流転海49号

安泰寺文集・平成24年度




    Antaiji

 私が安泰寺に来た理由、そしてやりたい事を述べる前 に、師匠であるネルケ無方堂頭様をどういったいきさつ で知ったかを、まず少し記したいと思います。
 私の住んでいます兵庫県の地域では、日曜の朝5時か らNHK教育テレビでやっています 『こころの時代』 という 宗教家をゲストに招いた宗教をモチーフにしたトーク番組 がやっています。 そちらの番組に堂頭様が御出演され、 仏教思想に関心を寄せていた私はその番組を見ていてた 事がきっかけでした。

 その番組の冒頭で先代住職様に言われた雲水時代の 堂頭様のこんなエピソード‥‥

「安泰寺はお前が創るんだ!」
「お前なんかどうでもいい!」

 一体このお坊さんは何を言っているんだ? という思いで テレビに耳を傾け内容を聞いていますと‥‥

  この一見矛盾した真逆の事柄、その実、伝えたいことはお 前が安泰寺を創るんだ! と、創造性を膨らますホメ言葉 でもなく、お前なんかどうでもいい!という叱咤でもなく、そ れは安泰寺という寺には“安泰寺”という既製品は無く、ま た、自分というもの(自己中心的な己や考え)も修行には要 りませんよということで二つの事柄の間にある中道の中に 大切な教えがあります ‥というものでした。
 おっ‥!? このお坊様は‥ と関心を持ち、気がつけばテ レビの前で背筋を伸ばし正座で姿勢で見ておりました。
 そしてその後に続く大阪城でのホームレス雲水時代のお 話‥。
 世の中にはそれなりにたくさんの雲水さん達がおられる とます。 それこそ修行に明け暮れ、日々精進にと突き進 まれている方もおられるでしょう。 山に籠もったり、あるい は雲の如くあちらこちらへとお寺を行脚される雲水さんも勿 論おられる事と思います。 けれど、こちらはホームレス雲 水さん。 大阪城に18畳もの広さを持つ手作りのお堂まで 作り、そこで禅を知ってもらおうと躍動・邁進する修行の道 の堂頭様の大阪時代のお話。 これ程バイタリティーに溢 れ豪快な方は日本中どこを探しても他にいないんじゃない でしょうか。
 「これこそが本来あるべき本当の仏道精神の姿ではな いだろうか!」 と、私自身衝撃にも似た印象を受けた事 を覚えています。 この朝の番組でテレビのブラウン管を 通し、私の中で “本物” を見つける事が出来ました。  誰よりも禅を愛するその姿勢、そして理路整然、抜群の 頭の良さ、「必ず、この方のもとで師事したい!」 という 気持がこの時に生れた事を言うまでもありません。 

  さてさて‥、少し前置きが長くなりましたが、私が安泰寺に 何をしに来たかと聞かれれば、それは仏道を学ぶ為です。

    仏道をならふといふは、自己をならふなり
    自己をならふといふは、自己をわするるなり
    自己をわするるといふは、万法に証せるるなり

 道元禅師様の有名な一節です。

 仏道を志すという事は、自分というものを深く見つめ、良い とか悪いとかの今まで自分が築き上げてきた想いや価値 観、凝り固まった自分を捨て、今、ここ、この今に生かされ ている! その無常の尊さや、また真実を知ることではな いかと思っています。
 堂頭様の著書に書かれておりました

「坐禅は何になるか」
 答え  「何にもならない」

 私も本当にその通りだと思います。
 これは私の好きな映画の一つ、道元禅師様の半生を描 いた映画『禅 ZEN』の中のセリフなのですが‥

「悟りを目的に坐禅するのではない  【只管打坐】  そのものが悟りである」 というセリフがあります。

   これは、堂頭様のおっしゃる「坐禅は何になるか」 答え 「何もならない」
 ある意味同じ事を言っているのではないかと私は感じまし た。 堂頭様の著書の中にありました「幼稚園児が大学に 行っても仕方がない」 ‥まさに、その事だと。

 坐禅するのは、この私です。 作務をするのも、この私です。 勉強するのも、代わりの他の誰でもなく ‥この私です。
 私はこの安泰寺に本当の意味においての“大人の修行”を しに来ました。 この“大人の修行”をしに来ている私自身の 目が眠ったままでは何もなりません。
 坐禅しようが、作務をしようが、勉強をしようが‥ 自分の目 が閉じていれば同じことです。

 仏道とは生きて仏になる事だと聞いた事があります。  世間では優しい人の事を仏様の様な人だ!などと言います が、私は優しいだけが仏だとは思いません。 だから私は仏が どのようなものかはわかりません。 もちろん、その仏になろう と大それた考えもありませんが‥。
 でも、もし仏や悟りといったものがあるのなら、どこまでいっ てもぶらさがった人参のようなものでいいと思います。
 それこそが仏道という終わりのない道なのではないかと思っ ています。 
 また、この安泰寺に私が来た理由は、この安泰寺だから、 安泰寺だからこその精進があると思っています。 ここでこの 凡夫の私の目が、生活や修行を通し少しでも大きく開かれる ようになればと思っています。人生において大切な物を知る為 ここで3年という区切りを持ち、自己の人間性の成長性を得た いと思います。 この叢林で堂頭様の指導のもと、多くの先輩 方に囲まれ教わり、教えられ、学び、切磋琢磨、幼稚 園児ではない大人の修行が‥ 
 坐禅然り。 作務然り。 食べる事も学ぶ事も然り。
 また、四季折々のこの大自然も然り。 ‥たくさんの事柄か ら深く多くを学べるチャンスが山のようにあると思います。
 この文集の題でもあります安泰寺でやりたいこと‥は、あれ をやりたい、これをやりたい、という限定的なものは無く、修行 だからこそ良い悪いもすべてです。ネルケ無方堂頭様のいる 安泰寺での生活・修行・学び・そのすべてです。

追記:

 ここでの生活で気付いた事は、何より空気が美味しい、水が 美味しい、お米に野菜に‥‥ と、料理がとにかく美味しい!
 この素晴らしい大自然の中で丹精込めて自らの手で作った お米や野菜の数々‥‥。 だからこそ余計その美味しさを殺さ ないように、食べる方の口に届けたい! という典座さん想い が料理に表れているのだと思います。
 この安泰寺では自分たちが生きる上で大切なお米作りや野 菜作りは、大変重要な仕事ですが、また、それらを調理する 典座さんの役割も、とてもとても大きなものです。 これら重要 な作務はもちろんの事ですが、それに加え“食”に関する物作 りにも積極的に取り組んでいければと思っています。
 たとえば味噌作りでしょうか、あるいはお漬物作りでしょうか、 はたまた‥‥ 何が出来るかわかりませんが‥‥。

 それと、ここ安泰寺では外国人参禅者が多いです。 日頃 のコミュニケーションや会話をはかる上で英語は必然です。
 ですが‥‥ 私はまったく英語がダメで‥。 ですので、ここでの学びの一つとして、英語もしっかり勉強し たいと思っております。


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