安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2010年

 7・8月号

ホームレス雲水



ドイツのZEN

 安泰寺の堂頭さんに別れを告げたのは二〇〇〇一年の夏、お盆が過ぎたころでした。本来なら、自国のドイツに帰って、小さな坐禅道場でも開いて伝道活動を開始する筈でした。しかし、私は慌てて国に帰る必要はないと思いました。むしろ、日本への仏教伝道が要求されているのでは、と感じていたのです。
 なぜかといえば、仏教的思想のみならず、禅の道場もドイツですでにかなり広まっているからです。思えば、ドイツ人が始めて仏教の戒律を授けられてから、もはや百年が経とうとしていました。一九〇三年にバイオリニストのアントン・ギュートがビルマで出家し、比丘「ニヤーナティローカ」となり、その後はセイロン(現在のスリランカ)を中心に活躍し、一九二〇年から一九二六年の間は日本にも滞在しました。一九二八年にはブルーノ・ペツォルドというドイツ人哲学者が上野の寛永寺で出家得度を受けて「徳勝」という僧名を授かれました。一九四九年の死後、天台宗より「権大僧正」という位まで補任されました。一九二〇年代に、東北帝国大学で教鞭を執ったオイゲン・ヘリゲルも同じくドイツ人哲学者でしたが、阿波研造を師として弓の修行に勤しみました。戦後出版された「弓と禅」は大ヒットし、英語を始め20ヶ国語に訳されました。日本語もさまざまな訳本が出て、後の「日本人論」にも大きな影響を与えてしまいました。欧米で禅ブームを巻き起こしたのが鈴木大拙の書物とヘリゲルの「弓と禅」と言ってもいいでしょう。
 その他、宣教師として日本にきて、仏教とやり取りをしているうち次第に禅に魅了され、やがて自分も禅を修行するようになったカトリックの神父さんが中心になっている「キリスト教的禅」のムーヴメントがあります。中でも一番知られているのがフーゴー・ラサールというイエズス会の神父さんです。一九二九年に来日し上智大学で教鞭を執り、一九四〇年から広島赴任し被爆に遭いました。一九四八年には日本に帰化し、愛宮真備(えのみやまきび)と名前を変えましたが、一九九〇年に九二歳で生涯を終えるまで「キリスト教的禅」の普及に勤めた人です。その教えの特徴のひとつは、「禅は仏教ではなく、宗教のあらゆる境界線を越えた普遍的な知恵である」という主張です。つまり、彼らは自らが信奉している宗教を捨てることなく、むしろ禅をキリスト教の中へ取り入れようとしているのです。
 しかし現在はキリスト教への信仰を深めるための禅よりも、キリスト教のアルターナティヴとして禅を求めるドイツ人が多いではないでしょうか。彼らも「禅仏教」という別な宗教を求めているのではなく、むしろ最初から宗教とは関係なく禅に取り組んでいます。その多くはヨガや太極拳、あるいは合気道、柔道や空手といった日本の武道にも興味を示しています。西洋の宗教や哲学であまり重要視されない体への関心です。「理屈ではなく、信仰でもなく、形から入る」というアプローチが新鮮です。ヨーロッパで禅を広めた弟子丸泰仙という人も安泰寺がまだ京都にあった頃に出家得度しましたが、日本ではちゃんとした僧侶の修行をすることなく六十年代の後半にフランスに渡り坐禅を教え始めました。当時欧米で流行っていたヒッピーの文化に大きな「禅の風」を起こしました。彼が一九八二年にパリでなくなった時点で、二千人もの人が頭をそり、自分でお袈裟を縫い、彼の弟子になっていたのです。その教団はフランスを中心にヨーロッパ全体に数多くの道場を構えています。
 私もベルリンの大学で勉強をしていたころ、弟子丸系列のグループに通いました。五階建ての昔の工場のコートヤードに設けられていたロフトに畳み式の禅堂があり、木製の床と玄関横に下駄箱という日本風の道場に毎朝十人から二十人、週末には三十人ほどが集まりました。朝の坐禅の後は漆塗りの応量器で玄米粥を食べる、という当時としてシュールな風景でした。どういう人がそれらのグループに参加しているかといえば、ほとんどが在家の修行者です。頭を丸めて坐禅中に袈裟を纏う者でも一般社会で職業をもって、平日は会社に通い、夜は家に帰るというごく普通生活ぶりです。週末や休暇を利用して坐禅会や摂心に参加することが多いです。職業は医者や弁護士、実業家から芸術家・ミュージシャン、タクシーの運転士から主婦や学生まで幅広い層の人たちが「ZEN」に惹かれますが、どちらかと言えばインテリ層が多いでしょう。


三十三歳の進路

 一方、日本には既成仏教の寺院の数は七万五千ヶ寺にも上っています。その内、曹洞宗のお寺だけでも一万五千ヶ寺です。ところが、お寺にお参りするのは老人ばかりです。毎月参禅会を開いているお寺はあったとしても、週末や平日を問わず毎日住職やその弟子の修行に参加できるお寺は皆無に等しいです。それは言うまでもなく、外部の参加者が住職たちの修行の妨げになるからではなく、そもそも一般のお寺に修行が行われていないからです。日本の今のお坊さんは仏教を一種のサービス産業と考えているようですが、その「サービス」は葬式法要に限定され、僧侶も一般の方々もこの一生の内に一緒に仏道を歩もう、ということは全く考えていません。
 ですから、私はドイツに帰る前には是非とも、そういう道場を一つでも日本で作ってみたいと思いました。それこそ「日本への恩返し」といえば大袈裟でしょうが、私のできる唯一のことと思えていました。しかし、道場を作り、道場を維持することになると、お金が必要になってきます。仏道修行といえども、その経済的基盤を考えた時にいかに大変かは安泰寺で過ごした年月で充分理解できました。無論、安泰寺を下りた時分、金は全く持っておりませんでした。はて、どうしたらよいか。
 その時思い浮かんだのが「ホームレス」でした。なんだ、金がなければホームレスになればいいではないか。氷ノ山でやっていたみたいに、テントの中で寝泊まりをし、テントの外で坐禅を組めばよいと思いました。場所は大都会がいい。安泰寺のような山奥は静かで修行に適している面はありますが、今度は一人になることではなく、むしろ人と共に坐ることが狙いだったので一般社会人が仕事に出る前に参加できる形にしたかったのです。
 このことを一緒に西福寺にいた、今は大阪で住職をしているキチさんに話していたら、
 「ホッさんって、外人のくせにお坊さんの格好をして、今度はホームレスまでやろうという…随分変わっているなぁ」
 私には正直、どこが変わっているのか全く理解できませんでした。インドの親方、仏教の元祖である釈尊だって、宮殿を出てホームレスになったはずです。私にはむしろ「伽藍も守らなければ…自身の生活も人並みに…」という名目で葬儀屋の下働きでせっせとお経を棒読みしているキチさんのような現代の日本僧侶が「随分変わっている」ように見えました。


約束

 まずは大藪先生に挨拶にでもと思って紀伊半島に向かいました。先生には怒鳴られました。
 「どういうつもりだ、動くなといっていたはずだ。」
 「いや、あの空気の中じゃ、私の居場所なんかありませんでしたよ。それより、先生と安泰寺の堂頭さんの間に何が起きているのですか。寺を出る前には、師匠から次の堂頭の座でも狙っているかのように疑われましたが…」
 「なに、安泰寺の次期の堂頭になることがいやだというのか。」
 「いやだとか、そういう問題以前でしょう。堂頭になる気があるかどうか、師匠にも聞かれましたが、私には全く現実味のない話にしか聞こえませんでしたし、師匠もどうせ無理だろうというようなことをいっていましたよ。」
 「ふざけているな、アイツは。オレにはもうじきオマエを副住職に任命すると約束していたよ。今はその手続き中のはずだった。そして三年後、アイツが引退してオマエに席を譲ることになっていた。師匠のオレを否定したばかりでなく、弟子のお前まで否定しやがって。」
 なるほど、そういう話になっていたのか、私の知らないところでは。それでは、師匠に疑われても無理がありません。常識的にどう考えても、私が知らないはずがないのですから。
 「先生が私にいろいろと気を使っておられようですが、これから大阪城公園でテントは貼って坐禅会をやろうと思っていますので私のことなんかご心配なさらなくても結構です。自分の道を自分で歩みますから。」
 「まぁ、そういわずによく聞け。オレは寺を二つも兼務している。その内の一つをやるよ。そこに入って坐禅会でも何でもやったらよい。どうせ近い内、安泰寺の堂頭に引退してもらうから、その時はオマエの力がいる。力になってくれるよな?」
 半年前に師匠からいわれた、「大藪先生には気をつけろ、身動きはとれなくなる」という忠告の意味が少し分かるような気がし始めました。
 「申し訳ありませんけど、それは無理です。今はホームレス以外に何もやりたくありませんし、考えたくもありません。それに安泰寺のことは、今の堂頭さんが決めることですから、仮に先生と私がここで相談としたも、なんの今もないではありませんか。」
 「しばらく好きなことをするのは勝手だが、いずれ安泰寺の話はまた出てくるよ。その時、オマエはどうするか。」
 「師匠からその話が出れば別ですが、先生とそんな相談をしても仕方ありませんよ。師匠から辞めるという話は聞いていませんし、私に跡継ぎを期待しているとも思えませんから。」
 「それを聞いているのではない。やるかやらないか、その決断を攻められて時にどうするか、そこが聞きたい。」
 「百パーセントありえない話という前提ですが、師匠から『やれ』といわれればやりますよ。」
 そういう私の心の中には、安泰寺のことはすでに過去の出来事でした。早く誰にも縛られない、自分の道の第一歩を歩み出したかったのです。


ホームレス入門

 そして九月一三日の夜に、ようやく大阪城公園に生活拠点を移しました。ピース大阪より「においの森」を北へ横切って三分のところです。城から南西の方角にある玉造口。かつては大阪府警が拳銃の射撃訓練を行ったという、石垣に囲まれた堀の一角がありますが、その高さ十メートルを悠に越すであろう石垣の見晴らしのいい場所にテントを建てました。ほかのホームレスに見習い、周りをU字の形でブルーシートで囲みました。眼下には大阪ビジネスパークのビルが立ち並び、左手には城が見えました。デートスポットならではの最高に綺麗な夜景でした。ただ、夜の騒音には参りました。サックス・ドラムス・ギターなど、いろいろなミュージシャンがそれぞれの場所を構えて練習をしていました。巨大なジャズオーケストラがようやく静かになったころには、朝方でした。現覚さんにもらっていた茣蓙と座蒲を堀の淵で並べ、一人で坐禅をしました。緊張感のある二時間の坐禅のあと「お隣さん」に顔を出しました。
 「お願いいたします。挨拶が送れて申し訳ございません。昨夜よりお世話になっている者ですが、今後こちらにテントを張ってもよろしいでしょうか。」
 緊張のせいか、僧堂の時のようなしゃべり方になってしまいました。
 「オォ、かまわんよ。」
 手に提げていた一升瓶がものをいったか、ニコニコと返事が返ってきました。眼力の凄まじい彼の名は洋さんでした。そして最後に言いました。
 「ここは各々、自分の身を自分で守ってんねんで。手助けなんか、余計なお世話なんかせんやろな?」
 こうして誤解されることは度々ありました。ホームレスの救済のために公園に来たのではないか、と。そんなつもりはまったくありませんでした。救うとか救われるとか、そんなのではなく、彼らをたんにホームレスの先達として見習おうとしていただけです。彼らの生き方を社会問題だと思ったことは当然一度もありません。逆に、彼らが社会に一つの問題解決を提供してくれているように見えました。彼らの多くはアルミ缶を集めて生計を立てました。当時一キロのアルミ缶は百円で買い取られたので、一晩で七、八キロ集めれば次の日は充分生活ができるわけです。中にはテントの前で「パンク修理五百円」などという看板を立てて、公園の来客を相手に商売するホームレスもいました。木造作りの玄関の前に花の植鉢を飾ったり、愛犬を飼ったり、車のバッテリーや発電機を使って冷蔵庫やテレビを動かして、明るくかつ逞しく生きていました。ホームレスよりも毎朝、肩を落として駅からビジネスパークのビルの群れに向かって急いでいるサラリーマンやOLの方を救済しなければ、と思いました。


辻説法

 ホームレスと競争して空き缶を拾うつもりはなかったので、数日おきに托鉢に出かけました。京橋・千林・難波や天王寺、たまには神戸の三宮まで足を伸ばしました。現金収入の手段としてではなく、当初は辻説法の機会だとも考えていました。
 「毎朝六時から八時まで大阪城公園で坐禅をしています。一緒に坐ってみませんか?」
 という看板を首に提げながら立っていました。これが「流転会」の始まりでした。「流転」という言葉は仏教用語として「生々流転」とか「流転輪廻」とか、凡夫が自ら積んでしまった業に流されてしまうというネガティヴな意味合いで使われることがほとんどですが、私はそうではなく、「一切を手放して、この身をも心をも大きな流れに任せる」という風に解釈しました。そして「流転」という便りも何週間置きに書いて托鉢の格好で配りました。その第一号は次のとおりでした。
 「坐禅をして、何になるか? その答えはハッキリと坐禅をしても何もならない、ということです。われわれ人間は絶えず、何かを求めて生きています。それは金であったり、恋人であったり、学校や会社での成功であったりします。最終的には現在の自分に欠けている「しあわせ」を追いつづけているのでしょう。しかし、一生懸命に「しあわせ」になろうとしている自分は今ここ、この自分の本当の有りようを見失って、自分をいつも留守にしているのではないでしょうか。『しあわせ』になろうとしているうちに、『しあわせ』とはいったい何なのかということも、今この自分はすでに幸せのど真ん中にいるのだという現実も分からなくなってしまいます。いったん、求めることを止めなければなりません。何かになろうとはからって坐るのは坐禅ではありません。そう言うはからいを止めにして自分を坐禅の中に投げ込んで坐禅に任せれば、始めて坐禅が坐禅として行われます。そのとき、自分ではなく、坐禅が坐禅をします。と同時に、自分が始めて本当に自分になり、『自分』をします。」


ディオゲネスの樽

 私の気持ちは「犬の哲学者」とも「コスモポリタンの元祖」とも言われる、樽の中で暮らしていたディオゲネスそのものでした。紀元前四〇〇年ころにアテネの郊外に住んでいて、樽を転がして好きな場所に移動しました。樽の他に彼はこれという持ち物は何もなく、天気のいい日は樽から抜け出して、河原でひなたぼっこをしていたといいます。いわばシンプルライフの先駆者のような存在です。彼が残した多くの逸話の中で特に有名なのはアレクサンドロス大王との問答です。大王はわざわざ彼に挨拶をしにこられました。
 「人はお前を無欲と呼び、幸せだというが、本当かいよ。欲しいものがあれば、なんでもやってやるぞ。」
 「何でもやってくれるなら、そこをちょっとどいてくれないかなぁ。日が当たらないのだ。」
 ほどほどの快楽主義で有名なエピクロスなどとは対照的な実践論です。
 ディオゲネスはもともとアンティステネスというキュニコス派の祖として知られる哲学者に弟子入りを願ったところ、アンティステネスは弟子を取らないと断りました。それでもしつこく頼み込んだディオゲネスの頭を怒って杖で頭を殴ろうとすると
 「どうぞ殴ってください。その木は私を追い出すほど堅くありません。」
 と、その庭詰めに見事に耐えたそうです。知事清規に出ていた法遠和尚にも負けない意気込みです。またある時、昼間なのにランプをつけて、「人間はいないか。人間はいないか。」と叫びながら街の中を歩いていたそうです。一個半個でもいいから、本物を探していたのでしょう。


ホームレスの「正法眼蔵」

 古代ギリシャまで遡らなくても、日本の道元禅師だってホームレスの私の境地を「現成公案」の中で見事に表しています。
 「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。」
 無限の海を泳ぐ魚、無限の空を飛ぶ鳥、遊々自適。毎日毎日が楽しくて仕方がなかったのです。若かったころの息苦しさは何だったのでしょう。安泰寺にいたころの「鬱密深沈」とした気分はどこへ消えてしまったのでしょう。
 「現成公案」の言葉は続きます。
 「しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。」
 先に人生を極めて、後から生きようとしましたから生き辛かったのです。なんらの保証もないホームレス生活という「大海」に飛び込んで、初めて
 「なぁんだ、オレって泳げたんじゃないか」
 という気づきがありました。私が安泰寺を出たときに、叢林は「自分たちで食べる米くらい、自分たちで作る。必要な現金収入も、人の力によらず自分たちで何とかする。」という スタンスでした。
 「地に因りて倒るるがごときは、還って地に因りて起く」
 をあくまでも大地に足をしっかりとつけた現実生活として解釈し、その実践に徹しようとしました。宙に浮いていた大学出身者に大いに勉強になる生活でした。ところが、安泰寺を出て初めてこの言葉に続きのあることを知りました。道元禅師は「恁麼」の巻の中で書かれています。
 「西天に道取せず、天上に道取せずといへども、さらに道著の道理あるなり。いはゆる地によりてたふるるもの、もし地によりておきんことをもとむるには、無量劫をふるに、さらにおくべからず。まさにひとつの活路よりおくることをうるなり。いはゆる地によりてたふるるものは、かならず空によりておき、空によりてたふるるものは、かならず地によりておくるなり。もし恁麼あらざらんは、つひにおくることあるべからず。諸佛諸祖、みなかくのごとくありしなり。」
 いまだだれも言いえたことのない、一枚上の道理があるというのです。地によって倒れた者は地によって起きようとしても無理です。「空」によってのみ起きられると道元禅師はいいます。先の「地」を文字通り「大地」と解釈するのであれば、「空」を「おおぞら」と解釈してもいいでしょう。現実生活に行き詰ったからといって、下を向いてせっせと働いてばかりいても仕方がありません。頭の上で開かれている大空に気づかなければ!私はまさにこの大空に助けられました。寺がなくても、住む家がなくても、大地は私の畳となり大空は私の屋根でした。

(ネルケ無方)

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