流転海46号

安泰寺文集・平成21年度


良和 (鳥取県・六十五歳・清宗院住職)


   一週間前のことです。檀家さん、仮りに0さんということにします。田んぼに墓石が転がり落ちたので、元に返すのに一人では無理、手伝いを兼ねてお経をあげてくれとの依頼がありました。

 その場所は、二十年前、私がこのお寺に来て耕作地を探していることを知って、最初にお使い下さいと提供を受けた所です。山のかなり上まで開けた東向きの斜面で段々畑、棚田でした。当時、既に耕作しなくなった荒れた場が点在していました。周囲の山も植林はしてあるものの以後の手入れがなされないままの状態でした。朝は早くから陽が当たり、風通し、土地の排水も良く、作物の質は良いとのこと。両側にせせらぎが二本、細路は山の尾根越しに隣の村と繋がっていて、以前は村の幹線道路の一つだったとのこと。ただ、広い道路からは離れており、細い、急な坂道は、農機も小さなものしか入れません。昔ならともかく、不便なところです。そんなこともあって、私は二年ほどで、条件の良い、他の便利な場所に移り、そこからは身を退きました。

 当時0さんは五十代後半だったはずです。土建関係の会社に勤めておられました。お酒を一緒に飲む機会に、あの田畑を会社を退めたら、以前のようにきれいにしたいと話されていたことを覚えております。そして0さん、会社を退められて、先ずは周囲の山の整理からでした。雑木の伐採、植林してある所の間伐、下枝の切り落とし。下の広い道路から見上げても、次第に明るさが増して行くのがわかりました。この場から身を退いた私も、近くにお墓があったりして、その後も年に一回程度はそこへ行く機会がありました。年々、その都度、畑、田んぼと整理され、路も調い、せせらぎにも石が置かれたりして洗い場も出来、作業小屋も建ちと、数年の内に、 村が暮らしの場として盛んだった住時の姿に見事、蘇りました。秋になって稲架の立ち並ぶ風景は絵のようでさえありました。このことから思いますに、この村、今ではすっかり山となっている所も、以前は少くとも山の裾、下から三分の一は耕作地として開けていたということです。村は今よりもっともっと広かったはずです。その頃、私は機会ある毎に吹聴しました。地方の活性化ということ、イベント等をやることではない、この0さんのような働きこそであり、それ以外には無い。今風のイベント等は空騒ぎであり、結果としてはむしろ地方の衰退に繋がることである、と。そして私も0さんに励まされるようにして、田んぼに精を出しておりました。

 ところが、この数年、私もですが、0さんイノシシの対応に困っていると聞くようになりました。そして今回のお声がかりです。田んぼに落ちた墓石はイノシシの仕業です。急斜面での段々になっている畑、田んぼ。電気柵、ネット、トタンではもう防ぎ切れません。近くでみればそこいら中、イノシシに荒らされた跡です。三反余り、二十枚ほどの田んぼ、一枚の田んぼは小さいものです。大型機械の入る昨今の広い田んぼからみたらママゴトのような広さです。ただ、山の田んぼをやっている端くれの一人として、私にはそこでの労力がどの程度なのかよくわかります。イノシシばかりではなく、今年は天候にも恵まれず、収穫はほとんど無し。春から、休み無しに続いた田畑のお守り、総てパーッです。0さん「ワシも八十才、もうトシだ。今年限りでもうヤメにする。」

 0さんと同世代の二人の方も勤めを退めてからそこでの山・田・畑のお守りをしておられました。その内のお一人は昨年脳卒中で今は車椅子生活、もうお一人は片足を引きずっての昨今。三人ともお子さんはありますが都会に出たりと、この地の後を継ぐことはありません。0さんがやめられたら、この地はすぐに荒れること目に見えています。再び元に帰ることはありません。

 0さんと二人して、転がり落ちた墓石を元に返して、依頼されたのはこのお墓の霊に対してでしたが、私はそれだけではなく、これまでにこの地にかかわった総ての人の労に対して、精いっぱいの思いを込めて、グツド=バイとお経をあげました。その日は晴れて、青空の広がる一日、紅葉し始めた周りの山の木々。明るい陽差しに映えて、写真にでも撮ったら、日本の棚田百選の一つとでも呼べる眺めでした。


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