流転海49号

安泰寺文集・平成24年度



無名者


    Antaiji

 ネルケ無方師さま

 貴著『ドイツ人住職が伝える禅の教え 生きるヒント33』を拝受しました。衷心より感謝申し上げます。わたしの手元などには置いておけないので、パブリシティ目的で、大いに尊敬する医師石原結實先生にさしあげました。何十冊もの著作を世に送っておられ、断食療法をつかって末期がん患者などの治療にあたっておられる石原先生のクリニックは広告も出さず、看板すら掲げてありません。どうやって連絡をつけてよいかわからないはずなのに、全国各地から患者が押し寄せていて、各界著名人たちからの厚い信頼を集めています。かねて、貴君に興味があるとおっしゃっていたので、謹呈さしあげたのです。それにじっさいのところは、ページを少し繰ってみて読む気が失せてしまったのです。

 いまの安泰寺の状態が見えてくるようです。思えば、わたしが20代の半ばの頃、前堂頭の宮浦老師から安泰寺信徒代表への就任を依頼されたのですから、もう20年近くも信徒代表の地位にいるわけです。参禅者のなかでもいちばん不真面目、坐禅をやる気なんか毛頭ないし、摂心を坐りぬいたこともない若者をよくも信徒代表という重責にとりたてたのはじつに不思議なことです。でも、宮浦老師は炯眼だったのかもしれません。わたしほどきびしい批判を向ける者もいないでしょうから。

 そもそもわたしが宗教者の生活や出家というものに批判的なのは、修行くらい実人生のなかでおこなえなくてはいけないと考えているからです。わざわざ、寺に住んで、袈裟を着て、むずかしい顔をしてすましこんで、それで修行がちゃんとできるのか、と考えているからです。寺に住みこんで修行ができるくらいなら、一般社会で暮らしていても修行くらいじゅうぶんできるはずです。

 わたしは、いまでもサンスクリット語原典やチベット語経典を辞書なしですらすら読むことができます。それでも、仏教を宗教や哲学ととらえて研究しているうちは、さっぱりわかっちゃいませんでした。やる方なく、チベット高原の洞窟にひきこもったりしましたが、どうにも埒があかないのでいやになって、医師になりました。医師になるのは少しばかり苦労します。それでも、修行することにくらべれば話にならないほど簡易行です。医学なんてだれでも学べるくらい簡単な学問です。医療なんておこなうだけならだれだってできます。でも、じっさいに病んだ人間を治し、立ち直らせることはむずかしい。勉強して知識を得るくらいなら、だれだってできますが、それをじっさいの力として役立てる段になるとおそろしくむずかしくなるのです。だから、わたしの目からみて、きちんとした医療をおこなっている医師はほんのひとにぎりです。

 最近もおどろくことがありました。知人がこのごろ夜間にひどい咳と痰がつづいて眠れなくて苦しんでいるというので、聴診器と手持ちの漢方薬をもって出かけたのです。処方されていた薬をみて腰をぬかしました。最近の医療水準に照らし合わせれば妥当ではない劇薬が使われていたからです。重篤な副作用が出たときには、医療訴訟にも発展するリスクがあります。それを処方したのは最難関レベルの医学部出身者ということで流行っている高齢医師だというではありませんか。わたしは僭越ながらその薬の服用を控えて持参した漢方薬をのむようにつたえました。あとできいた話では、その夜から症状はおさまり、十種類近かった薬を飲まなくても漢方薬一剤ですんでいるということでした。

 こんなことはよくあります。わたしが属している医療機関はユニークなくらい高飛車で、医師が不足がちであるにもかかわらず、平気でどんどん医師を解雇していきます。わたしより10年も20年もベテラン医師がどんどんクビになって、いつの間にか院長をのぞくとわたしが最古参になってしまいました。わたしのあとから入ってきた医師たちも解雇されて、なかには着任日にやめさせられた人もいます。患者や家族からの苦情や治療成績を理由にいきなり解雇を宣告されるので、熾烈な勤務環境ですが、スリリングでかえって楽しめます。

 クビにされた医師たちをみていると、彼らはたいてい頭を使っていません。風邪の症状が出ればこの薬、熱が出ればあの薬、下痢すればこの薬、こんな幻覚が出ればその薬、というように紋切り型に処方するのです。そうなると薬は症状数に比例して数が増えてしまいます。真っ向から作用が対立する薬が処方されているなんてこともザラにあります。頭を使わないから楽ちんだし、薬をたくさん出したら儲かるし、医師にとって悪いことがひとつもないのですから、そうなるのが当然なのかもしれません。

 わたしは漢方薬や鍼灸を駆使することで、西洋薬の処方を少なくするように工夫します。そうすることによって治療効果を高めるのです。そういうわたしは、医師の世界においてもきわめてアウトローです。研修医としての訓練期間を最短できりあげると、いきなり実践の場にとびこんで、指導医にもつかないで、ひとりで医療技術を模索してきました。治療が難しければ難しいほど、医療者は真摯にならざるをえません。患者から医療情報を詳細にききとって、膨大な情報のピースを組んで診断をくだし、それに対して適切な治療手段を検討する。自分の頭の中でそのプロセスをくりかえしおこなうことで、ようやく治療スキルが身につくのです。こうして、わたしは先輩医師に相談することなく患者を治療できるようになっていきました。いまでも、わたしより10年以上もキャリアのある医師たちが指導医の教授や院長に相談しているところによく出くわします。そうやって自分の頭を使う訓練を怠っていると、いつまでたっても、他人から指示されたとおりの紋切り型の治療しかできなくなっていくのです。その一方で、治療成績のよい医師には他の医師には手に負えない難しい患者がどんどん集まってきます。そうして、さらに治療スキルを高めるチャンスがますます手に入るのです。

 独断で医療行為をおこなうなんて危険じゃないか、という危惧をもたれるかもしれません。アウトローである以上、リスク管理に対する認識はしっかり持っています。症状から考えられる原因や理由をしっかり説明し、治療手段を解説して、そのメリットとデメリットを詳細につたえたあとで、医師としての判断をきちんと話すことができていれば、信頼関係もできあがります。また、症状が改善しなかったり、副作用が出ても、きちんと説明した上で対応をすることで、共通認識がつくられて信頼関係がゆらぐこともないのです。医師も人間である以上、まちがいます。危機的なまちがいをしないように周到に準備し、まちがいがあれば迅速に訂正する。その姿勢を明確にして、患者と理解しあっていれば、問題が持ち上がることもないのです。

 こうして自分の頭を使って医療をおこなっていると、人間の心身が異状を呈する原因を見抜くことができるようになります。その意味において現在の専門医制度や指導医制度はどれほど役に立つのだろうかとわたしは疑っています。わたしが専門医資格にまったく興味がないのはそういう考えがあるからです。じつは、専門医資格よりももっとたいせつな資格があります。それは患者が立ち直ってゆくのを一緒に喜べる考え方や姿勢です。医師が楽しい職業であるのは、じっさいに悩んで苦しんでいる生身の人間と真っ正面から向き合えるからです。わたしが臨床の現場にはまりこんで患者さんと苦楽を共有するほど、彼らもよくなっていくのです。それはとても楽しくすばらしい経験です。じつに単純なことなのです。

 それに医療なんてそれほど難しい仕事でもないのです。だいたい生身の人間がかかえることができる問題なんてたかが知れています。だって、そうじゃありませんか。それを仏教は説いてきたはずです。ささいな問題を大きな問題として受けとめているのですから、その問題のじっさいの大きさを伝えてあげることができれば、かなりの問題が解決できるはずです。問題が解決しないのは、本人が解決したくないと頑なに抵抗する場合に限られます。それだって、ほんとうに問題を解決することのすばらしさをつたえることができれば、氷解する問題です。じっさい、すべての問題が解けるとはいえませんが、解けない問題なんてそれほど多くはないのです。

 医師ばかりでなく、現代人のほとんどが自分の頭を使うことをおろそかにしています。たとえば、末期患者のみなさんが口をそろえておっしゃるのが、死ぬのがおそろしい、という訴えです。死ぬのが怖い、といわれても、わたしはうなづくことができません。死ぬのが怖いなら、生きているのも怖いはずなのに、生きていることにそれほどの恐ろしさを感じていないのです。生きているうちに死を理解することはできませんから、なんて真顔でいわれても、冗談をいっているのではないかと疑ってしまいます。ちゃんと生きて考えていれば、死がどんなものかはほぼわかるはずです。死がわからないのは、きちんと生きていないし考えていないからでしょう。むかしのすぐれた哲学や宗教は、それくらいの問題は解決していたはずですが、いまはそんな問題すら解けない難問として立ちはだかってしまうのです。

 道元さんとかの時代なら、禅とか浄土教の考え方が時代の苦悩や問題に真っ正面からとりくんでいたのでしょう。道元さんや親鸞さんのお話を、人びとは必死にききたいと願っていたのでしょう。宗教者がそういう役割をきちんと果たしていたのです。それが現代まで時代が下ってくると、どうでしょうか。貴著は人びとの生身の問題にきちんととりくんでいるのでしょうか。安泰寺は現代社会の要請に真っ正面からとりくんでいるのでしょうか。ほんとうにきちんとした活動をしているのであれば、それなりの評価を受けてしかるべきです。そうでなければ、精神は死に絶えて、形骸化しているのです。むかしの伝統を墨守しているにすぎないのです。

 伝統を墨守している者に生命はありません。貴君の野望、安泰寺の再生など、なんでもよいのですが、もし実現したいことがあるならば、それをまっすぐおこなうべきでしょう。くだらない形式にこだわっていると、自分が何をしているのかわからなくなります。仏教というものにもはや生命が失われたのであれば、仏教なんて捨ててしまってもかまわないのです。ほかならぬ仏教がそう教えているはずです。宗教者がぶざまな体たらくを示しているために、ろくに教育を受けていない医療者が人間の実存や生死の問題に向き合う羽目になっていて、そのために、だれもが納得できないかたちでつまらない人生を生き、みじめな終焉をむかえることになっているのです。

 それをよしとするなら、それでもよいでしょう。ただし、わたしよりもはるかにすぐれた才能にめぐまれた貴君がくすぶっていてよいものでしょうか。現代人は、正しい死に方を知らないし、正しい生き方も知りません。そもそも健康に生きるということがわからないから、正しい呼吸の仕方も知らないし、正しい血管の収縮弛緩の仕方も知りません。食事の摂り方も知らないし、眠り方も知らないし、セックスの仕方についても知らないのです。

 現代社会はこんなに問題が山積しているために、かつてないビジネスチャンスの宝の山と化しているのです。そんなことも見えていないのでしょうか。安泰寺は超一流ブランドとして立派にビジネス展開できる資格も能力ももっているはずなのに、いったいどうなっているのでしょうか。貴君を堂頭に推挙した責任者としてわたしはとまどっています。そんな安泰寺ならいっそのことつぶれてしまってよいのかもしれません。実業家に華麗に転身して世界を大変革してゆくという道だってあるのです。スティーヴ・ジョブズだってそうしたのです。(了)


Switch to English Switch to French Switch to German