流転海47号

安泰寺文集・平成22年度


庸行 (富田林市 六十八歳 無職)


 私は今年の五月十四日から四国遍路にでかけました。それは、数え九十九歳で昨年夏に、亡くなりました父が遺していました私名義の般若心経を初盆前に八十八ケ寺へと“配達”するためのものでした。
  インターネット情報によれば、四国遍路は、道のりは、約一二〇〇キロ、道中九五〇メートルの雲辺寺、七五〇メートル級は四ヶ寺、三〇〇〜五〇〇メートル級は十四ヶ寺あり、寺と寺の 間が八十キロほど離れているところも珍しくなく、遍路最大の“敵”は足のマメであり、多くの人が足の裏がベトベトになるくらいにマメができてはつぶれ、 そのために遍路を中断する人も珍しく無いこと、そして遍路には交通手段から言うと“団体バス遍路”“自家車での遍路”“バイク遍路”“歩き遍路”ルートから言うと、一番スタートの“順打ち”八十八番スタートの“逆打ち”、まわり方から言うと一回で全部回る“通し打ち”四つの県を一つづつ行く“一国打ち”管首相のように自分の都合に合わせて適当に少しづつ行く“区切り打ち”などがあるとのことでした。
  若いころから膝と腰に問題を抱えていましたので、歩き切る自信は全くありませんでしたが、とにかく私は、順打ちで、一回で全行程歩き切る通しの遍路をするとの覚悟を決めました。まず始めたのは、妻や親しい人に言いふらすことでした。 これは、自分の退路を絶つための作戦です。
  そしてそれに並行してコーナンというなんでも屋みたいな店で丸棒を買い求め、背の高さより少し低めの長さに切って、棒の先に私と妻の両親の戒名を書いた紙を巻き付け、その上を金襴緞子の布の切れ端で覆い、ポリ袋を被せ、娘婿が買ってくれたお守りと鈴を付け、遍路用 の杖とすることにしました。道中には多くのトンネルがあるということなので、安全のために蛍光色で反射するテープを杖の何ケ所かに貼ったりもしました。遍 路の制服ともいえる白装束と頭陀袋と傘そして遍路には不可欠な遍路地図と遍路の心得帳をインターネットで買いました。とにかく遍路は靴がポイントということで、山登りの用品店で、ウン万円のジョギング靴、厚手の靴下、弾力性の高い靴底敷きを買い、更にリュック、ポンチョなども買いました。全て防水性のもの ばかりでこれだけでもかなりの投資となりました。これでいよいよ行かないわけにはいかなくなっていきました。
  父は生前七十歳台に四国を二回歩き遍路をしていますが、詳細な記録を残していましたので、その遍路記録を見ながら、買った遍路地図と遍路の心得帳をにらみながら遍路のイメージつくりもボツボツと始めました。買った靴を履いて試し歩きもし、少しは足を鍛え、靴にもなれておかないととも思っていましたが、なかなか準備ができないまま足に不安を抱えて出発日を迎えてしまいました。
  五月十四日早朝、難波発の高速バスに乗りました。遍路姿で家を出ました。遍路姿の気恥かしさを自分はどう感じるのか試してみたかったからです。
  午前十時ころに鳴門駅に到着しました。鳴門についてまず一番札所を目指すことになりますが、何番目かの寺への途中で、散髪をすることにしました。私には、昔から一度丸坊主にしてみたいという願望がありました。しかし丸坊主にするとどんな顔になるか自信がありませんでしたので、散髪屋さんに頼んで序々に刈ってもらうことにしました。手さぐりの結果、上は十二ミリ、横は九ミリくらいでおさめることになりました。今もほぼこの時のヘアスタイルを保っています。“一生の髪型?”と出会ったのは、遍路の最初の大きな収穫だったと思っています・・・。
  インターネットでも、解説書でも、とにかく遍路最大の“敵”は、足のマメだと書かれています。足の裏全面への厳重なテーピングが、私の朝一番の日課となりました。なかなか事前対応が難しいのは、突然の“尿意”でした。体調が悪いと、いつ襲ってくるか分かりません。ノグソは何回となく体験しました。
  しばらくすると日ごろ痛みを感じたこともないような足の裏と表、特に親指の付け根の裏、表の筋肉に慢性的な痛みを感じるようになりました。荷物を体の前と後ろにかけて歩いていますので、体の中で痛くないところを探すのが難しいくらいになってきました。毎日宿に着くころにはもうクタクタです。足も痛くて止まるともう歩けないくらいの感じになります。“こんなんで明日は大丈夫だろうか?”と不安がよぎります。しかし人間の体は不思議なものです。一晩眠れば、また歩けるようになるようにできているものなのです。これも嬉しい発見でした。
  しんどいことも多かったのですが、しかし道中の自然との出会い、地元の人々との出会いそして遍路仲間との出会いは、なかなか得難いものでした。北は北海道、 南は九州から、そして外国から、性別も年齢も色々な人が、遍路に出ています。警察官で柔道をしているという三十歳代のドイツ人にも出会い、何日間かは共に歩きました。いろいろな人々とふと出会いふと別れ、思わぬところでまた出会いまた別れ・・・を繰り返す。日常生活では、なかなか味わえない貴重なそして不思議な体験でした。“お接待”という言葉はもちろん聞いていましたが、果物やお菓子を頂いたり、何回か拝まれたこともありました。道を聞くと本当に誰もが親身になって教えてくれました。
  ある時 風の強い雨の日でしたが、風にまくられたポンチョを整えていましたら、突然車がとまり、人が駆け寄ってきました。“お遍路さん、大丈夫ですか!”と声をかけ、栄養ドリンクを手渡して、そのまま車で去っていきました。心さわやかな心のお土産となりました。 遍路から帰って、ある親しい人から「一言で言うと、どうやったんや?」と聞かれました。
  『眼の前にどんなに無数の岬や峠が広がっていようと、どんな急な山道であろうと、晴れていても曇っていても、しんどくても痛くても、とにかく、今、ここで、この自分が、一歩を踏み出す以外には道がないということに気付かされた毎日だったなぁ・・・。良かったのは、それを六週間続けたことかなぁ』と私は答えました。
  事実遍路では、海岸を歩く時には、無数の岬を、また山の合間の盆地を歩く時には、無数の山裾を、超えていかなければなりません。いつも、無数の岬と無数の山裾が、眼前には広がっています。歩いても、歩いてもそれは尽きることがありません。これを内山老師が仰っている“温度と湿度の関係”と言うのだと思いますが、その多さ遠さが気になる時と、多さ遠さは確かに目に入るのですが、全くそのことが気にならない時がありました。
  遍路では“同行二人”という言葉を良く目にし、耳にします。一人で歩いていても、いつも空海さんと一緒なんだという意味だと思いますが、私は結論的には、同行二人とは“思いの世界で生きている自分”と“思いを超えた世界で生きている自分”の同行二人なのだと受け取りたいと思っています。
  遍路の意味は、訪ねるお寺にありません。納経にもありません。寺と寺の間の道中において、同行二人の時間を持つことこそが遍路の意味ではないかというのが、私の遍路に対する結論的感想です。   私は、遍路を終わってから、遍路で出会った友人に紹介され、日本宗教史や宗教民俗研究で知られる五来重氏の「四国遍路の寺(上下)」と「高野聖」という本を読んでみました。
  遍路道は、一般には空海が創ったと信じられ、道中でもそのようなことをいつも耳にし、眼にしたものです。確かに九番の焼山寺や足摺岬のように間違いなく空海が、遍路をした寺、修行した地は数多く存在しているようです。しかし、日本に仏教が入る前、海洋国の日本には、死者を海に流したり、海の向こうから救い手がやってくるという言わば海洋信仰があり、太古から和歌山や四国など日本のアチコチの海岸沿いに、修行場が既にあったそうです。その一つである四国の修行場で、若いころの空海も修行をしていたのでしょう。しかし今の遍路道を整備したのは決して空海その人ではなく、高野聖と言われる人々が、四国の遍路道を確立していったのだと・・・いうようなことがこれらの本には書かれていました。
  私は、学生時代に臨済宗の禅寺から大学に通っていましたが、お釈迦さんが、『人生とは苦である』という教えを説かれたということを聞いて、『なんでそこまで人生を暗くとらえる必要があるんだろう?もうちょっと明るく楽しくとらえられないものか!』と思ったことを覚えています。なにせそのころの私は、自分自身が、人生の暗さに全くウンザリしていたのですから、せめてお釈迦さんくらいが、人生は素晴らしいよ!明るいよ!と言って欲しかったのだと思います。
  またその頃ふと『そう言えばキリスト教でも、エデンの園からの追放とか原罪とか言うよなぁ!不思議に同じやなぁ!なんでやろう?』とも思ったものでした。
  人は、何故わざわざ足の痛い坐禅をしたり、苦しい修行をしたりするのかということも、私には不思議なことでした。もちろん何故なのかは分かりませんが、少なくとも歴史的事実として、人は身内の死とか病などの悲しいことや災いに出会うと、これは自分に罪があるとか自分が穢れているためだとか、だから神さまが怒っているのだとか思って来たということを、五来氏は、本に書いています。そして身を苦しめることによってその罪や穢れを贖い去ることができると昔から人は信じてきたとも書かれてありました。なるほどそういう心理的メカニズムが人類普遍のものとしてあったのか、その人類のDNAが自分に「人生とはなんぞや?」とか考えさせたり、坐禅に興味をひかせたりしているのだなぁと遅まきながら独り合点した次第です。
  なんで行基が、ため池や五重の塔を作ったのか?なんで空海が、満濃池なんかを作ったのか?なんでここまで空海信仰が広がったのか?・・・これらの人達が、偉いからそこまでできたんやろうか?というのも私の根強い疑問でした。五来氏の『高野聖』を読んで、「聖」の存在に、この疑問を解く一つの鍵があると思いました。更に言えば仏教が存続してきた背景には単に教えが素晴らしということを超え、やはり裏方の存在があることを知りました。
  同書四十八ページに「・・・仏教の歴史もその経済現象を除いては所詮抽象に過ぎない・・・私はすでに別論で、古代仏教を荘園経済、中世仏教を勧進経済、近世仏教を檀家経済、現代仏教をすこし風刺的に、観光経済と規定した・・・」とあります。現代仏教は葬式経済とでもいうべきかと私は思いますが、それはそれとして、中世の勧進経済を担っていたのが各寺所属の“聖”だったという訳です。律令時代には、各寺院は国の手厚い支援を受けていましたが、国にその力がなくなるにつれ、各寺は、自力で建物の維持・修理費用、修行者の生活費用を賄わねばならなくなりました。そこで自分の寺や祖師の有難さや霊験を各地へ売り込みに行って、お金を集める活動つまり“勧進”が必要となったという訳です。それを担ったのが、高野聖とか善光寺聖とか言われる“聖”だったのです。 名前は聖ですが、彼らは下級僧侶だったそうです。そして今や高野山では聖が存在していたことすら歴史の闇の中に葬り去られ、高野山はただ有難いとあがめられるようになっているとのことです。しかし仏教が存続するためには、下級僧侶の布教と集金の活動が不可欠だったのです。
  他方聖であれなんであれどんな活動にも、リーダーが必要です。活動の大義を体現すると同時に生きるために、聖のために飯のタネを創り出す人がいなければなりません。行基や空海は勧進の大義を、体をもって示すとともにため池築造、寺の新築、改修などの言わば当時の“公共事業”をお上などから受託して、そして聖たちに職と食を与えたのではないかという推察です。律令制度の崩壊で、国のお金が寺に回らなくなり、その結果、それぞれの寺が、勧進のために聖を全国に回らせて金を集めるために、霊験を説いて回ったことが、空海伝説がかくも日本各地に広がった背景にあり、四国遍路がつくりあげられていった本当の事情であったのか、空海や行基が、聖の親玉的な役割を果たしていたことが、大工事をなし得た理由であり動機であったのかと、独断を交えて独り合点した次第です。
  五来氏によると、穢れや神の祟り、苦行による禊が修行の原点であり、そこに四国遍路の原点もあったというわけですが、キリスト教は、原罪とか神との契約という概念で、穢れた神の祟りという観念が支配していたいわゆる原始宗教から脱皮して世界宗教になりました。しかし両者には、苦や罪という概念はどこか共通しているように思います。神や神の罰という観念にも共通点があるように思います。しかしわが釈尊は、キリストと同じ時代に生きながら、苦は、何もカチッとあるものではなく、単なる“集”に過ぎず“集”を手放しさえすれば “滅”するのだ、神の助けを借りずに、と説かれました。
  私は学生時代に、大学の近くで、一年ほど持田閑堂という全盲の老師のもとに通い般若心経の講義を受けたことがありました。同氏は、戦争の完全敗北を日本人の宗教意識の向上、つまり素朴な神秘信仰からの脱皮の機会にさせたいと願われ、般若心経こそがその役割を担うものであると説いておられました。同氏は、“もし玉は火をもって試み、金は石をもって試みるならば“安心(あんじん)”は死をもって試みられるべき”であるとして、究極的なる“安心”の類型として “転生の安心(生まれ変わる)”“往生の安心(極楽に行く)”そして“無生の安心(空)”の三つを挙げられました。この分類を借りるならば、遍路を産み出した原始宗教の修行は言わば転生の安心を、キリスト教は往生の安心を説いているといえないこともないと思います。
  いずれにしても四国遍路、キリスト教、釈尊の教えとそれぞれに全く違うように見えながら“人生の苦”にどう対応していくのか、どういう生命観・人生観を持つかつまり人生においていかにして“安心(あんじん)”を得るかということの回答を求めてきたという点では、三者とも共通点があるように思います。
   四国遍路と四苦とが、私の中で何とかつながったというごく当たり前の気付きに到着してところで、拙い話を終わらせて頂きたいと思います。
  お釈迦さんは、『人生とは苦である』という教えを説かれたといいます。私は、お釈迦さんは、『人生とは苦である。ただしそれは“思いの中の世界”の話であって“思いを超えた世界”では人生は喜びに満ちたものなんだ! 今、ここ、この場とそこで出会う人々は、実は今まで気付かなかった新しい自分なんだと受け取るとき、苦というものは消えてなくなる、苦とはそんなものなんだ! しかし同時に苦としか感じられない“思い”は実はその人の個性の、そして生きる力の源泉そのものなんだ!生きているということは、つまりは“同行二人”なんだ!』と説かれているのだと独り合点してこれからは生きて参りたいと思います。
  お読み頂いてありがとうございました。


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