安泰寺

A N T A I J I


どこまでもドグマ
キリスト教、仏教、そして私・その7



三位一体の構造



歴史から消された「強盗会議」

 「正真」なるキリスト教の教えが中国人に感心される頃、ヨーロッパではまだまだドグマのことでもめていました。
 今では教会の歴史から削られてしまいましたが、東ローマ帝国の皇帝テオドシウス二世は四四九年にもう一度、やはりエフェソスに公会議を開催しました。今回はキュリロスの姪っ子にあたるアレクサンドリア総主教のディオスコロスが中心になり、前年のコンスタンティノポリス地方公会で異端とされ、破門されてしまったエウティケスという神学者の教えを復権させようとしました。その教えの核心は、ネストリオスとは反対の単性説にあります。

 「救世主としてのイエスと人間イエスは別々ではない。位格は一つ、イエスはまさに一神である」

 それでは、イエスの人間性はどうなるのか、という疑問はとうぜん湧いてきます。それに対して、エウティケスの面白い比喩があります。

 「一滴の酢が海の中に跡形なく溶けるように、イエスの人間性は神性に吸収された」

 「強盗会議」とも呼ばれているこの会議の結論はあまりにも強引に導き出され、反対派も招待されず全く発言できませんでした。

カルケドン−東方緒教会との決別

 しかし二年後に持たれたカルケドン公会議では、情勢が再び一変し。
 「同じはイエスは神でもあり、人間でもある。この二つの位格は一等でありながら、この二つの性質の違いは混ざることなく、消えることがない」
 この合意に異論を称えたのはやはりキュリロスの姪っ子、アレクサンドリア総主教のディオスコロスでした。

 「赤熱した鉄のいて、『火』と『鉄』という二つの性質が分かち得ない一つのもの溶けたごとく、イエスにおいて神格と人格はひとつである」

 しかし、彼の主張はすでに聞き入れることがありませんでした。彼と共にアレクサンドリアの教会は中央から分裂し、アッシリア東方教会以外の東方諸教会はここから派生しました。一番有名なのはアレクサンドリア総主教をいまや「パパ(教皇)」として仰ぐコプト正教会ですが、それ以外にはシリア正教会、エチオピアとエリトリアのそれぞれのテワヘド正教会などです。二つの位格を説くネソトリオスの流れを継承したアッシリア東方教会の教義とは対蹠的に、これらの教会に共通しているのは神の単性説のドグマです。

妥協の許されないドグマ

 カルケドン公会議のときにシズマ(教会分裂)が起ってからしばらく公会議は開催されませんでしたが、五五三年には再びコンスタンティノポリスで教主たちが集まり、今度はノストリオス派の影響を受けているという理由から、三つの著作を異端しました。しかし神学論争はこの公会議で決着せず、単性論者と両性論の溝は広がるばかりでした。
 それ以降のキリスト教では、単性論者と両性論者の中直りを狙った試みとして、単意論が称えられるようになった時期がありました。単意論というのは

 「イエスの位格は二つでも、意思は一つ」

 という主張です。この論は猛反対したのは当時のローマ法王マルティヌス一世と著名な神学者のマクシモスでした。二人は六四九年にローマで行われていた地方会議で単意論を異端とし、その論の支持者であった当時のコンスタンティノポリスの総教主を破門しました。ところが、それを聞いた東ローマ帝国の皇帝は二人をコンスタンティノポリスの裁判所の連れ出しました。裁判の結果として、ローマ法王は鞭打ちされてから流刑された地でなくなりました。一緒に逮捕されていたマクシモスは二度と演説と著述が出来ないように舌を抜かれ右手を切られ、やはり流刑先で没します。二人の死は後の教会から「殉死」とされ、ドグマのために死んだマクシモスは「聖人」として認められました。
 二人がなくなった後に開催された六八〇年の第三コンスタンティノポリス公会議では、それまで支持されていた単意論は一変し否定され、公式に異端とされてしまいました。イエスに位格の両面性があれば、意思も二つあるということになったのです。
 七八七年に再びニカイアで開かれた第七全地公会義は、後のギリシャ正教会とカトリック教会の両方が認める最後の公会議になりました。この会議で焦点とされたのは以前と全く違う性質のトピック、「イコン」という宗教画でした。イコンが問題になったのは、ヒエレイアの公会議(七五四年)の開催からでした。この会議では聖像の崇敬は禁止とされてしまい、それ以降の東ローマ帝国ではキリスト教の歴史でまれに見られるイコノクラスム(聖像破壊運動)の嵐で起りましたが、第二ニカイア公会議では前会議が「似せ会議」と呼ばれ、無効とされました。それ以降、イコンの人気が特に高くギリシャ正教会ではイコン崇敬が認められたこの会議の決定を「正教勝利の主日」として記念しているようです。
 有効とされていた七回の公会義と五〇〇年近い年月を経て、三位一体とイエスの二つの位格のドグマがこうして確定しました。その後、東西両方の教会から有効と認められる公教会はもう二度と開催されませんでした。とはいっても、八六九年にはもう一度、四回目となるコンスタンティノポリスでの会議が召集されました。この会議の結果、ローマ法王と争っていたコンスタンティノポリス総主教のフォティオスは断罪され、破門されてしまいました。表向きの理由はフォティオスのものとされている、次の教えでした。

 「人間には聖なる魂と、俗な魂と、二つの魂がある」

 しかし、今回はドグマよりもローマとコンスタンティノポリスのライバル意識が色濃かったです。フォティオスはこの会議より数年前、自分の方からローマ法王に破門状を突きつけていたのです。きっかけはニカイア・コンスタンティノポリス公会議で決定されていた信条の解釈をめぐる「フィリオクェ問題」でした。焦点となった「フィリオクェ(Filioque)」という言葉の意味は「…と息子」ですが、この言葉は西ローマ帝国で用いられていた信条のラテン語訳にのみ登場します。

 「わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。聖霊は父と子(Filioque)から出た」

 ギリシャ語の原文では、「聖霊は父から出た」ことになっており、フィリオクェという言葉は後に挿入されていたようです。その理由は三位一体の強調でしたが、フォティオスから見れば正しいドグマからの脱線でした。フィリオクェ問題以外にも、フォティオスはローマ法王を破門する理由として、

 ローマでは大斎【おおものいみ】の禁食の期間は三日間短い
 ローマの神父はひげを剃っている
 ローマの神父には結婚が禁じられている

 などを、「けしからんこと」としてあげています。フォティオスはもちろん、自らの破門の有効性を認めようとしなかったのです。一〇年後のさらなるコンスタンティノポリス公会議では彼は復権し、以前の会議を無効としました。そして問題のフィリオクェの教えは正教会では異端とされました。しかし、この公会議の有効性はローマで受け入れられず、両サイドから認められる第八全地公会議はついに成立しませんでした。
 ローマとコンスタンティノポリスの関係に入った亀裂はその後も直ることなく、一〇五四年の東西教会の大シスマ以降、オーソドックスとカトリックとして別々の道を歩んでいます。カトリックのほうでは今も聖霊を「父と子」から出たものとし、正教会では「父から出た」としています。ちなみに、キリスト教教会で結婚できないのはカトリック神父のみで、プロテスタントのような改革運動はもちろんのこと神品【しんぴん】といわれる正教会のひげ親父のほとんども妻帯しています。また、前述した「復古カトリック教会」も八世紀以前にできたドグマしか認めていないから、聖母マリアの無原罪懐胎も、司祭の独身制なども否定しています。復古運動と改革運動にも意外な接点があるのです。

どうして神の位格が大事なのか?

 さて、キリスト教徒にとってドグマの細かなディテールがいかに大事かということはお分かりしていただいたでしょうか。いくらドグマが大事だからといって、同じキリスト教徒同士でもう少し仲良くできないものか、とあきれてしまった人もいるかもしれません。

 「神の位格が一つでも二つでも、あるいは三つでも…そんなにこだわらなくてもいいじゃない」

 八百万の神様を知っている日本人から見れば、そういうことになるでしょう。しかし、初期のキリスト教教会があれだけこだわった理由もあると思います。ここでもう少し、一緒に考えましょう。どうして三位一体の神の存在、そして一人のイエスの二つの位格が大事なのか?
 キリスト教と同じ一神教のユダヤ教とイスラム教の違いがまさに、このドグマにあるのです。結論からいえば、三位一体のドグマによって、キリスト教の神は人々にとって「近くて遠い」存在になりました。ご説明しましょう。

初めに言があった

 ユダヤ教もイスラム教も同じく、絶対なる神を信じる宗教です。しかし、それにはキリスト教のように「三位一体」という側面がなく徹頭徹尾の「唯一神」です。ユダヤ教ではその神の名前が「YHWH(ヤハウェ)」とされていますが、その意味は「存在するもの、存在したらしめるもの」ですから、固有名詞とは言いがたいです。イスラム教の「アラー(アッラーフ)」も単に「神」という意味ですから、決して神の名前ではありません。そもそも、一神教の神は絶対者ですから、名前がついていたり形があったりすればおかしな話です。名前や形のあるものは相対化され、絶対でありえないからです。
 ヨハネによる福音書の最初に出てくる

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)

 この言【ことば】(ギリシャ語ではロゴス=道理)も、この一神のもっとも純粋化された原型ではないでしょうか。三位一体の一つともされている「聖霊」も、まさにこの無味無臭の道理としての神ではないでしょうか。それを強いて別の言葉に置き換えるのであれば
 「命の根源」
 「無限の光」
 といったような、つかみどころのない言葉になると思いますが、ヨハネの福音書では

 「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(1:4)

 としていながら、それ以上の説明はありません。その聖霊としての神は日本の八百万の神々よりも、哲学で言えばカントの「物自体」、ヘーゲルの「世界精神」やハイデッガーの「存在」にはるかに近いものです。しかし宗教が提供しなければならないのは哲学者のいう「存在」ではなく、実生活の中に悩み苦しむ私たちに直接に語りかけてくれような神なのです。絶対者として純粋化された唯一神はあまりにも手が届かない、遠い存在です。
 アダムとイブの物語だけでも分かるように、キリスト教の前身であるユダヤ教では神と人間の対立が強調されてきました。人間は裸のまま、神の前に立たされているのです。人間がそもそも神の被創造物なら、人間の罪に対しての責任も神が背負ってもおかしくなかったですが、神は厳しい父のように各々個人の自己責任を問うているわけです。しかし、人間が自らの罪を滅ぼし、神に近づくことが不可能性でした。人間はどんなにがんばっても、それで神に喜ばれることはありませんでした。人間はどうしたら救われるのでしょうか。
 そこでキリスト教が編み出したのは、まさに三位一体の教えです。
 初期のクリスチャン(つまりユダヤ教の新興宗教のような一派)はナザレのイエスをユダヤ教のさまざまな預言者と同等な立場で位置づけることもできていたはずです。あるいは後のイスラム教のモハメッドのように神の言葉を預かる最後の、最も優れた人格者として見なすこともできたのでしょう。しかし、あえてそうしなかったのです。一度も自分のことを「神」だと自称したことのないイエスを、受肉された神そのものと見なしたのです。そうすることによって、絶対なる神と相対的な私たちの日常生活には、それまで存在しなかった確実な接点ができたからだと私は思います。ナザレのイエスという歴史上の人物の中に、神が具現したのです。それ以降、神を「イエス」という名前で呼ぶことも可能になり、十字架という形で聖像にもなりました。つまり、神は身近な存在になり、人類の地平線にまで降りてくれました。
 それまでの宗教の中にも、神々が人間や動物に化けた例は珍しくありません。例えば、ギリシャ神話もそうです。これらの神々はイエスと違い、精神性に乏しくあまりにも人間くさいです。酒に酔っ払ったり、女を追いかけたりしている神々は、しょせん「俗人に毛が生えたもの」です。しかしギリシャ神話に登場する神々の化身と神としてのイエスの決定的な違いは、別にあります。ギリシャの神々の多くはつわものなのに対して、イエスは十字架に磔られ苦しみながら死にます。

 「神が十字架で死ぬことによって、人類の罪を贖【あがな】った」

 この逆説によって、もっとも強い、全能なる神が一番弱いものの味方になりえたのです。見てきたとおり、教会の公会議で絶えずイエスの人間性が問題にされ、結果的にそれが強調されたのもそのためではないでしょうか。イエスが神の単なる化身であれば、私たちは神の受肉によって贖われたことにならないのです。イエスは完全なる神と同時に、完全に人間でなければ、私の仲間ではないからです。と同時に、神と人間という二つの性質の違いを強調する必要もでてきたのです。

(ネルケ無方、2013年03月29日)

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