流転海49号

安泰寺文集・平成24年度



晃和


    Antaiji

 まず安泰寺に短期参禅した経緯、動機から書こうと思う。私はこれから山口県で自給自足的生活、また農業をする予定だ。古民家を借りられることも決まった。しかし大家さんとの引き継ぎがなかなか進まず、暇ができた。そんなふとできた時間のなかで、以前から是非行ってみたいと思っていた場所が思い浮かんだ。それが安泰寺だった。

 日本でほとんどない(唯一の?)自給的生活を実践し、檀家のない修行メインのお寺。修行者は寺の息子ではなく自発的、積極的な国籍豊かな人達。こんな面白そうな場所が他にあるだろうか、と私は思った。

 そもそも私は仏教に興味があった。まず感覚として好きだった。タイ、ラオスで出会った仏道修行者たち。インドのブッタガヤーでもアジア各国の仏教寺院、仏教徒たちと接する機会があった。柔らく、素朴で平和な感じがした。

 そして本を通して知る仏教も好きだった。非常に論理的、科学的な釈尊の教え。絶対的な宗教というより、この世の叡智のようなものもの。そこから派生した多岐に渡る個性豊かな各国の各宗派。仏教は縦横無尽に時代、民族に合わせて変化していく。

 自給的な生活をする百姓を目指すなかで、仏の教えのなかで慎ましく生きる仏教徒に対する漠然とした憧れもあった。だから仏教の叡智を百姓生活に活かすような生き方を目指そうとしていた。

 だが本で得た付け焼刃的知識も、自己流の中途半端な坐禅や瞑想も自分の血肉とはなっておらず生活の中で活きているとは思えなかった。安泰寺に行けば、もっと生きた本物の仏道修行を体感できるのではないかという期待があった。

 そういう思いで短期参禅に臨んだ。そして期待を遥かに超えたものがそこにはあったのだ。

 道元禅師の教え、それをまさに体現する座禅、食事から作務など生活内容。それを真摯に実践している雲水の方々。全てが意義あるものとして私の中に入ってきた。

 まずは『禅』との出会いだった。日本といったら禅。そんな有名なものなのに私はここに来るまで禅というものの本質を知らなかった。そこには宗教的な神秘さなど微塵も付け入る隙はなかった。現実世界よりもよっぽど現実的、超現実的とも言えようか。今まで自分が意識していた『いま、ここ』という概念を如何に字面だけで理解していたかを思い知った。また如何に多くの幻想を抱きながら生きていたことか。退屈な状況、辛い状況から逃げるため、目の前の現実から目をそらし自身の脳内へ逃げていたことか。座禅の前では悟りですら幻想である。世界に対する見方が変わった。他にも色々な発見があったがここであまり字面を並べても自己満足的な内容のないものになりそうなので割愛する。

 ただ2週間という短い期間(そのほとんどが接心、放参)は、新しい発見を実践する期間としては十分でなく、脳の中に概念としては納まったが、まだ行動規範、習慣として私の血肉となったとはいえなかった。ここで得たことを今日、安泰寺をでたこの日から意識的に実践していきたい。そしてそれは一生をかけて実践するに値するものだと思う。

 まずは毎朝の座禅、これからだ。

 この場を借りて、短い期間で対して役にも立てなかった私にこうような素晴らしい機会を与えてくださった堂頭さん、懇切丁寧にご指導くださった雲水の方々にお礼を申しあげます。


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