流転海48号

安泰寺文集・平成23年度


草薙真龍


 今年の秋に檀信徒の人達と一緒に永平寺にお参りした。門の入り口で一礼して入る。境内には杉の木がそびえ立っていて、その道の職人が高い木に登って枝を切り落としていた。高いところにロープをかけて、木に登り太い枝を切り落としている。真下の地面は美しい庭園で大きな岩を並べているのでとても危険な仕事だ。山深い此の大きなお寺は沢山の観光客で賑やかだが静かだ。檀信徒も私もその夜はお寺に泊まった。明けて早朝の行事に参加し終わって皆は帰りの仕度に忙しい。忙しいと言っても土産物を買うことのようだ。お参りした記念にと思うらしい。私は時間が有るので遺品を展示している部屋に入った。入ってすぐの所に漢字だらけの書き物が広げられている。「普勧坐禅儀」だ。手とか足とか眼とか鼻とか右とか左の字が読める。坐禅のことだなと分かる。間違いを消して隣に書き直している箇所もある。壁に静かに白いスクリーンが降りてきてなにやら映画が始まった。面白そうなので見ることにした。何人かの雲水が坐禅をしていて静かな雰囲気を醸し出している。突然鋭い声がして「坐禅は身心脱落なり」と指導者の老師が言い放ったのだそうだ。坐禅中に眠っている僧に眼を覚ませと励ましたそうだ。勿論眠っていた僧は目を覚ましただろう。その隣で坐禅をしていた道元禅師はその一句で坐禅を明らめた。そんな様子が字幕で告げている何のことだろうか。時間を掛けて内容をしっかり勉強すれば分かるだろうが私には難題だ。しかし眼を覚ますのに時間は要らないことだけは分かる。気が付くのに時間を必要としないところに妙に納得する。
辨道話の「名利におもむきやすく惑執とらけがたし」が見えてくる。何の脈絡も無いのに妙に納得する誰かの教えを待つまでもなく全く確かなことなのだ。 帰る時が来たので荷物を持って外に出る。昨日の樹の木を払う職人はまだ来ていない。晩秋の永平寺の朝の空気は冷たい。しかし日当たりを選んで蝶々が優雅に飛んでいた。小さな体に大きな柔らかい羽根を持っている蝶々の羽根の音を聞いた人はいるだろうかとバカなことを考える。帰りに門で一礼して寺の外に出た。名利を離れた人たちが此の地に居られたのは確かに違いない。わが国の黙照の坐禅は此処から始まったのだ。


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