流転海48号

安泰寺文集・平成23年度


中村雅恵


  安泰寺での一年が過ぎた。春には私自身の安泰寺での修行の意味を問い直すきっかけがあった。この秋からは二人しかいない長期参禅者の一人として叢林を動かしていかなければならないという事態になっている。今わかる、この一年、暢気に安泰寺生活を楽しんでいたんだと。
  しかしこの一年で私なりにたくさんの気づきを得、自身の核となるものが少しづつではあるが育っている実感もある。充実しているのだと思う。 
  安泰寺は作法がなっていない、安泰寺は俺が変える。と意気込みを持って参禅している者、片や、あくまで衝突を避けたいがために、すべてはあるがままに受け入れるという、一年過ぎても「今この時、そのこと」に全いのちをかけていない、その気がない暢気な雲水にむけて、この秋師匠から「安泰寺はお前がつくる、お前なんかどうでもいい、ということをよく言っているが、まずもともとある安泰寺を見つけなければならない。」という教えがあった。 
  安泰寺を見つける・・・   
  安泰寺ではこと細かに教わることがなかった。ウィキにマニュアルが載っいるので、それを参考にするだけだった。でもこれだけでは安泰寺は見つけることはできない。
  この一年で解ったことのひとつに、安泰寺には「誰々スタイル」という参禅者ごとにルールがあって、長期参禅者が変わればその都度少しづつ変わっていくのが安泰寺スタイルだということだ。なんせ自信を持って言い切っている、時には怒り出す始末だから知らない者にとっては妙だと思いながらも受け入れざる終えない心境になる。だから一旦受け入れるしかないのだ。日本人気質なのかもしれないが・・・ しかし、それはある意味安泰寺スタイルではあるが安泰寺スタイルではなかった。 
  そんな中で一年の間に師匠から有言、無言に教わった安泰寺の坐禅について私なりに見つけていることを書いてみる。 
  服装は派手な色合いのもの、肩や膝が出るものは控える。摩擦の音がするビニール系の素材は避ける。
  音に関してはかなり注意が必要である。衣服の擦れる音、足音、短期参禅が始まると、中にはかなりマナーの悪い人もいて、合図に気が緩みため息、あくびをする人がいるがこれはもっての外である。 
  坐禅中は不必要な動きはしない。痛みがあっても動かない。ましてや、痒いから掻く人、チョッと髪や服を整えるために動く人は安泰寺で坐禅をする資格のない人である。他のお寺では坐禅中動いたあと(動いてもよいそうだ)合掌する習慣のところもあるようだがこれもNG。
  座布団の周囲に個人的なものは置かない。
  経行はゆっくり、しかし間の行動は速やかに。直堂の鐘を鳴らずタイミングでも絶妙でなければならない。坐禅の時間全体に緩急のリズムがある。
  経行中は、ブレイクタイムではないので部屋には帰らない、コーヒー、タバコ、ネットをするなどは論外。最小限でしかも慎ましくトイレに行く以外は坐禅のときと同じように集中して経行する。 
  坐禅により仏道を成就し、今の私たちに連綿と伝えてくださっている仏祖、諸師への畏敬の念を持ち、坐禅そのものに敬意をはらい向かっているように感じている。
 すべては、今にどれだけ集中し、いつ死んでもいいという言い訳、建前のない世界で向き合っているかどうか、ということに尽きる気がする。実際、師匠はいつも「坐禅のままの姿でいつ死んでもいいという覚悟で坐禅をするんだ」「いくらでもお墓は作れるしお経も唱えてあげるから心配しないで」と付け加えがある。
 安泰寺の坐禅は一切値踏みのない、正真正銘の坐禅であると言える。この十一月の五日間摂心で直堂をして改めて思った。 
  以上、諸師、先輩の方々、安泰寺の坐禅について訂正、追加などありましたら忌憚のないご指導を賜りますようお願いいたします。


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