流転海46号

安泰寺文集・平成21年度


由紀 (千葉県・三十九歳・講師)


 今年も秋らしい気配とともに安泰寺原稿のお誘い、どうもありがとうございます。石庭、見に行きたいです。実際には安泰寺も時とともに変わり、自分も変わり、世の中もそれなりに動き、子どもは明らかに成長する、という日々があるのですが、自分の場所はどこなのか?迷うわけでもなく、でも見えるところに場所はない、探す気分もない、という今日この頃です。子どもの成長は無欲だから美しい、美しいから悲しいところもあるけれど。成長成長と当たり前のように成長を目指す世の中は美しくない。成長しなくて何か悪いのだろうか?新型の台所に誇りを持つ主婦たちや経済的グローバリゼイション汚染らしきものをそこかしこに見るばかり、無力の悲しさもありますが、さすがに小学生から高校生も含めて子ども達は柔軟性があり、触れると一瞬元気になったりもします、ときには。でもどうも精神的老年期に差し掛かっているようです。八十年生きるとすれば人生はまだ半分なのだと言われてもぜんぜんぴんとこないのですが、若さも老年もどちらもわからない、中途ハンパな感じ。そういえば今年も東北のお神楽を見に帰りました。それが自分には何よりも大事な行事だと思うことがある、なぜか。無名の無数の芸能者、その確かな無心のからだが動く、空気が動く。それだけで充分な気分にその瞬間なってしまう、ほんとうにこんなことがあるんだ、あらわれてはいなくなる、でも消えない流れは確かにここにある、ずっとあった。それは私がいなくてもありがたいもの。目の前にあるし、ずっとあったもの。こころみたいなものが無くなったら簡単になくなってしまう、捕らえ難さでもある。でもそんなに簡単になくならないかもしれないよ、まだあるのだから。目に見える動きが消えても、むかしのギリシャからだって読めば伝わるものもあるんだし。目に見えないものがこんなにもそこにある。矛盾を排出してクリーンに増殖するんじゃなくて、矛盾をかかえたまま生きる、それしか無いと思う。昔から同じじゃん。自分が変化しないことがうれしく感じられるときがある、一瞬の幸福感。


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