Kasahara

哲学者の永井均は『<子ども>のための哲学』で、哲学を「子どもの哲学」(存在の問い)、「青 年の哲学」(人生と生き方の問い)、「大人の哲学」(世の中のしくみについての問い)、「老人の哲 学」(死の問い)の四つに分類して、自身の哲学観を展開している。

この区分を借りて仏教について考えてみたらどうなるだろうか。まず、青年の仏教は、人生の意 味とは何か、いかに生きるのかという問いから端を発する。古来より、この疑問から仏教に触れ た人の数は知れないだろう。 

大人の仏教は、世の中の秩序を保つためや、社会をもっと良くするために仏教の力を借りよう とする。鎮護国家の仏教や、現代では環境問題や平和運動に関与するエンゲージド・ブディズム がこれに含まれるだろう。 

老人の仏教は死の問題の解決を仏教に求める。もちろん、実際に老年期にある人間だけが、 老人の仏教の実践者ではない。たまたま最近読んでいた本によると、横田南嶺さんは、なんと 「幼いころから『人間が死ぬ』ということだけを考えていて、一〇歳でお寺にも通うようになった」と いう! 

そして子どもの仏教は存在の不思議から始まる仏教である。子どもの仏教のイメージを伝える のには、藤田一照さんの「星空体験」がぴったりだ。一照さんが十歳のころ、夜道を自転車で走っ ていて、ふと空を見上げたとき、「この星空を見上げているのは宇宙でこの自分しかいない!」と いうことに気づいて衝撃を受け、名づけようのない大きな疑問の塊が空から降ってきたように感じ たという。後年、坐禅と出会ったときに、その体験と坐禅がリンクしてついには禅の道に入るよう になったそうだ。 

四つの仏教それぞれに重要であるとは思うが、私が関心があるのは、何と言っても子どもの仏 教である。ずっと世界と自分がここにこうしてあるということが不思議でならなかった(南嶺さんの ようにそれだけを考えて来たとは言えないけれど)。じつを言えば、一照さんの体験談を読んで、 それだったら坐禅をやってみようと思って、いつも間にか安泰寺まで来ていたのである。また、個 人的な関心にとどまらず、仏教と言われるものが世の中に溢れる単なる人生論や社会維持や改 革の手段や、死に対する慰めで終始してしまわないためには、この存在という世界の根底に触 

れる子どもの仏教から、いつも新たに出発する必要があるとさえ言えるのではないかとおもう。