安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2010年 3・4月号

若因地倒 還因地起




大藪先生との再会


 仏心寺を出てからは直接に帰らず、三週間ほど行脚をしました。縁のある寺を訪ねがら、托鉢して旅をしました。その道中、安泰寺の堂頭さんの師匠、大藪先生にもお目にかかりました。イタリアでお会いしてからもはや五年間は過ぎていました。当初「イタリアで余命を過ごす」と言っていた大藪先生は私が訪ねていた翌年に末期ガンで「余命三ヶ月間」という診断を受け、イタリアを引き揚げました。故郷の東北で死のうと、三年間帰っていましたが、一向に死ぬ気配がないので、やがて紀伊半島の田舎にある空き寺の住職になったというのでした。
 「やぁ、ひさしぶりだ」
 8月末の午後は暑かったのですが、先生が私をパンツ一丁で迎えたことにはさすがに驚きました。こちらは言うまでもなく、網代笠に草鞋、衣の上に絡子といった正式な行脚姿です。
 「外人のくせにどういう格好しているのか、お前。早く脱げ、暑苦しいだろ。」
 着物だけになって、近くの温泉に連れてもらいました。そして、「内側の垢を落とすのにこれが一番!」とビールを進められました。
 「飲めば悟りが忘れる薬だ。一度に多量を飲めば飲むほど効果があるぞ。」
 と、大藪先生はがぶがぶ飲みながら実物見本を見せてくれました。
 「オレを助けたのが玄米さ。どうもイタリアの脂っこいパスタが性に合わないのだ。今は玄米と野菜ばかりだ。ガンだと言われて、最初は禁酒までしたぜ。ガンが治ったというわけではない。玄米食をはじめてから、ガン細胞は成長しなくなっただけだ。周りの善良な細胞が元気になったからだと思う。だからオレは決してガンと戦ったりしない。西洋医学なんか、悪いところを段々切り捨てて行くから、最終的には患者まで殺してしまう。オレも西洋医学に頼っていれば、もう特に御陀仏になった筈だ。オレは今闘病ではなく、ガンと共生しているのだ。」
 アルコールも回ってきたせいか、大藪先生は道教のお聖様に見えてきました。
 「まぁ、オレの病気はどうでもいい。それより、安泰寺でのオマエの修行はどうなっているのか。今の堂頭、厳しいらしいな。玄覚も恵海もとうとう逃げ出した。アレには遊び心というものがこれっぽっちもないからな。皆暗くなっちまうんだ。」
 「アレ」とはどうやら、大藪先生が選んだ安泰寺の現住職、私の師匠のことです。
 「オマエもまさか、夜逃げしてオレのところに来たんじゃないだろ?」
 「いいえ、大丈夫です。先生にはご迷惑などかけません。実は安泰寺への帰路の途中で寄っただけです。」
 「そうか、それは安心した。オレはもう引退したからな。一緒に酒を飲むなら、いつでも付き合ってやるけど」と、先生は新しい瓶を開けました。
 「オレの師匠の名前を知っているか?内山興正といって、禅の世界ではまぁ有名だけど、待者(註:老師などの付き人)としてついていくと、たまったもんじゃない。朝は十時まで寝るし、昼ご飯中は新聞を広げて食うし、夜は折り紙ばかりやっててさ、終いに『ボクはねぇ、頭が痛いの』とか呟くわけ。そんなこと、知るもんか。仮にゼロから百まで点数をつけるとしたら、オレはマイナス五十が妥当だと思う。」
 まさか、海外でも有名なあの内山興正老師のことです。
 「しかし、彼にもすごいなぁと思うところがあったよ。三十年間ついていた、あの沢木興道がなくなった時、こう言っていた。『沢木老師は最後の禅僧と言われていた。私はこれからの時代に向かって初めての禅僧を目指す。』その人のカリスマに魅せられて、まるで鉄くずが大きな磁石に吸い寄せられた感じで沢木興道を真似損ねた弟子ばかり多かったよ、当時は。その中、あのふんどしの緩んだ興正だけは人間の『沢木』が眼中になく、仏祖としての『興道』のみを見つめていたのさ。不完全な師匠にいかに完全なつき方をするかって。そして今はアメリカなんかでは、沢木興道よりも内山興正が有名になってしまったじゃないか。ところが、その内山興正というのを、実はこのオレが作っていたのさ。そうだよ、オレの創造物だ。そこが大事なんだ。いくらだめな師匠でも、弟子がその人を作らなければならない。バカな弟子の所には、バカな師匠しか現れてこないが、今の安泰寺の堂頭にしたって、弟子が引き出そうと思えば、いくらでも可能性はある。オマエも、師匠を育てろ。」


師匠が弟子を、弟子が師匠を


 目からウロコが落ちる思いがしました。「安泰寺を創る」ということは「師匠を創る」ということをも含んでいました。道元禅師は学道用心集という書物の中で次のように書いています。
 「行道(ぎょうどう)は導師の正(しょう)と邪とに依る可(べ)きものか。機は良材の如く、師は工匠(こうしょう)に似たり。縦(たと)え良材たりと雖も、良工を得ずんば、奇麗(きれい)未だ彰(あら)われず。縦え曲木たりと雖も、若し好手に遇わば、妙功忽ち現ず。師の正邪(しょうじゃ)に随って、悟りの真偽あり。」
 師弟関係は彫刻家と木材との関係と同じといっています。ひねくれた弟子(機)でも、優れた師匠に会えば素晴らしい成長をみせますが、弟子がいくら優秀でも師匠がダメならダメになってしまうと言うのです。弟子の修行の成果の全責任は師匠の肩に乗っかかっています。師匠の立場に立つ時、忘れてはならない教えですが、弟子の立場になった時には、危険をはらんでいます。
 「ボクの修行が進まないのは師匠が悪いからです」
 と、その責任を自分から師匠へ転じがちだからです。そこが大藪先生の「師匠を弟子が創る」という言葉で言い表したかったポイントではないかと思いました。
 道元禅師は今から八百年前に中国で仏教を学び、それを日本へ持ち帰った時、その内容についてこうこう語りました。
 「只だ是れ等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直(がんのうびちょく)なることを認得して、人に瞞(まん)せられず。便乃ち、空手にして郷に還る。所以)に一毫も仏法無し。
 師匠から教わったのが「眼横鼻直」という当たり前の事実しかなく、それ以外には仏法などないというのです。ですから、道元禅師は手ぶらで帰ってきました。この「空手還郷」を道元禅師の別な表現に置き換えれば
 「身心脱落(しんじんだつらく)とは坐禅なり」
 つまり一切の手放しです。この「身心脱落」という表現こそ道元禅師が中国の師匠の口から聞いて、後の一生の修行を方向付けたとされています。ところが、師匠の天童如浄禅師の語録には「身心脱落」という表現は出てきません。そこにあるのは「心塵脱落」という言葉。日本語の読みは同じですが、中国語の発音は違いますし、意味も全然違います。「心の塵を落とす」ということは、禅の立場から見れば二元論的であまり面白みのない表現です。ここにいくつかの学説が生じてきました。
 A 道元禅師は師匠を聞き間違えって、「心塵脱落」を「身心脱落」にしてしまった
 B 道元禅師は「心塵脱落」の意味合いするものを掘り下げて、あえて「身心脱落」という独自の表現に替えた
 C 如浄禅師は時と場合に応じて「心塵脱落」とも「身心脱落」とも言った。中国の弟子達がまとめた語録には「心塵脱落」という分かりやすい表現しか残っていないが、道元禅師のみは「身心脱落」の重要性に気付いてそれを日本で広めた
 いずれにせよ、弟子によって師匠から学び取れるものが違ってくるという事実を証明しています。
 大藪先生の話を聞いて、早く安泰寺に帰らねばという思いは強まりました。「安泰寺をオマエが作る」という師匠から与えられた課題はそのまま残っていたからです。安泰寺を作れず、そして師匠を創れず、自分に何ができるのか?やはり私の修行の原点がここにあったのです。


「地に起く」ということ


 若因地倒 還因地起 (地に因りて倒るるがごときは、還って地に因りて起く)
 離地求起 終無其理 (地を離れて起きんと求むるは、終に其の理無けん)
 安泰寺の本堂まで続く、百九段ある石畳の階段。そのふもとの両脇に立てられてあった柱にそう書いてありました。そこには門も何もありませんが、私たちはこの二本の柱を「山門」と呼んでいました。ここを通る者は大概、自分の生き方に悩み、あるいは現実のあり方に苦しみます。何らかの形で自分の問題を抱えていて、それを解決しようとして寺に辿り着いた者です。仏道の中に己の身を投げ入れようと思ってこの階段を登っていく者ほど、この思いは「発心」といわれる堅固たる決心につながります。自分が今向き合っている現実問題をこの一生の間に解決できなければ、人間としてこの世に生まれてきたことが無意味であり、たとえ百歳まで生きていたとしても、無駄な時間の連続に過ぎません。私がそういった思いに燃えて安泰寺の山門を通ってから、だいぶ年月も流れてしまいました。
 安泰寺で雲水として四苦八苦し、京都でさらに苦しまされて、あの山門の二本の柱に刻まれていた言葉の意味に少し気づき始めました。「地に倒れる」、これは「現実の壁」にぶつかることでした。子供の時分から、生きていても何とか空しかったのです。ところが、その原因を直視せず別のところでその解決を求めました。たとえば「悟り」や「見性」に。「地に立とう」としませんでした。「地に立つ」、これは自分の思いをもの足りようとしない現実をまず力いっぱい生きることでした。向こうからやってくるものを期待するのではなく、まず自分自身をこの現実の中へ投げ込むことでした。そして安泰寺でいう「地」は単なる比喩ではなく、文字通りの「土」でもありました。「心土不二」という言葉もありますが、安泰寺の勉学は哲学するのではなく、田んぼの泥沼に入って草をとり、土砂降りの中で山から原木を運び出すことです。誰にも感謝されず、朝早くからかまどの前で立ち慣れない料理を作るのも、山羊の蹴りをかわしながら乳を絞るのも現実の地に立ち返ることでした。仏道は別世界にあるのではなく、自分の足元にあったことを改めて知らされました。
 一九九七年の秋実際に安泰寺に戻ってみると、私を待ち受けた現実は記憶していたほど過酷なものではありませんでした。新しい人は十人もいて、賑やかでした。責任も作務も分担されるので、それぞれが背負わなければならない量は減っていました。しかし玄覚さん、恵海さんと雷童さんに続いて、一番仲のよかった永心さんは山を降りていませんでした。アメリカ人女性の参禅者と恋に落ちて、駆け落ち同然に寺を出たらしかった。仏心寺から戻ってき琢磨さんが法戦式をあげ、雲水のリーダーとして懸命に動き出しました。曹洞宗の教師資格を取るための大事な一歩がこの「法戦」です。師匠に変わって叢林の雲水たちの疑問に答える儀式のことで、本堂で大声を上げて漢文混じりの問答が交わされるのです。私も次の春、玄覚さんのお寺で同じ式をあげて、一人前の雲水に近づきました。その時、琢磨さんは堂頭さんの許で「継法(しほう)」を受けました。文字通り「法を継ぐ」ことですから、継法をすれば弟子は師匠の後を継ぐことも出来れば、独立して弟子を持つことも出来ます。禅の「親方」になれるわけです。琢磨さん以前に玄覚さんと雷童さんはすでに継法をして寺を出ていました。恵海さんと永心さんは継法せずに師匠の許を離れてしまいました。琢磨さんで三人目の「一人前」でしたが、いずれ安泰寺の後を継ぐのではないかと誰しもが思っていました。
 新しいメンバーの一人は牛係を担当していたマイクでした。カリフォルニアで日本女性と仲良くなって、彼女について日本に渡ってきた好青年でした。最初は同棲してお茶を学んでいましたが、どういう心の変化があったのか、彼女に「禅の修行をしに来るので、一二年間待ってくれ」と言って安泰寺に飛んできました。琢磨さんとマイクと私で「袈裟研究室」を作り、午後の空いた時間に僧侶が身につけているお袈裟の縫い方を勉強し、お袈裟のミニ版である絡子(?)を縫いはじめました。


現成公案


 今まで安泰寺で味わうことのなかった、この心のゆとりが患いしたのか、ある夕方の茶礼の席で師匠からこういう話が出ました。
 「寺の会計には金がない。今後どうやって寺を支えて生活するか、オマエら自身のことだから各自で考えて提案をし、そして実行に移すこと。托鉢以外なら、何をやってもいいぞ。」
 大変なことになってしまいました。今まで寺の経済基盤を考えたこともなかった私たち雲水でしたから、とんでもない問題定義でした。禅でいう「公案」とは本来、こういった現実問題であったはずですから、真剣に取り組まなければなりません。
 安泰寺が京都から但馬地方の山に移転したのが一九七七年、日本の高度経済成長の最中でした。当時、雲水たちは兵庫県庁に「取得理由書」なるものを提出しました。
 「豊かな生活を追い求めることのみが多すぎて、人間性の高貴なるもの、尊厳ということが忘れられつつある時、宗教本来の果たす役割である豊かな人生ということを、発現し展開することが、我々修行者の使命でなければならない。宗教という名のもとに、利潤を追求したり、豊かな生活を願望すること自体が、宗教者、修行者自身を放棄することであるから。[中略]なに故に都会からこのような山深い地に移転するのかと、多くの人に問われたことであった。その問いは実は、我々自身が己れの内面に向かって終生問い続け、そして忘れてはならないことである。中国唐代の百丈禅師は、坐禅修行者の僧団を初めて開設した人であるが、その中心となるものは、『一日為さざれば、一日食らわず』であった。禅宗本来の姿はそこにあった。我々がここで行事しようとすることは、単に目新しいことをしようとしているのではなく、歴史的な背景にもとづいた古来の日常生活を今、事実行うことである。宗教者や教団に対する不信は、宗教というものを、より煩雑に、そして観念的にしてしまったことが原因である。宗教は真実に真剣に個々人の人生を生きようとする教えであるから、内容の伴なわない観念や思想であってはならない。汗を流して泥にまみれて耕作し、完全自給自足し、その中で坐禅を行じてゆくことが、我々修行者の果たさなければならない責任であり、うちに向かっての革命である。」
 その時安泰寺にいた雲水の多くは六〇年代末の学生運動に参加し挫折した人たちで、高い理念を捨てないで修行僧として新たな形で日本の社会に挑もうとしていました。ところが、寺を移転してまず何を作ったのかと言いますと、大きな野球場であり、テニスコートです。「山を駆けめぐり、風を身体全体で感じてみたい」といい、馬も飼いました。そのために必要な膨大なお金は京都の境内の売買によって得られました。がしかし、「完全自給自足」ではうまく行きませんでした。そもそも「完全」な自給自足とは何か、がハッキリしない。台所のカマドの火は薪で賄っても、田畑の耕作のためには農機具も燃料も買わなければなりません。電気代も払わないわけには行きません。現金収入のため、最初は大根を大阪の中央市場などでで卸そうとしましたが、それはとうてい野菜売り場で通用するような代物ではなかったらしい。最後はどこの卸し市でも断られ、ダンプいっぱいの大根を山に捨てこともあったようです。大根連作は赤字で終わり、山菜のゼンマイ・ワラビ・フキやワサビも高く売れませんでした。会計の穴を埋めるためには、知らず知らずのうち安泰寺の宝である沢木老師の集めた掛け軸やお袈裟が売却されてしまいました。

(ネルケ無方)

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