安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2011年 7・8月号

逃げる人。逃げない人。ゆずる人。ゆずらない人。
サバイバル・レッスン (Part 4)


 なぜ日本にいるの?いつドイツに帰るの?それとも日本に骨でも埋めるつもり?

 たまにそういうふうに聞かれることがあります。
 私が日本にいる理由は簡単です。日本が好きだからです。
 日本がすきということは、日本の豊かな自然がすきだとか、日本の美味しい米がすきだとか、というより、日本の人々が好きです。日本的な人間関係が何よりもすきです。
 ですから、この「サバイバル・レッスン」であれこれ日本や日本人にたいして批判めいたことを書いているのも、決して日本が嫌いだから書いているのではありません。嫌いであれば、もう特にドイツに帰っていると思います。
 すきだからこそ、ドイツ人の私の視点からあえていろいろな問題定義をしているだけです。

 先日、京都のある大学の先生から、私が3月の末日に書いた「火中の蓮」の前号に対する、フィードバックをいただきました。今まで日本人からこういった反応があったのは極めてすかなかったので、非常にうれしかったです。
 メールの全文の引用する許可はいただいておりませんが、内容を要約いたします。

1)現代の大学は、社会で直接役に立つ学問が中心になっており、人間の生き方そのものを語れる先生はあまりいない
2)ドイツにも、偉大な哲学者を語れる人はいるが、本当の意味で哲学のできる人はいなくなったのでは?
3)昔、ドイツの大学で、受け入れて欲しいと言ったわけでもないのに、「外国人のあなたを受け入れる余裕はない」というお偉い先生にあったことがある
4)ドイツでの日本学(Japanologie)のレベルもそう高くない
5)京大の先生がすべて「教える」だけで「学ぶ」態度がないとは思えない
6)日本の大学教育そのものが、現在のドイツに比較してそれほど劣っているとも思えない
7)そうでなければ、アジアのなかで日本だけがかろうじて西洋列強の植民地にならず、戦後も世界第2位になったことなど、説明できない
8)カンニングをした学生は本当に絶賛するに値する存在なのか?ドイツでは、カンニングしてもいいのか?カントなら「君の行為は道徳的には間違っている、しかし、その独創性、手先の器用さに免じて許そう」と言っただろうか?
9)災害の直後、日本を離れるドイツ人を見て、これまで世話になった日本の知人をさっさと捨てて、自分は逃げる場があるからさっさと帰るという態度にびっくりした
10)ドイツ人は自分たちしかまともな情報は持っていないと信じて、皆すべてドイツが優れていると信じ込んでいる。ドイツが世界中に撒き散らした「日本全土が汚染されている」かのような報道には、腹の底から怒りを感じている。ドイツのニュースなど、最初の日から、津波で亡くなった人よりも、原発のことばかり報道してきたが、こののち数十年たっても、日本人の平均寿命のほうが、ドイツ人のそれよりも長いと確信している
11)ドイツでの原発反対運動は理解できるが、日本人全員が、安泰寺のように薪を燃やして暮らせば、瞬く間に日本の山は北朝鮮のように禿山になってしまう
12)現にドイツはフランスの原発からエネルギーを輸入して不足を補いつつ、自らは原発反対を唱えている。他者にリスクを負わせての環境保護というのは利己的ではないか?
13)「自分は分かっている」と思い込んでいるドイツ人こそ信用できない。日本にもまともな情報源はある。どうぞご心配なく。

 厳しいけれども、すべてごもっともなご指摘です。しかし、そこで生意気なドイツ人が簡単に折れるわけにも参りません。返事のメールを書きました。

 挑発的な拙文を最後まで読んでいただき、さまざまな的確なご指摘をありがとうございます。
 先生もドイツでいろいろなつらい思いや失望を体験されているようです。ひょっとして、洋の東西を問わず、高い理想を胸に抱いて留学していた人たちに共通している体験かもしれません。
 ドイツの学問のレベルもそう高くない、特にドイツの日本学なんかは・・・私も同感です。哲学者について語るものはいるけど、本当の意味で哲学する人は少ない、これもおっしゃるとおりです。しかし、私の偏見であれば申し訳ありませんが、ドイツではこの状況がまだ問題視されているだけでマシと思います。日本なら「哲学するって、哲学者を語ることではないか」といわれそうです。日本の心理学についても、岸田周は確かに似たようなことをいっています。欧米の心理学者について研究することを心理学と勘違いしている人がほとんどだとか。唯一、日本特有の哲学を編み出そうとしたのは西田幾多郎あたりではないかと思いますが、これも従来の西洋哲学をごっちゃ混ぜして、鈴木大拙ふうの「東洋思想」を付け加えたに過ぎない、というのは私の傲慢でしょうか?
 少し気になったのが、以下の箇所です。

「日本の大学教育が、現在のドイツに比較してそれほど劣っているとも思いません。でなけば、アジアのなかで日本だけがかろうじて西洋列強の植民地にならず、戦後も世界第2位(最近は3位に転落したそうですが)になったこと、比較的平等で安全、かつ快適な生活空間を作り上げた事実は説明できません。」

 厳密に言えば、タイも西洋列強の植民地になっていなかったと思います。しかしそれより気になるのが、「戦後も世界第2位になったから、・・・日本の大学教育が、現在のドイツに比較してそれほど劣っているとも思いません」という論法です。こういった論法をよく耳にいたしますが、そのつどお伺いしたくなるのは「では、世界第1はどこか?」「そこはどういった意味で一番なのか?日本はどういう意味で2番でしかないのか?」どうやら、その答えは「第1は言うまでもなく、アメリカだ。一番お金持ちだからだ。そして日本はそれにつづぐ2位、いや、今は中国に追い越されて3位か」のようです。
 しかし、これはどう考えてもおかしいではありませんか。まず、教育のレベルが高いから「お金持ち」という理論は穴だらけだと思います。そしてGDPだけをみても、日本はスイスやモナコより金持ちになったことはおそらく一度もありません。一人当たりのGDPでの日本の最高位を私は分かりませんし、それがドイツより高いか低いのも知りませんが、アラブ諸国にも、一人当たりのGDPが日本をはるかに上回る国々がいくつもあります。それはそこの国々の教育のレベルとはたしてどう関係しているのでしょうか。アメリカの教育レベルもそれほど高いものでしょうか。物質的な豊かさをそのまま精神的なレベルの高さに置き換えていいでしょうか。
 カンニングについてですが、もちろんいいことではないと思います。自分の頭で物事を考える能力を身に着けたいものです。しかし、大学側も自分の頭を使えば簡単に解決できた問題を、警察に頼むことはもっと情けないという気が、私にはします。それはともかく。

「AbiturやDiplom試験で上手にカンニングしてもいいのでしょうか?・・・でも「まともに考える」人の多いドイツでは、日本のようにカンニングできるほど馬鹿馬鹿しい問題は出さないのかもしれません。」

 ご存知のように、Diplomになると、試験というより独自の研究テーマについての研究発表ですから、カンニングは不可能でしょう。Abiturでさえ、作文と面接試験がほとんどですから、事実上むずかしいです。ですから、カンニングが簡単にできる「ばかばかしい」問題を提出する大学側、それを想定できなかった大学側、そしてその後始末を自分でできなかった大学側の「ばかばかしさ」は、この件に限って言えば、それを見破った受験生の比ではないと思います。そして、前にも書きましたが、これからの時代で必要とされるのは、独自で情報収集できる能力です。なれない日本料理のレシピ一つでも、「自分の頭で考える」こともできませんし、料理本を丸暗記しても仕方ありません。「知恵袋」の上手な使い方を知っていれば、多くの現実問題は解決できます。

「原発大国で自国の原発関係商品を売り込むのに夢中のフランスの情報など、相当注意をして扱わないといけないと思いますし、 IAEAなど、各国の利害が渦巻く魑魅魍魎の世界です。それはそうと、そちらのお寺でも、多くの外国人の方々がドイツ・フランス発の風評に促されて、すでに帰国なさったのではないでしょうか?」

 当時、安泰寺にいた五人のヨーロッパ人のうち、一人も帰っていません。しかし、参禅する予定だった人のうちで、キャンセルした人はかなりいたようです。向うのメディオは、自国ではないので、かなり大げさに取り上げているのもまた事実です。それにしても、おっしゃるとおり「自国の原発関係商品を売り込むのに夢中のフランスの情報」よりも、どうして日本の情報が的外れしていたのでしょうか。そもそも、こちらはNHKのBSニュースしか、電波が届かないため、民放の伝え方は存じませんが、NHKですら国民に正確な情報を伝えようという能力も意思も感じませんでした。当初、世界のネットニュースとNHKのニュースを見比べて、その温度差にびっくりしました。誰でもそうであったはずですが、NHKの冷静な対応に関心し、どうして諸外国メディアがそんなに「チェルノブイリ、チェルノブイリ」と騒ぐのだろうかと、思っていたのです。ところが、二日目、三日目あたりからドイツのニュースが初日から心配していたシナリオがそのまま展開しているのでは・・・。事故のレベルも4だと「過去アメリカにあった事故よりもマシだし、まして、ここは旧ソ連ではないし」と上の空。レベル5のときは「過去のアメリカと同じレベルだから、まぁ、大丈夫」。そしていきなり「最悪レベル7」へ更新。先生が「愚かなマスコミ(これが日本の癌です)」とおっしゃいながら、「日本にもまともな情報源はあります。どうぞご心配なく」というお気持ちはあまりよく分かりません。そうであってほしいという気持ちなら、私にもありますが・・・

「私なら、「自分は分かっている」と思い込んでいる人間ほど信用できないと考えます。」

 まったく同感というより、これこそ私が伝えたいメッセージです。今回の事故で分かったのが、いかに何も分かっていないか、いかにメディアにだまされているかということです。そして、分からないのはおそらく私一人ではなく、政治かも、官僚も、学者さんもそうです。みなだまされています。「誰かに」ではなく、自分自身の無知にです。そこで安易に安心されては困ります。
 合掌

 私のメールに対して、また丁寧なるご返事をいただきました。

1)日本の哲学・心理学が西洋の物まねから抜け出せないままに現在に至っているには同感。日本には、長い歴史のなかで培われてきた独自の哲学・思想があったはずなのに、明治以降の日本は、自分の姿を見失っている
2)しかし、ドイツもその長い歴史において、多様な文化を取り入れながら、現在に至っているのではないか
3)各国の文化には得意分野とそうでない分野がある。日本の哲学がまったく未知であった西洋と出会ってたった150年、もっと長い目で見るべき。カントやヘーゲルは読んだことはなくとも、日々の生活のなかで、生きるとは何か、エゴとどう付き合うべきか、などについて、真剣に悩み、識別をしている人びともいる。そもそも、大学で『純粋理性批判』を読んで人間の理性の限界について本気で議論したとしても、「生きること」の意味についてのの答えが出るとは思えない
4)タイは当時西洋列強の干渉地帯としてかろうじて独立を保っており、風前の灯だった。もし、太平洋戦争・大東亜戦争がなかったら、アジア(アフリカも含めて)は日本ともども、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、オランダ(ドイツはアジアでは出遅れた)などの国々にいまだに分割統治されていた
5)ドイツのように、現在の西欧的価値観を生んだヨーロッパの真っ只中に位置し、ベートーベンやカントのような文化力を背景に世界にアピールできる国と違い、何のとりえもない国ニッポンが、明治時代初期のような侵略の危機に陥らないためには、侵略を許さないための何らかの強みを持っていることが必要だった。植民地の危険に晒されることのなかった西ヨーロッパの人びとにはそれが簡単に理解できない
6)アメリカ、中国、ロシアの狭間で苦労してきた日本に経済力がなくなったら、またたくまに世界中から無視され、どこかの国の餌食になってしまう
7)それぞれの国には富を生み出す源泉があり、日本においては教育制度に裏打ちされた「蟻のように真面目に働く」人間資本であった。教育の目的は精神を豊かにすることにあるといった綺麗ごとは言えない。よほど恵まれた環境に生まれない限り、高い教育を受けていることが生きる糧を得る重要な手段になることが普通。国家も個人も、まともに扱ってもらうためにはある程度のお金が必要
8)カンニングの問題について:ヤフーの知恵袋など、家庭の主婦や小学生でも知っている。長文英作の答えが自分で出せないから、ヤフーの知恵袋で他の人に解いてもらって解答を写しただけの受験生のどこに自分の頭で考える独創性があったというのか?
9)警察が介入しなかったら、法律的にインターネット契約者の情報を得られず、この事件は解決できなかった
10)ドイツでは、近所の騒音問題で警察を呼ぶのではないか。もっと頭を使えば、騒音問題など、自分達で解決できると思うのだが・・・。ベルリンの街角でちょっと赤信号無視しただけで、警官に厳しく注意された。社会秩序のために法を遵守するとはこういうことだ
11)日本のマスコミにもぎりぎりの状況で真実を伝えようとしている誠実な人物もいるし、インターネットのテレビや情報、週刊誌、月刊誌、CSテレビなどを駆使すれば、まともな情報は取れる。
12)アメリカは長崎と広島で原爆実験を行い、関係資料は戦後すべて持ち帰った。それでも、世界で始めて被爆を経験した日本の研究者は、放射性物質の人体への影響を地道に研究している
13)チェルノブイリで20年間に渡って追跡治療・研究をしたのも、日本の資金による医療チーム。ヨーロッパのチームは、被爆を恐れて、そそくさと資料だけ持ち帰った
14)チェルノブイリは、発電という名目のもとに本当は原爆を開発していた施設であって、活動中の炉自体が爆発、大量の放射性物質が大気中に撒き散らされ、直後に大量の死者を出したのであって、今回福島の場合とは全く違う

 しばらく間をおいて、返信を出しました。

 遅かった春のせいで、稲の苗はなかなか成長しませんでしたが、先日にようやく田植えが無事終わり、ひと段落落ち着いております。これからは草刈三昧のシーズンです。

 「カンニングは悪いことだ」ということで、先生に100%譲ります。どんな問題でも、まず自分の頭で考え、自分で解決しようという意思がなくてはなりません。
 先生は5月6日のメールでこう書いておられます。

「確かに日本の哲学・心理学が西洋の物まねから抜け出せないままに現在に至っているというご意見には同感です。日本には、西洋文化と触れる以前、長い歴史のなかで培われてきた独自の哲学・思想があったはずです・・・明治以降の日本は、自分の姿を見失っているように思います。・・・しかし、ドイツもその長い歴史において・・・多様な文化を取り入れながら、現在に至っているのではないでしょうか。例えば、ドイツ音楽ですか、これが西洋音楽の代名詞のようになったのは、バッハ以降、正確には19世紀のロマン主義以後でした。バッハやモーツァルトも、イタリア、フランスの音楽を手本に、独自の世界を創造しました。・・・言語的ハンディの少ない医学や科学の分野では・・・日本は随分いい成果を上げていると思います。日本の哲学がまったく未知であった西洋と出会ってたった150年、もっと長い目で見てあげてください。」

 私には「日本が遅れている」というつもりはまったくありません。哲学の場合、そして多くの学問も同じだと思いますが、「私が哲学する」という主体性が問われていると思います。ただ単に「哲学者について学ぶ」というのでは、本当の哲学にはなりません。それは「火中の連」で書いていた「一人称の哲学」と「三人称の哲学」の違いです。そういう意味では、独自性も問われています。しかし、独自性が大事だからといって、日本哲学はなにか「日本的なもの」を有していなくてはならない、という考えを、私は変だと思います。ドイツの哲学者も、たぶん、「僕たちのドイツ哲学のどこがドイツ的だろうか、フランス人どもの哲学との決定的な違いはどこにあるのだろうか。そこを突き止めなければ、ドイツ哲学といえないから、落ち着かない!」とは思っていません。むしろ逆に、哲学には独自性があっても、国境はないと思っているはずです。ですから、ドイツの音楽も文学も哲学も、広い歴史的・文化的背景の前に立って、多くの影響を受けているのは間違いないです。そうであって当然です。日本と違うのは、それを決して「自分の姿を見失っているように」思っていないことです。

「古代ギリシア・ローマ、、他の西洋の国々、イスラム、東洋の多様な文化を取り入れながら」、それを自分なりに処理をし消化しやがて「自分」になる。問題は、この自分がそれを本当にしているかどうか、ということだけであって、ドイツ人のその処理の仕方と、フランス人のその処理に仕方の違いなど、ほとんどどうでもいいと思います。ですから、日本哲学に物申すのであれば、「ヨーロッパと違うからダメ」というのではもちろんなく、「いや、ヨーロッパの猿真似だからこそダメ、もっと日本的にやりなさい」ともいいません。ヨーロッパとの比較を最初から考えないで、「日本特有なものとは何か」とも考えず、ただ「哲学する」、それだけが大事です。そして、それがなかなかできないようです。どうしても、「ヨーロッパではこうだから、僕たちもこうしよう」、またその反動として「ここはヨーロッパではなくて、日本だから、なにかしらないが自分たちの本来の姿を見つめなおして、それにあった形でやろう」のどちらかに落ちてしまうようです、私の目から見れば。

「もし、太平洋戦争(本来は大東亜戦争と呼ぶべきでしょうが)がなかったら、アジア(アフリカも含めて)は日本ともども、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、オランダ(ドイツはアジアでは出遅れましたね)などの国々にいまだに分割統治されていたでしょう。」

 こういう論をよく耳にしますが、本当にそうでしょうか。イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、オランダは太平洋戦争(あるいは大東亜戦争)まで、日本を含むアジアの分割統治を考えていたのだとしたら、どうしてその戦争に勝ったイギリス、フランス、ロシア、アメリカ、オランダはそれ実行しなかったのでしょうか。日本が勝てば、当然、分割統治はされませんが、分割統治されそうになって、戦争を起こして、その戦争に負けて、どうして分割統治されないのですか。「日本がアジアを救った」という歴史観を持つ日本人はいても、他のアジアでこういう論を聞かないのはどうしてでしょうか。ヨーロッパ諸国が帝国主義という形で散々悪いことをしていたことは確かです。そして日本が日露戦争に勝ったことが大きな衝撃であったのも確かです。しかし、日本がその後、ドイツに似ていなくもなく「出遅れた」者としてあせってのではないでしょうか。時代に後れまいと、よけい時代に後れてしまったように、私には見受けます。ドイツも違っていた形で時代に逆らってしまいました。

先生のメールの中でとても面白かったのは、次のご指摘です。

「ドイツでは、近所の騒音問題で警察を呼ぶのではないですか。もっと頭を使えば、騒音問題など、自分達で解決できると思うのですが。私など、ベルリンの街角でちょっと赤信号無視しただけで、警官に厳しく注意されました。でも、社会秩序のために法を遵守するとはこういうことですよね。」

 ドイツの国民性と日本の国民性の違いをうまく表していると思います。そうです、ドイツでは騒音問題(日曜の昼間に芝刈り機を使うことなど、原因は些細なことがほとんどです)でも警察沙汰になったりします。おっしゃるとおり、「もっと頭を使えば、騒音問題など、自分達で解決できると思うのですが」。そして、赤信号無視で歩行者も厳しく注意されるのは、ドイツなら当たり前です。罰金を取られることもあります。なにしろ、ルールはルールですから。 まだドイツで在学中だったころ、日本人の先生から「東京では車より自転車が早い」といわれ、その理由として「車は赤信号で止まらなければならないから」と聞いて、びっくりしたことをおぼえています。ドイツでしたら、車も自転車も、交通規則は一緒です。ですから、自転車で歩道を走っていたら、それも罰金取られます。自転車専用のレーンがなければ、車も自転車も一般道路を走ります。交差点では、信号機も優先道路もない場合は、「右方優先」です。子ども一般道路を自転車で走っていますから、当然知っています。日本では「左方優先」という交通規則がありますが、それを知らない日本人は意外に多いです。私は日本に来た当初、自転車で轢かれそうになったときは何度もあります。それは車にのった相手が当然、交通ルールを知っていると思っていたからです。でも、知らないのですね。あるいは、横断歩道の場合のように、歩行者がいれば必ず一停止しなければならない、ということを自動車学校で学んだとしても、それを守ろうとしない・・・どうしてだろうか。ぶつかれば、痛いのは歩行者の方だ、と分かっているのでしょう。警察官がそこにたっているときだけ、ちゃんと停止する(近くの保育所の前の横断歩道もそうです。子どもが歩道の前で待っていても普段は車がスピードする落とさないが、たまに警察官が朝の8時前後にパトカーそこに止めると、あら不思議、みなちゃんと停止します)。 実は、横断歩道でも何回か轢かれそうになりました。それはドイツ人の頭の中では「ルールがルール」だからです。たとえぶつけられそうになっても、正しいことは正しいと、譲ろうとしない。自分では決して「ドイツの国民性の美点」と思いません。むしろ、「ぶつけられるくらいなら、道を譲ろう」という日本人の柔軟性・現実性を見習いたいと思います。 それにしても、この間の講習でびっくりしました。写真を添付いたします。


 「左方優先」という日本の交通規則がちゃんとあるのに、T字の交差点での「譲り合い」が進められています。「譲り合い」も大事ですが、この場合は「譲り合い」ではなく、「ルール」です。そして、トラックが本来(法律で)停止しなければならないのに、「ぶつかれば痛いのは向うだ」をいいことに、ルールを破って、先に行ってしまいます。次にくる車は「譲っている」のではなく、「左方優先」にしたがっているだけです。

 日本人の心の美しさ、これをバカにするつもりはありませんし、それから我々西洋人が見習わなければならない点がたくさんあると思います。しかし、この場合、そしてその他多くの場合、「譲り合い」「思いやり」を強者が弱者から無理やり要求しているではないでしょうか。「正義」より「命」、それにも一理あるでしょうが、「正義」も「ルール」も「法」もなにもないから、場当たりに振る舞い、よく行けば「臨機応変」、悪く行けば「命」まで落としかねない・・・
 合掌

 その後、残念ながら、先生からはもう連絡が届いておりません。しかし、「転法輪国共生山一法寺」というブログに面白い話が載っているのを発見いたしました。先生とのやり取りとも関連しております。

  自転車でのスクランブル交差点の渡り方という題で、著者は書いています:


  毎日のように往来する写真のようなスクランブル交差点がある。そこでここ2、3ヶ月のうちに2回同じポリさんから注意を受けたことがある。


  自転車に乗って黒い自動車の止まっている一方通行道路から右手前に横断しようとしたら正面交番前にいたポリさんが「信号赤だから渡らないで」と声をかけてきたのである。最初は「青信号で渡っているのに何言うとるねん」と思いつつ走り抜けた。
  1月ほど経ってまた同じケースで同じポリさんに同じように注意を受けた。そんなおかしいことはにないと思ったので渡ってから自転車を止めて「車両用は青じゃないですか。自転車は車両でしょう。どこがいかんのです?」と聞いたら「スクランブル交差点では歩行者用信号に従ってください」との返事だったが勿論納得した訳ではない。
  後日、ネットで検索してみると、
 1、自転車は軽車両であるから乗っている場合は車両用信号に従うこと。
 2、自転車から降りて押して歩く場合は歩行者用信号により通行することができる。自転車専用レーンが設定されている場合は乗って渡ることができる。
  ということでやはりポリさんの間違い。次に出逢ったら言ってやろうと思っているがそれから会えていない。
  しかし、右向こうから来て手前へ渡るような場合は左折する車に衝突する恐れがなきにしもあらずでポリさんの指示に従えば安全であることは間違いない。
  追記
  歩道から横断歩道を渡る場合は歩行者なみに正面の歩行者用信号に従うべきでしょう。念のため。

 ドイツ人として注目すべき点は
1)「信号赤だから渡らないで」という警察官はなんとこころ優しい!まるでお母さんがわが子を諭すような言い方ではないか。
2)しかし、警察官はまちがっている。基本的なルールすら知らない。
3)が、頑固じじいのブログの著者でさえ、(警察官の間違いを指摘した上)「ポリさんの指示に従えば安全であることは間違いない」と書いて、先方の間違って主張を一応受け入れておられる。これもまた、心がひろい!

 ドイツなら、間違いなくこうでしょう:
1)警察官は間違わない。自転車は歩道を走るものではなく、車道を走るものだという当たり前のルールを子どもも皆知っている。
2)警察官は厳しい。先生も書いていたとおり「(歩行者が)街角でちょっと赤信号無視しただけで、警官に厳しく注意された。社会秩序のために法を遵守するとはこういうことだ」。歩行者は厳しい注意で済むが、自転車が歩道を走った場合、罰金が科せられる。
3)「間違っているけど、安全!」という折り合いは成立しない。ルールは絶対。ぶつけられても、相手にはゆずらずルールを通してしまう。

 どっちがよく、どっちが悪いと言ったとき、この場合は日本の「ルールより安全」という考え方に賛成したいです。しかし、上にも書いたように、日本の道路交通の場合の「譲り合い」の多くは、弱者(自転車や歩行者)がより強いもの(車・トラック)に譲るのが当たり前とされています。その逆は余りありません。 ならば、本当の意味での譲り合いではないですね。脅しです。逆に、ルール・命令という名の下にホロコーストを決行したのはドイツ民族です。あの当時、命令に反対しようとした人はほとんどいません。

  ルールのために命をなくすこともばかばかしいですが、ルールを知らないがために命をなくすのもばかばかしいものです。せめて警察菅にはルールを知ってほしいものです。いわんや政治家・教育家・医師・宗教家その他、大人すべて。

(ネルケ無方、2011年6月18日)

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