安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2009年 11・12月号

臨済宗に遊山(その3)



松葉杖  

 
 その後の僧堂は年末のさまざまな行事で忙しかったのです。二十六日の夜は「冬夜」といい、年に一度だけ行われる無礼講がありました。「無礼講」とはいっても、この日だけ先輩に気を使うことなく羽目をはずしてしまえば、後が知られます。この時も高単の指示に従い、酒を煽り、裸で踊るのです。とても末単の私が足のことで申し出る場合ではありませんでした。
 「おい、オマエ、歩き方が不自然だぞ」
 ゲンさんのに注意されてはじめて「はい、ちょっと左足が・・・」と切り出そうとした私でしたが、一喝されました。
 「雲水のくせに、黙っとれ」
 そのうちは自然に治るであろうと私も高をくくっていましたが、足に負担をかけるたびに痛みも感じましたし、足全体の腫れも引きません。勇気を絞って再びモッさんに相談したときにはもはや大晦日でした。
 「明日から元旦だろ、今は無理よ」
 お正月明けから般若札配りが待っていました。一日中下駄を履いて歩き回った私の足は、夕方になって僧堂に帰ったころにはパンパンと腫れて鼻緒に食い込んでいました。二十四センチに下駄ですから、体の負担はどうしても傷みのある足の先のほうに来てしまいます。その足を見たゲンさんもさすがに驚いて、「もっとはよういわんかい、足は雲水の命だろうが」と腹を立てましたが、次の日にはようやく病院に行かせてもらいました。診断は「疲労骨折」でした。どうやら、正座から立ち上がる際に足の指にひびが入ってしまったようです。折れてからすでに三週間がたっていましたから、ひびはもう治っているけれども、きれいにはくっついていないようでした。そのうちよくなることを祈るしかなく、松葉杖を渡されて一週間ほど安ずるようにといわれました。その旨を僧堂で伝えても一笑にふせられだけでしたが、一週間分の托鉢は勘弁されました。ちょうどそのころに急な呼び出しがありました。フッさんから老師と一緒に街へ行くようにと告げられました。フッさんの日本語は以前からあまり聞き取れませんが、どうやら足と関係しているようです。老師の紹介で、名医者にでも診てもらえるのかと期待しましたが、まったく違うはなしでした。運転士の横に高級車に坐り、後ろから老師に肩を軽く叩かれました。
 「ホッさん、二月から八週間アメリカを旅するけれども、お供をしないか」
 アメリカ?想像していたよりうまい話ではありませんか。
 「はい、お願いいたします」
 「カリフォルニアからニューヨークまで、十二ヶ所の大学を回って講演をする予定だ。雪のある土地も行くから、下駄履きはしんどいだろう。今からコートと革靴を買いにいこう」
 「はい、お願いいたします」
 老師の行きつけのお店には二十九センチの靴などはおいてありませんでした。
 「この靴は二十七センチの中でもかなり大きい方でございまして、二十八センチとほとんど変わりません。天然の革でございますから、歩いているうちには伸びてまいります」
 なかなか商売のうまい靴屋さんでした。そして何より老師のスケジュールが忙しいので、「何とか辛抱できそうか」と聞かれたときに、やはり決まりの返事しかできませんでした。
 「はい、お願いいたします」

アメリカで鱈腹  


 老師の助手を務めるOBと三人でアメリカへ行くことになりました。私の役目は通訳兼カバン持ちでした。空港まで送ってくれたゲンさんに出発する前に小さく言われました。
 「無理かもしれんが、老師を自分の身勝手な恋人だと思え。尽くして、尽くして、尽くしきるのだ」
 それはともかく、私は早く靴を脱ぎたいという思いしか頭にありませんでした。老師と助手はビジネス、私はエコノミークラスだったので、席に着くなり靴を脱いで眠ってしまいました。そしてアメリカではまず老師に内緒で、助手とホテルから抜け出して安物の靴を買い、老師に買っていただいた高級な一足をカバンの奥にしまい込みました。
 食事の時間になると、ゲンさんのいわんとしていたことが分かりました。ホテルのバイキング式のレストランで、まず老師のすきそうな物をお皿にいっぱい持ってき、自分の食べたい物を選びました。三ヶ月間以上、麦飯以外にほとんど栄養を取っていないので、まず野菜の方に目が行ってしまいました。そして、チーズを見たのが何年振りでしょうか。ブルーチーズ・スイスチーズ・カマンベールなど、次々と皿へ盛ってしまいました。ライ麦パンにバターを分厚く塗り、デザートとしてヨーグルトにラズベリーを入れました。乳製品で育ったドイツ人にとっては久しぶりの大ご馳走になりそうでした。皿から落ちそうなくらいの食べ物を両手に持ってテーブルに戻ると、老師に窘められるどころか、むしろ嬉しそうな目線で見られました。
 「若いのがいいのう」
 食事は欲望を満たすために取るのではなく、あくまでも修行の一環であることを私はすっかり忘れていました。自分の皿をようやく平らげたとき、老師は
 「わしゃあ、もうお腹いっぱいじゃ。遠慮せんでええ」
と言い、皿をこちらへよこしました。断るわけにはいかず、それも食べたらしまいには助手からも「よかったら、僕のも食べてね」とやられました。
 ホテル・ルームに戻ってしばらくしてから、
 「小腹空いたから、ルームサービス頼んで」
といわれるのではありませんか。今度は人の目を気にせず、ニューヨークステーキを頼むのです。老師が休まれた後、助手に「そんな無茶な!」と吐くと、
 「いや、老師の身にもなってくれよ。子供のころは戦時中だったから、ずっと空腹感に耐えていたわけ。それがよみがえって、腹いっぱい食える若い者を見るほど嬉しいことはないみたいだよ。好きなだけ食えるのが当たり前という今の時代に育ったお前には、分からないだろうが」
 その後は老師のわがままを極力受け入れることにし、二ヶ月間で十八キロも体重が増えました。その分、老師には気に入れられたようです。京都に戻ったとき、ゲンさんには「オマエ、恋人にガキでも孕まされたのか」と冷やかされましたが。

ボーリングも全力、警策も全力  


 飛行機を降りたとき、日本はもはや春でした。僧堂にはキチさんという新到雲水が一人入ってき、私はもう末単ではなくなっていました。あらゆる面で楽になりました。「ハン(飯)」の食い上げをキチさんがやってくれたので、私は「ジュ(汁)」を飲み干すだけで済みました。トイレ掃除から履物の揃え直しまでが今後、キチさんの責任でしたから、今までやってきたことをきっちり教えるだけが私の仕事になりました。夏の暑さも僧堂の緊張感を和らいでくれたと思います。しかし僧堂の上下を問わず、京都の蒸し暑さからの抜け道はありません。冬は警策を力いっぱい叩けば、叩かれるほうは痛いのですが、叩くほうは体が温まりますから、夏は直日が手抜きしてあまり叩かなくなりました。実は私が安居する二年前に一人の雲水が脱水症で倒れ、植物人間になってしまったという事故がありました。その反省があったからか、私たちは割りと自由に水を飲ませてもらえました。午後の作務も日陰での草むしりといった、安泰寺では考えられない楽な作業が主でした。
 そのうち、私も順警という警策を打つ当番になりました。後輩はキチさん一人しかいませんから、同輩・後輩に加えて半年先輩まで打ってよしということになりました。それまでやられっぱなしだった自分もこれでようやくやり返せるのか、とまでは思いませんでしたが、新しい立場を経験できることは新鮮でしたし一種のうれしさを伴っていたのも否定できません。
 ゲンさんが堂内の雲水をボーリング場に連れたのもそのころでした。雲水のボーリング大会など、普通考えられないのですが、ゲンさんあらではの話です。深夜十一時に夜坐が終わり、一人また一人が静かに塀を超えました。次の朝の起床時間がいつもの三時であるにもかかわらず、ボーリング場では皆全力で投げ続けました。そこには「修行」と「気晴らし」の差などありません。ましてや次の日の疲れを考えていたら、「オマエ、そこまで計算して行動しているのか。それじゃ雲水失格よ。常にアクセルを全開にしろ」といわれるのがオチです。
 帰りのタクシーの中でした。居眠りしている仲間に挟まれ、運転士の会話に相槌を打ちました。
 「いやー、雲水さん、ありがたいご修行なさってますな。『吾ただ足るを知る』という仏教精神、僕も見習いたいな。お坊様は一切衆生の救済を願っている伺っていますが、高尚な仏法でどうしたら僕のような凡人が救えるのでしょうかね」
 実に鋭いことを聞きます。日ごろ、生臭坊主と接する機会が多いため、そういった疑問を当然のように口にする京都の運転士さんでした。何も答えることのできなかった私は、果たしてこれでよいのか、自分の修行のありように再び大きな疑問を抱くようになりました。
 僧堂に着いたのは三時前でした。起床の合図まで残されたわずかな時間で堂内の外見を整え、皆の履物まで綺麗にそろえるのはこの日も私とキチさんの仕事でした。無頓着なリュっさんなどは、私物の運動靴を堂内専用のビーチサンダルに履き替えることなく布団に入ってしまったのではありませんか。こういうときはやはり裏表をはっきりと使い分けますから、例え一緒にボーリングに行っていた仲でも、朝の振鈴の際に堂内履きがきちんとそろえていなかったりしていれば厳しい罰則が下されるのです。
 その日の朝の順警は私の番でした。坐禅中に起きていた雲水は一人もいませんでしたが、そのままでは警策を握っている私の立場がありませんから、叩くことが許されていた数人は休むことなく警策を入れました。
 ボーリングのことを何も知らせていない雲水のトップであるフッさんはその日の休憩時間にゲンさんに聞きました。
 「今朝の警策、俺のところまでよう響いたじゃないか、誰が打ったのか」
 「このころホッさんやらしてみているのですが…」
 「ほう、ホッさんか、つい最近までパッとしなかったけど、たくましくなったな」
 「いや、あいつは叩かれるといやな顔するんですけれども、叩くのが好きで仕方ないみたいですよ。面白いやつです」
 「警策を握れば目つきが変わる」というので「ゲシュタポ」という自慢にならないニックネームまでつけられたほどです。
 ある時、禅堂の向こう側から突然
 「順警!」
 というゲンさんの叫び声が聞こえ、我に帰ったことありました。どうやら、自分の番を忘れしまったようです。あわてて単から降りて、腰紐で着物を上げました。文殊さんの棚の前に回り、礼拝してから警策を手に取りました。ゲンさんの合図を待ちましたが、なぜかゲンさんの坐っているはずの座布団はあいています。困りました。ゲンさんの指示がなければ、この一ちゅうの坐禅の長さが分かりません。つもり、いつまで警策を文殊さんの前に返さなければならないということが分からないのです。少し戸惑いながら、堂内を見回しました。皆の坐禅の姿はひどいものでした。全員が寝ているのではありませんか。居眠りしているのではありません。横になって寝ているのです。ゲンさんからのゴーサインがなくても、これは気合を入れて警策を入れなければならないと思いました。一応時間の確かめようと、着物の袖に入れてあった腕時計に目をやりました。一時を過ぎたところでした。待ってよ、一時とはいつの一時?ふっとそんな思いが脳裏を横切りました。接心以外のとき、昼の一時には坐禅をしません。そして何より、昼の一時にしては堂内は暗いです。真っ暗です。果ては、今は夜中の一時なのか。起床時間まであと二時間弱あります。通りで仲間が皆寝ているのです。先のゲンさんの声は夢の中で聞こえただけでした。
 次の朝はキチさんに
 「怖かったっすよ、ホッさんに何をされるのかと思いました」
 どうやら彼は目を覚ましていて、寝たふりをして布団のなかに隠れていたようでした。
 この数ヶ月間、私の中の何かは確かに変わりつつありました。あれだけ抵抗していた僧堂の空気を受け入れるようになった一方、自分のなかには「そろそろ新たな一歩を前へ進まなければ」というあせりも出てきました。

トクちゃん  


 私に僧堂を降りることを決意させた、決定的な出来事は朝の庭掃除の時に起こりました。僧堂で一番要求されている「要領のよさ」のカケラも持ち合わせていないトクちゃんという人がいました。安居の順番ではナンバーツーのはずでしたが、その失敗のあまりにも多いことから、つい上下のヒエラルキーからはずされて、常に一番下から二、三番目という可哀想な立場でした。特にかつて彼の後輩だったゲンさんに目をつけられ、何かあるごとにひどい仕打ちをされました。それは何もトクちゃんが失敗を繰り返したときに限らず、ゲンさんが夜中僧堂を抜け出して彼女と会い、喧嘩して朝方に帰ってきたときもよく起こりました。この日もそうでした。理由は誰も分かりませんが、皆の前で
 「倒れるまでこの杉の木に頭をぶつけろ」
 下向きで草をとり続けている皆の耳には、トクちゃんのおでこが木の皮にぶつけている鈍い音だけが届いています。誰も何か言おうとしません。ふっと見上げると、トクちゃんの顔にかなりの血が流れています。
 黙っていたのは仲間の私たちだけではありませんでした。後日の本山出頭の際にはある和尚さんに
 「おい、その頭はどうした」
 心配されたのはよかったですが、
 「はい、剃髪で剃刀が滑ったのです」
 というトクちゃんのあまりにも分かりやすい嘘をさらに追及するようなことはしません。
 「そうか、もっと気をつけてくれよ」
 老師をはじめ、本山の和尚たちもそういった暴力を黙認しました。
 しかしそんなことよりも、私や私を囲む仲間たちの対応に問題があります。トクちゃんが血を流しても、見て見んふりです。先日タクシーの運転士に突っ込まれていたとおり、はたしてこんな修行で人は救えるのか?仲間の一人をかばう勇気すらなければ…。ましてや私はドイツ人です。
 「たった一人で何をしても無駄だ」
 という理屈を理由に、それまで共に生活していた何百万人のユダヤ人を見殺した歴史を持つ国に育ってきました。今、自分がやっていることはまったく一緒ではないか?そういう疑問は当然、抑えることができなくなりました。

選佛場  


 禅堂の入り口の上に「選佛場」という大きな額が掛かっています。ここから入る者は仏を選んで入って来い、という意味でしょう。人間として立派になろうという思いを振り捨てて、自分こそ仏になろうと志さなければなりません。そのためには、人間としてのエゴを殺すこともまた要求されます。「選佛場」のもう一つの意味は、禅堂の中で集まっている雲水の中、十人なら十人とも仏になれるのではなく、百人のうちに一個半個の真の道人が選出される、という厳しい現実です。そして、残された九十九人のことはあえて問題にされません。極端な言い方をすれば、一人の仏を作るためには、百人の人権を否定してもよいということです。なぜならば、ここでいう「仏」の前に人権など持ち出しても相手にされないだからです。
 私の場合、この環境で多くのことが学べました。生きることへの喜びはその中での一番の収穫でした。これから安泰寺に戻っても、どこへ行っても、そう簡単にはわがままと自己主張に流されることはもうないでしょう。少々のことがあっても、文句を言わず自分の役目をまっとうすることを学習しました。それでもこの僧堂を出る決意をしたのにはいくつかの理由がありました。
 第一番目には、ここで誓約書どおり「大事了筆迄」例え十年安居してからドイツに帰っても、自国では本格的な臨済宗流の修行は通用するはずもありません。
 「どうしたら人が救えるのでしょうか」
 といわれても、その答えをここには見出せませんでした。
 私自身が僧堂で受けた扱いには、そのつどそのつど腹が立ったり不満を覚えたりすることも多かったのですが、振り返ってみればむしろ感謝の気持ちが大きいです。がしかし、私も後輩を同じように扱うのには躊躇しました。最初の一年目はほとんど受身の立場で過ごしましたが、二年目に入れば知らず知らずのうちに高単という立場になります。もはや被害者ではなく、加害者の側に回り、共犯者にならなければなりません。それがいやだったのです。
 それから足の骨折です。ひびが入ってから半年以上たちましたが、夏の間ほぼ毎日行われている托鉢の時のように、負担をかけるとかなりの傷みを伴います。「足が命」という雲水生活を続けるのであれば、この足も何とかして良くしたいという思いから、一九九六年の夏、師匠に「暫暇願い」を出してもらい十ヶ月前と同じ格好で、同じ参道を降りていきました。何が違うかといえば、私自身でした。
 駅まで歩きながら太陽とささやかな風を肌で感じ、車の騒音のなか子供の叫びを聞き、信号が「赤」から「青」に変わるのを見るのも、すべての感覚はまるで生まれて初めてのような新鮮さを持っています。
 「私は生きている!」
 そう実感するだけでした。

(ネルケ無方)

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