流転海08

安泰寺文集・平成20年度


大仙   (安泰寺内・28才)


 安泰寺に行こうと決意したきっかけは、内山老師の「出逢う処わが生命」という言葉に触れたことがきっかけだったと思う。

 その頃、ぼくは都内のビル掃除の仕事をしていて、パートさんを雇ったりもする会社だった。20人以上のパートさんがいる現場を任されたことは光栄に思いはしたけど、パートさんたちの仲の悪さ、愚痴の言い合いなどの程度が並外れてすごかった。上司という立場のぼくに対してでさえ愚痴も文句も言いやすかったようで、しょっちゅう苦情、悪口、他人の告げ口などの電話がかかってきた。とにかく、同じ制服を着て、同じ休憩室で休んでいるにも関わらず、絶えず個人と個人の間で争いが絶えなかった。いや、もちろん、そうなってしまったのは、ぼくの管理者としての経験の浅さや至らない所が多すぎた、というのもあると思う。

 けど、それにしても、すごかった。正直、つらかった。それと、憎しみと対立ばかりの人たちを目の前にしていて何もできない自分がやるせなく、悲しかった。

 そういう人達との出会いを通して、より一層仏教の本に魅かれていった。人って何?人間ってどう生きればいいんだ、という疑問が頭を占領していた。というか、救われたかった。毎日毎日、救いを求めて本屋に行っていました。何が問題かもわからず、漠然と「どうしたらいいんだろう、どうすればいいんだろう」とあがいていたのを憶えています。仏教にその答えを求めていたのだと思います。

 そこで、内山老師が「出逢う処わが生命という生き方こそ本当に豊かな生き方だ」ということを著書の中で見て、「あ、自分が求めているのはこれかもしれない」と思いました。それから、しばらくしてその思いが溜まりに溜まって、爆発した。仕事をしている身の上にも関わらず「今日、安泰寺へ行く」と決めてしまって、仕事も何も放り出して、安泰寺に飛び込んでしまい、とうとう今に到ります。

 その時は、本当にたくさんの方にご迷惑をおかけしてしまい、申し訳なかったと思います。

 それから、安泰寺に来て1年が経とうとしています。自分は何か変わったか・・・。

 それは正直わかりません。

 小さい頃から寝る癖がついていて、授業中も移動中も寝てばかり。学生時代の友人は皆、ぼくが起きていると「あっ、起きてる!珍しい」と言われるほど、寝ぼけた学生生活を送っていました。

 それが変わったか・・・思えば、生活の中であくびをする回数はすごく減りました。でも、「おれは人生に目覚めたのだ」なんて言ったら、きっと堂頭さんは、「へぇ〜、前とあんまり変わってないように見えるけどな」といわれるに違いありません(笑)。

 生活の中での寝ぼけた時間は減りましたが、坐禅中はまだ難しい・・。 どうしたらいいのだろう・・・と接心中はとくに反省します。けど、わからない。

 寝たくはないけど、寝たら、堂頭さんに叱られる。でも寝てしまう。 きっと坐禅とぼくとの距離が遠いのか、坐禅と親しくなるまで到ってないのだと思います。ぼくは坐禅と親しくなりたいと思っているけど、どうもあちらが・・・と言っても、自分の事なんですけど・・・今もどうしたら、どうやればいいのかな、と工夫している最中です。

 そんな感じの日常なので、自分のなにかが変わったかどうかは問題にしなくなってしまいました。

 それが、安泰寺に来てからの自分の変化といえば、変化かもしれません。

 澤木老師の言葉に、

 「坐禅ににらまれ,坐禅にしかられ,坐禅に礙(さ)えられ(邪魔され),坐禅に引きずられて,泣き泣き暮らすということは,もっとも幸福なことではないか。」

 とありましたが、坐禅と堂頭さんと他の雲水たちににらまれ、礙(さ)えられ、しかられ、引きずられて、泣き泣き暮らすことは、もっとも幸福なことだと信じて今後も泣き泣きがんばりたいと思っています。


Switch to English Switch to French Switch to German Switch to Spanish