流転海08

安泰寺文集・平成20年度


由紀  (千葉県・38才・会社員)


 今年は宮浦前堂頭の7回忌にお邪魔させていただき、多分10年ぶりに安泰寺に上がりました。その直後には原稿に書くことがもっと頭にあったのですが。ともかくそのとき、宮浦前堂頭からわずかな間にもいかに大きな影響を与えてもらったか、変わらないものがあることを痛感しました。仕事柄(予備校講師)、高校生や大学生に接する機会が多いのですが、私の年のせいなのか、昨今の若者の傾向なのか、苦労していない若者達だからなのか、若者らしい悩みに接することがほとんどありません。そんなに深く関わっていないので当然かもしれないけど、波長が合う者同士だとすぐに通じるものがあるものだが、そういう波長が流れてこない。電磁波はいっぱい流れているはずなのだけど。自分自身が安泰寺に上がったころは若者としてずいぶん悩みあがいていて、面白いことも多く嫌なことも多かったが、前途はほとんど白紙であった・・とはいえ今も白紙といえば白紙であるのが良いような悪いような。その白紙が破けるかというような状態に近いときに安泰寺があったおかげで今があるのはある意味で確かだ。中途半端でも畑をやっていて偶に野生化した野菜を食べたり、日々の生活や先行きに安定感はなくても精神的なよりどころがどこかにあるような気がするのも安泰寺に関係がある。しかし中途半端なのはいつも時代も変わらない。若者だった頃に出会った思想、先人の生からこの矛盾を抱きつづけることが生きることなのだということは理解したつもりだったけれど、矛盾を抱いて生きるということしかしていない、そこにとどまっているような気がする(今日)。前進なき日々。目に見える前進も目にみえない前進もない。嫌でも見える周囲では、皆より豊かな生活を目指し、すでに豊かならその保持を目指して幸せそうに見える。金持ちになったから成功したといって喜んでいる。子どもたちを英会話クラスに通わせて、英語ができるようになると信じている。くだらなくても日本のメディアにある情報を共有する。おかしいんじゃないの、と思ってもそう言える相手がいない。大学や留学先でのように勝手なことを言い合えるような雰囲気ではない。こんな世界にはとてもついていけない〜と内心独り言を繰り返しながら、必要最低限まわりにあわせてやばそうなときは黙るという術を身につける。一度でいいから大声で「あほか」と言いたい気持ちでいっぱいだけど、喧嘩すれば負けるだろう。やっぱり現代の社会で主流になってる価値観は強いだろう。なぜ同じように考えたり行動したりできないのか、なぜ唯我独尊に徹することができないのか、中途半端な悩みの日々。

 ひとつポジティブ(どちらかというと)な感じは、安泰寺に上がらせてもらった後にも、内山老師の本を読んだ後にも、あったのですが日常の罠からのかすかな離脱感。かすかではあるけれど、日常に積もるヨドミにおぼれて死ぬことはあるまいという感じ。日常は澱む、どんな日常も澱む。悟れば違うのかもしれないけど、ほとんどの環境では日常は澱んでいく、そのままでいいわけがない、澱みを掃除しなければ、時々は、あるいは臭すぎる澱みだけでも。生きることが問題だ、生きるだけなのだともいえる、とにかく生きる、ただ生きることができればそれでいいのかもしれない、でも良く生きるほうがいいのかもしれない。良く生きるというのはおかしいか、良し悪しではないのかも。とにかくどう生きるのか。その当たり前すぎる出発点にもどるときに澱みが化学変化する、ような感じがする。私は自分がいないように感じるとき、私の知り合いも家族も知らない島にいるとき、誰もお金をほとんどつかわない村にいるとき、ああ私がここにいることは私とこの見知らぬ人たちしか知らないけどここで笑っている、戦争なんかは無くて普通の生活がある、私はただ生きている、風のように通り過ぎていく、と思うときがほんとうに幸せだった。それに日本でも北のほう私のルーツがあるあたりで、普通の人が無名のまま昔からの芸能をやる、そのかたちと動きを見るだけで、何かが透けてみえる、昇華する。ほんとうにすばらしい精神の状態に本の中で触れたりすると、直に流れてくる。よく書き残してくれましたと感謝する。そんなときも偶にはあるかもしれない。それは日常ではなかった。でも日常の中でさえそんな境地になる瞬間が増え、瞬間が長くなり、どこにいても日常の澱みを化学変化させる術を身につける日が来るかも、わからない。実際それはものすごく地味な意識の鍛錬だから、そんな高い望みは日常のよどみの中ではたいてい忘れられる。現実は、日々の澱みはくだらない、くだらない雑念に自分の精神を蝕ませる(あくまでも能動態)私の薄弱な精神はさらに劣化していく。でもこの自覚がまだ大丈夫なしるしかも・・内山老師が言うようにオトナになるには遠いけど、過去の歴史にも、世界のあちこちで、高い精神性を求める時代というのがある。精神性を保つには精神性以外のものともうまく渡り合わないといけない(ここ最近南フランスのCatharsの歴史を読んでいる、彼らは徹底的に殺されて歴史から抹消されてしまった、とてもいろんなことを感じさせられる)私も同じ人間だから、求めればいいだろう。


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