流転海46号

安泰寺文集・平成21年度


庸行 (大阪府・六十七歳・無職)


 私の父が、この八月十三日夜 胸部大動脈瘤の破裂でなくなりました。空十歳近い年齢でした。胸の痛みを訴えたため自宅から救急車で病院へ運ばれたその翌日の夜でした。ここ十年ほど父と私と妻の三人の同居生活をしておりましたが、常々父は死んだらある箱を開けよと申しておりました。私ごとで恐縮ですが、父の霊へのはなむけともなればと思い、何がその箱の中に残されていたのか、少し紹介をさせて頂きます…。

 父は明治四十五年という明治の最期の年に佐賀県唐津市という江戸時代は幕府の直轄地でもあった町に生まれました。生まれて家がわりと海辺に近かったためか、終生鰯を大変な好物としておりました。当時、家は洋服屋をしていたとのことで、いつ頃からのものかは聞きませんでしたが、父の遺品の中に時代物のシンガーミシンが残されています。父は洋服屋の血を引いたのか、生前自分用に俳人がかぶるような帽子や私のために坐禅用の坐蒲など何でも器用にそのミシンで作ってしまいました。とにかく古いものの再活用・工夫の達人みたいな人間でした。古くなったからとわれわれが捨てると不機嫌な顔をするのが常でした。朝は朝で、自分で工夫した道具を使って六つ切りの食パンを二つに切り、その間に自分で焼いた玉子焼きや溶けるチーズや野菜などをはさみ、三分の一程度を切りとり朝食とし、残りを昼食に残しておりました。飲み物はといいますと、大きなマグカップに一杯の牛乳を入れ、そこへ黄粉や黒砂糖など自分で体に良かれと思うものをいろいろ入れ、これまた朝と昼に分けて飲んでいました。つまり朝飯と昼飯は自分で作るという本当に世話のかからない親でした。食事の前には仏壇と神棚のお花とお水を換え、食後は仏壇に向かい約二十分程度お経を読み、先祖の月命日には、観音経と修証義をとなえるのを常にとしておりましが。そして読経の後は写経をし、午後はワープロに向かい終日短歌を作ったり、他の人の短歌の校正・講評などの作業に精を出しておりました。写経は七千枚や八千枚はしていたように思います。そして夕刻には庭に出て少し散歩をしてから、自分で工夫した体操(若いころから弓道・スキー・ゴルフ・山登りと多彩な趣味を持っていましたので、それぞれの特徴的な体の動きを自分流に組み合わせた体操を考案していました)をし、夜は夜で、駄洒落をいいながら私と晩酌することをそれはこよなく愛しておりました。毎日をまるで機械のように正確に同じスケジュールでそして穏やかに過ごしていました。父はこの五・六年、胸部大動脈瘤を抱え、ほぼ着実にその動脈瘤は大きさを増し、ここ一・二年は既に爆発の危険水域に入っておりましたものの、日ごろは痛みもなく、死のその直前まで、誠に羨ましい限りに元気一杯に生きておりました。

 生前死んだら開けよと父が言っていました箱を開けますと、葬儀のこと、死後の連絡相手、子供や家族への感謝の気持ちなどが便箋に十数枚書き溜めてありました。永年に書き溜めたものなのでしょう、何本も削除線が入っていました。その箱には二つの短歌が入っていました。

一つは、

  神のみの知ることなれど         いささかはわれも知りたし子らの行く末

というものでした。

 短歌が書かかれていた半紙には、「昭和五十一年二月 比島へ送る」と添え書きがありました。それは私が初の海外赴任地比島(フイリピン)へ旅立った月でありました。その時は全く気付きませんでしたが、父もいろいろと心配してくれていたんだなぁと今さらながらつくづくと思います。私は、その年の約一年前に今の妻と婚約していましたが、婚約直後に、父は五枚ほどの手紙を私によこしてくれていました。そこには「互いに支え合うことの大切さ、そして互いの短所を許しあえるようになった時そのとき真の夫婦になること。そしてそれは夫婦のみならず人間社会の基本でもある」という主旨のことが書かかれてありました。私は父とは余り口もきかなかったこともあり、私の結婚には少し不安を感じていたのかも知れないなぁと思ったりしています…。実は今年九月に私の息子が結婚式を挙げました。息子はこの短歌の作られた年の八月に生まれておりますので、父がこの短歌を作っていたころには既に妻のお腹の中にいたことになります。私は、結婚式をあげている息子を見ていて、父が短歌や手紙に託した全く同じ気持ちを抱いている自分に気付かざるを得ませんでした。そして短歌作成の年から三十五年近い長い時の流れといかに長い時が流れても変わることのない普遍的な親心というもが確かに存在すること、そしてその親心が今子供たちにもこうしてまた伝わっていくであろうことを思い感慨はまことに無量のものがありました。 もう一つの短歌は、

   平穏無事 ただこのことの有難く灯もけし終えて                      今日の寝につく

というものでした。

 目が見え、耳が聞こえ、心臓が動き、お日様が上がると眼が覚め、腹がへるとめしを食う…日ごろわれわれが当たり前と思って疑わっていないこの「当たり前」が実は文字とおり有難い、奇跡的な事なのだ! 多分この言葉が父の最大の遺言ではなかったろうかと直感的に感じました。そして父もこの言葉をよりどころに晩年を生きていたのではないだろうかと私は今思っています。

 もう一つ箱の中には「わが宝」と書かれたものがありました。父は若いころから弓道・スキー・ゴルフ・山登りという多彩な趣味に加え、若いころから北原白秋の短歌にこっていました。自身が作るだけでなくかなり長い間死ぬ直前まで短歌の指導者のようなこともしておりました。私はてっきりこの短歌こそ父が人生で一番大切にしていたものではないかと思っておりましたが、そうではありませんでした。「わが宝」と書かれた箱の中には四国八十八ヶ所を含む関西の約三百近い寺の納経帳が収めてありました。そして短歌が一番自分の人生で大切なものと思っていたが、七十歳以降に行った二回の四国八十八ヶ所巡礼こそが自分の人生の最大の宝だったと書かれてありました。そして生前は一言も私には言わなかったのですが、四国八十八ヶ所を歩いてお参りすることを強く薦める文章が残されていました。しかもなんと私の名前で八十八枚の納経用の般若心経の写経まで既に用意してくれていました。これにはさすがの私も参ってしまいました。私もあと数年で古希を迎えます。できれば古希と喜寿の二回、四国八十八ヶ所の歩き巡りをしてみようか・いや是非歩いてみたいという思いを禁じ得ませんでした。しかもそれを父と同じやり方でなく、折角用意してくれている写経は納めるとして、八十八ヶ寺で般若心経を唱え・納経帳を集める代わりに、各寺で坐禅を奉納しながら巡ってみようと私は考えています。

 日ごろ父が親しくさせていただいていました黄檗宗の和尚がおられますが、その方が枕経のときに「お父さんは並の僧籍では真似のできないような僧籍らしい生活をしておられましたね」とおっしゃって下さいました。胸部大動脈瘤破裂という病名から想像し得る死に様の中では多分最も痛みも少なく、また死の直前まで意識もしっかりとし、ほぼ全員の子・孫に得意の駄洒落を言う時間が持てたことが残された者にとっては、何よりもの救いでした。息子の私が言うのもまことにおこがましいことですが、まるで一陣の風が吹き抜けたようなさわやかさを残した父の一生でした。


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