければなりません。坐る順番からトイレでの並び方まで、一切に上下関係が関わってきます。後輩は先輩より早く起き、先輩が寝た後にやがて後輩も寝れるのが当たり前。先輩より先に作業にかかり、先輩が休んだら後片づけをする。先輩の足をふいて、先輩の背中を流す。先輩のことを「高単」といいますが、組織の中で一番立場の低い雲水が「末単」です。この年の秋には三人が掛搭しましたが、最後だった私はその役目を負わされることになりました。「末単」のためには色々な特訓が用意されています。三時十分前に皆を起こして、皆の履き物がちゃんと揃えられているかどうかをチェックすることから、夜の十一時に皆が寝てから、線香立ての灰掃除をすることまでです。食事の際は高単の者はほとんど食事に箸をつけず、早く引き上げますが、最後に残った末単はその残りを全て片づけなければなりません。ご飯の桶に残った米粒は番茶で流して飲み、床に落ちた粒は手で拾って食べる。そのあとは床掃除をするが、堂内に戻ったときは高単の者がすでに休んでいます。その間はトイレ掃除をしなければならないのも末単の仕事です。足拭き用のタオルをきれいに洗って、皆の下駄を揃えたころには、だいたい次の作務が始まるのです。つまり、末単のつぎに新たな新到雲水が僧堂に来ない限り、休む暇がありません。運が悪ければ、半年か一年間この任務を果たさなければなりません。私の場合は、次の春にようやくキチさんという後輩が出来ました。

平等と差別

 上下の縦関係が厳しい一方、ある意味では皆が平等に扱われます。雲水が履く下駄は本人の足の大きさにかかわらず二十四pで統一されています。「外履き」とよばれる作務で使うビーチサンダルも同じサイズです。そうでなければ、履き物を揃える際に一ミリの何分の一を問題にすることが出来ません。そしてその一ミリの何分の一のズレが問題になり、暴力に発展しかねないのも僧堂の特色の一つです。足のサイズが二十九pの私の踵にはいつも深いひびが入っていたのは その短すぎるビーチサンダルのせいです。冬はひびから冷たい水がしみこんで、しもやけになります。夏はばい菌が入りい、足が腫れ上がります。

 これらの履き物が新しい物に替えられるのは半年にいっぺんくらいのペースです。ところが、実際に真新しい物が履けるのが高単の一人か二人に過ぎず、そのつど高単が履いた物が次の人に「落とされる」わけです。その人がそれまで履いた物も、下の人の手に渡されます。こうして先輩たちが次々と落とした下駄や外履きを末単が有り難く頂戴できるころには、それらはもうボロボロの状態です。とくに托鉢で使う草鞋はひどく、ほとんど「履き物」としての機能を果たしていません。なにしろ、トップダウン式で全ての先輩に次々と愛用されてきましたから、肝心な底が抜け落ちて、土踏まずの部分しか残っていません。

 柏布団とよばれる寝具も同様です。これにくるんで「柏餅」になった気分で寝れ筈でしたが、順番に落とされてきた布団の綿があちらこちらから出て、何回も糸で直されていますが、布団に入るたびに縫い目が裂けてしまいます。そうじゃなくても、柏布団のサイズもやはり明治時代の平均的な雲水に合うもので、横から風が入り、膝より下は足が出ます。起きて半畳、寝て一畳といわれる雲水に与えられるスペースから頭がはみ出ます。

 「これじゃ寝れませんよ。斜めになっても、単から頭がぶら下がってしまいますよ」

 リュっさんにそう訴えていたら

 「うるさい、その頭を切ってしまえ」とやられました。

 無理に決まっているのに、環境を自分に合わせるのではなく、自分を環境にあわせというのです。

僧堂の飯汁

 食事になれるまではもっと苦労しました。旦過詰めの間に出されていたブタめしを一時期的な嫌がらせと決めつけていた私の考えは甘かったのです。修行僧の食べる食事は貧しいというイメージがありますが、臨済宗の僧堂の現実はその逆です。たしかに、麦飯にみそ汁に漬け物のみといった質素なものです。あれ、「一汁一菜」の「一菜」がない、と思いきや、飯汁の量は半端じゃない。麦が四、ご飯が六という割合で作られる「ハン」をまず茶碗から溢れんばかり盛られ、「ジュ(汁)」も注がれます。高単の方を覗いてみると、鉢にほとんど入っていません。

 「先輩はこれで大丈夫だろうか」

 などと心配していられる場合ではありません。上が食べ終わったころ二杯目が配られますから、それまで「ハン」も「ジュ」も流し込まなければなりません。曹洞宗では食事の作法に関して割と厳しく言われますが、臨済宗ではやたら

 「はよう食え、噛む暇などないぜ」

 と怒鳴られます。みそ汁に入っている乱切りの具も、二枚の沢庵もそのまま大きく開いた口にほり込み、ハンを後から詰めて、ジュと一緒に流し込む。そういう要領で何とかして先輩に追いつかなければなりません。箸の動きが少しでも遅くなると、横からまたまた罵声が飛びます。

 「おい、食い方が綺麗すぎる。お姫様じゃないんだから」

 わざと米粒を口からこぼすと、先輩もようやく納得した様子で引き上げます。三杯目のお変わりの時は新到たちしか残っていません。皆になるべく協力してもらい、桶に残ってジュとハンを減らしてもらわなければなりません。なぜなら、最後の残りを平らげるのが先ほどの末単の義務の一つだからです。

 摂心中にふるまわれる「うどん供養」は別段に厳しい。一人づつ、例の金属ボールにまず一杯のうどんが置かれます。「一杯」といっても、下に行けば行くほどその量が増えます。食べ終わったら、やはりお変わりが出ます。雲水は「もう結構です」といえませんから、その場で吐いてしまう者もいます。吐いたからと行って、口から出た物をもういっぺん胃袋に戻すまでは許してもらえません。いかにその場で我慢し、先輩が煙草を吸っている間にこっそり裏山で吐いてしまうかがコツです。

 「なぜそんな修行をさせられるのですか、食べ物をもっと大事にすべきではないでしょうか」と恐る恐るリュっさんに聞いてみました。

 「檀家さんによばれた時、『もう結構です』といえるのかよ。いくら出されても有り難く頂戴するのが礼儀だぞ。そのための訓練だ。」

二便往来

 誰しも最初は胃腸を壊します。一時間ごと、いや三十分ごとに先輩に

 「お願いいたします、二便往来お願いいたします」

 と、低頭をしなければなりません。先輩も事情が分かっています。大概、

 「おぅ、行ってき」

 と許してくれますが、忙しい時や機嫌の悪い時は

 「漏らせ」

 というのもあります。托鉢中に公衆トイレがない時や、夜坐中(註:夜の九時にいったん「開枕」といって、皆が同時に柏布団を天井の下に設置された棚から下ろし、寝る姿勢にはいるが、その後は庭を見下ろす庫裡の回廊に移り、夜の十一時までさらに二時間坐禅をする。そのうちの最初の一時間は高単の雲水も一緒に坐るが、十時過ぎから五分ごとに一人また一人の雲水が引き上げ、末単が堂内に戻るのが十一時。ちなみに、十時と十一時の間は坐禅と言うより、先輩にその日の失敗事を指摘され、反省させられることに割り当てられている。)に我慢できなくなった経験は何回もあります。小の方はまだいいが、大の方は困る。僧堂には雲水用の洗濯機すらありませんし、自由にシャワーを浴びることも勿論出来ません。ですからパンツはその場でぬぎ捨ててしまい、尻は夜中に鯉の泳いでいる庫裡の池で洗うしかありません。そんな話を後で後輩のキチさんにしましたら、

 「え?先輩はオムツをつけていなかったのですか」

 とびっくりされました。掛搭する前に入念に情報を集めていた彼がそこまで準備していたことに、逆に私が驚きました。さすが、プロを目指す雲水の意気込みは違います。

警策の哲学と作法

 一番嫌だったのが警策でした。ご存じのように、坐禅につきものとされている肩ないし背中を打つための棒です。曹洞宗では「きょうさく」、臨済宗では「けいさく」と読みますが、その歴史は以外と浅く、江戸時代になってから登場したと言われています。安泰寺ではこの警策が使われることがほとんどありませんでした。それぞれの雲水がそれぞれの坐禅修行に対する責任を自分で持つというのが安泰寺のポリシーですから、よほど長時間イネムリをしないかぎり、

 「勝手に居眠りしている者は、勝手に起きろ」

 というのです。放任主義ともいえますが、その狙いは後で詳しく説明するつもりの「大人の修行」です。そこには「教育する・教育される」という縦の関係よりも、自分との向き合いが強調されるのです。

 「叩かれたばかりじゃ坐禅にならないじゃないですか」とリュっさんにこぼしたこともありますが、ここではそんな理屈が通用するはずがありません。

 「臨済の坐禅はタダ坐るのじゃない、死ぬこっちゃ。曹洞宗も足はそうとう痛いかもしれんが、臨済の場合は足も痛いし肩も痛いし心も痛いし、『イタイイタイ』三昧じゃ」

 そもそも警策を打つ側にも受ける側にもちゃんとした作法があります。臨済宗では曹洞宗と違い禅堂の壁を背にして坐禅を組みますから、正面から左右の背中を叩きます。夏季は二打、冬期は四打ですが、季節によって打数が異なるのは、服装の厚さの違いによります。夏の警策は皮膚に届きやすいですし、薄い麻の衣も破りやすい。それでも一夏を過ぎた新米雲水の衣の方の色は薄れてき、穴が開いたりします。冬の衣はもっと厚いのですが、その分、警策の素材も厚くて硬い。衣の上で釈尊が身に纏っていた袈裟の象徴である「絡子(註:らくす、よだれかけくらいの大きさの袈裟のミニ版)」を各雲水が首にかけています。叩くときにはこれを傷めてはいけないので、まずは軽く「ポン」と警策を肩におきます。これから打たれる雲水はそれに応じて合掌し、絡子を素早く外して深く低頭します。こうした姿勢で振るわれてくる警策を待ちます。打たれた後は再び絡子を首にかけ、深く合掌低頭して感謝の気持ちを表さなければなりません。その時は無論、痛そうな顔したり怒ったような表情を見せるのが禁物ですし、逆効果をもたらせます。

上下の絆

 警策を打つのは禅堂の取り締まり役の直日か、直日に変わる高単の雲水です。禅堂内で祀られている文殊菩薩(註:智慧の象徴である菩薩、雲水に「もんじゅさん」と親しまれている)の代わりに修行僧を「警覚策励」し、眠気を覚まし坐相を正すのが建前です。警策の前では皆平等であるはずですが、現実には自分より単が高い人を打つのは極めて非常識で、あり得ない行為です。逆に自分より単の低い者を打つのは自由です。

 「僧堂の上下は一本の警策で結ばれる」

 といわれるくらい、警策の存在意義が大きい。何しろ、その打ち方が凄まじい。本来は警策を頭の上までしか上げませんが、この僧堂で流行っていたのが「フルスイング」という形です。打つ方は自分の手を頭の後まで来させ、警策の先端を腰まで下ろします。そこから力任せで二七〇度、前方へ降り下ろします。

 旦過寮を出てから三日間、禅堂内でのこの儀式を横目で観察しました。五十分の坐禅の間、直日はたえずパトロールをし、だいたい二、三分おきに雲水の一人を叩きます。特に単の低い雲水によくあたります。私の隣にはその時、門前でふっと目のあった相撲取り顔負けのモッさんが坐っていましたが、何回叩かれてもまたすぐにイネムリをこぎ、警策を受ける羽目になっていました。隣に坐っただけでも「ピューン」という風と、単の震動でその迫力が伝わります。

 「痛くないだろうか?いや、肉付きがいいから、インパクトがある程度やわらげられるかも。しかし、それでもイネムリが出来るのが逆に尊敬してしまうな」

 と他人事のように思ったのがその時まででした。次の日の坐禅、私の肩にも「ポン」と警策が当たられました。「まさか!オレは寝ていないぞ」と思って戸惑っていると、私が絡子を取り外すのを待つこともなく警策を持ち上げているのではありませんか。慌てて前屈みになった瞬間はすでに打撃を受けていました。

お前のカオが悪い

 頭の中が真っ白。何回叩かれたのも、覚えていない。頭を上げた時には、直日はすでに先に進み、別の雲水を叩いていました。目頭に浮かんでくる涙をこらえる出必死でしたが、気分はなぜかすかーっとしていて、その坐禅が終わるまでは何も考えることはありませんでした。

 坐禅が終わり、十分間のトイレ休憩(註:僧堂の専門用語で「抽解(ちゅうかい)」という。隣同士で同時に単を離れることは出来ないが、高単が席に戻った時に二便往来の許可を頂き用を足すことが出来る、坐禅と坐禅の間の時間)の時、隣の先輩のモッさんに訪ねてみました。

 「寝たり動いたりすると警策で叩かれるのは分かりますけど、僕、べつに寝たわけではないはずですが…僕のどこが悪いでしょうか?教えてください」

 「そういうお前の顔が悪いんだ!」

 私の顔?その時は納得できませんでした。が、後になってこの僧堂で覚えた一番大事なことの一つはこの「お前の顔が悪い」という教えであったかもしれません。その時の私の顔には何が映っていたのでしょうか。私に見えないものが彼らの目にハッキリ見えていたに違いありません。

夜坐の指導  

 その日の夜にはもっと詳しいご説明が加われました。十時過ぎに、フッさんをはじめ高単の雲水達が順番に引き上げると、月明かりの方丈の石庭を見下ろしながら新米雲水の「生活指導」が始まるのです。その日ミスをしたことを指摘されたり、まだ覚えていないお経を懐中電灯を使って復習させられたり、ときたまは日頃の怒りを向けられたりすることもありました。

 「オレらはこの商売で一生メシを食わなければならないんだ。だから真剣なんだ。お前のような趣味人とは違う。お前はただ坐禅がしたいだけなんじゃないか」

 なるほど、私はてっきり自分こそ真剣だと思いこんでいました。ファミリービジネスである自分の寺を受け継ぐためにしか修行していない彼らの方が仏法の「ブ」の字すら理解していないと見受けられたが、その高慢な気持ちが一番いけなかったのです。今更はじまったことではありませんでした。安泰寺でも自分の回りに高い壁を作って、皆を見下っていたのでしょう。そして、それに気づかず自家製の閉塞感を味わっていたのです。

 「ふざけるな!」と、だめ押しのビンタまで飛ばしたのが、私より半年先輩のイッさんでした。雲水のヒエラルキーの中ではそれほど立場が高くありませんでしたが、老師の甥っ子ということで将来出世する事は間違いありません。ですから、高単の雲水からも恐れての別格扱いでした。ライバル意識の強い彼を憎みながら、私の感情を芽生えさせてくれたことに感謝もしました。

(ネルケ無方)

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