流転海08

安泰寺文集・平成20年度


貞夫 (横浜市・72才・元新聞記者)


「冷や汗」。落語家の楽太郎さんが、先日、料理の名前にこんな名称をつけたエッセイを新聞に書いていました。懐かしい料理を紹介する欄ですが、こんな、人を食ったタイトルをつけて、またバカ言っているな、なんて思いながら読み始めました。こちらがとんだ早とちりしていることに、すぐ気付きました。「冷や汗」でなく、「冷や汁」だったのです。たまたまこの日、楽太郎さんの独演会を聞きにいくことになっていました。何となくニヤつきながら満席の小屋を眺めまわしたものでした。

 太宰治でしたか、芥川竜之介でしたか、或いはそのどっちでもなかったかもしれませんが、「その男は、いつも面白い事を言って周囲を笑わすので、知人たちはいつも笑う準備をして男と相対した」というような意味のことを言っています。

 寄席に出かけるのに、腹を立てるつもりで行く人は一人もいません。独演会のこの日、おそらく一人の例外もなく、笑いはすぐ弾ける段取りになっていた筈です。コトは予想通り運んで、小屋はもう賑やかなこと、賑やかなこと。

 「客席の笑いが少ない日はですね、楽屋では、今日の客はバカじゃないの、なんて話すんですよ」に、ひときわ大きな笑い。話す方も、あっけらかんとバカと言うし、聞く方も、それを気にする様子は全くありません。バカだと言われた客側が、カラッと笑っちゃうんですから、楽太郎さんも楽だろうと思いますよ。

 バカバカしいお笑いの一席から、場面を映画館のスクリーンに移すことにします。

 ドラマ脚本家でもあり、小説家、エッセイストである向田邦子さんが、「言葉の表現に、いろいろ制約を設けるなら、もう脚本、書かない」というような発言をしたということが、私の記憶の引き出しの何処かにあるのですが、(引き出し違いでしたら、ごめんなさい)。

 先日、大ヒットのアニメ映画「崖の上のポニョ」を見て、ふっと、この向田さんの発言に思いが飛びました。

 アニメにこんな場面があったことは、御覧になった方は覚えていると思います。

 ポニョのボーイフレンド、宗介少年の家は海に面した崖の上あります。お父さんは船長さん。その日も、お父さんは仕事の関係で急に帰宅できなくなりました。一緒の夕食を楽しみにしていたお母さんは、何時ものことながら、この予定変更に腹を立てます。沖合いを航行していく夫の船を見つけると、宗介にライトでモールス信号を送らせます。ビーエイケーエイ・ビーエイケーエイ・ビーエイケーエイと、居間に仰向きになって脚をばたつかせながら、叫びます。画面にはBAKA.BAKA.BAKAと字幕が出ます。(因みに、インターネット情報によると、ライトは字幕通りにちゃんと点滅していたそうです)。この時のお母さんの気持ちには、「嫌い、嫌いは好きのうち」という、都都逸的心情に通底するものがあったはずです。

 なるほど、宮崎駿監督も、表出の方法は異なっていても向田さんと同じことを考えているぞ、と思ってしまいましたが。私の早のみ込みでしょうか。あるいは、深読みのしすぎ?

 女流作家ついでに、有吉佐和子さんにもお付き合い願うことにします。

「昨日、辞書引いた単語、もうわすれちゃった」が、あの「恍惚の人」執筆の原点とか。どうやら、有吉さんは、一日経って単語の意味を忘れたようです。当時、四十歳そこそこの有吉さんが、まさか「ぼけちゃった」など考えるわけがありませんが、才ある人は、そんなありふれた経験を名作に仕立て上げてしまうのですね。

 こうした話を聞くと、私なんか立つ瀬がなくなります。英語雑誌で時事問題など読んでいる時、どう解釈したらいいのか判別できない単語によく出会います。小説と違って読み飛ばすわけにいきません。ほんの数行に、いくつもが繰り返し出てくる、なんてことも間々あります。

 私の手元には電子辞書が三台あります。(辞書を台と表現する時代なんですね)。二台は文庫本ほどの大きさです。別の一台は外国に出かける時、持参する小型のものです。

 今年の秋口までは、大小二台を並べてお世話になっていました。数分前に調べた単語が再度現れるちょっと前に、別のヤツが現れて、といった時に対応するためです。「数分前」を忘れてしまうのです。ところが段々、二台では覚束なくなってきました。やむなく、最近、三台目を求める仕儀に相成った次第です。勝手無駄でしたと言いたいところですが、これが役に立っているのです。情けない。(ボケ?まさか。勘弁してくれー)。

 「認知症」が、「呆け」にとって代わってから、もう大分、月日が経ち、完全に市民権を獲得しました。しかしながら、私はこの「認知症」という表現を認めたくない気持ちを、しつこく持ち続けています。脳みそがしっかりしていて、ちゃんとした判断が出来るから、ものごとを認知するんじゃないのかな。呆けとは対極にある言葉だと認知しています。もし自分がオカシクなっても(想像するだけでも腰が引ける感じですが)、「俺は認知症じゃねー。呆けだ。」なんて言い張るんじゃないでしょうか。もしかすると、特別な医学用語かもしれません。それなら丁度いい、今、国が難しい医学用語の見直しをしている最中ですから、そこで取り上げたらいい。

 思うに、「認知」という表現には、何か胡散臭さがあります。「後期高齢」を「福寿」なんて、何処かの誰かが慌てて言い換えました。あの、その場しのぎの姿勢が、「認知」という、分かったような分からないような表現を産む悪しき土壌になっていると思えてならないのです。ボケと言い切った方が、男らしく、さっぱりしていて、ずっといい。

 これからお話することは、私の勝手な想像です。もし今、有吉さんが「恍惚の人」を別のタイトルで発表するとしたら、と考えました。「認知の人」などもちろん論外で、いっそ「呆けの人」にしちゃうんだろうと無責任に推測します。なに、「惚け」は、「ぼけ」と読むんですから、そう滅茶苦茶に見当をはずしているわけでもないでしょう。

 マイノリティーを暖かく、柔らかに包もうという考えに異論を唱える人はいないでしょう。排斥すべき差別用語は、躊躇なく排除すべきです。しかし、「火事場の馬鹿力」を別の表現にしたらどうなるでしょうか。漫才のボケは何と言ったらいいのでしょう?歴史と伝統が詰まった言葉には、抹殺しきれないものがあります。

 慎みと相手への思いやりを忘れさえしなければ、何をどう言おうと、どう書こうと目くじらを立てる人はいないでしょう。過ぎたるは及ばざるが如し。不自然に思えるほどの自己規制は、一種の「言葉狩り」を連想させます。求めて窮屈になる必要など無用です。「魔女狩り」も「赤狩り」も暗いイメージを思い起こさせるじゃありませんか。

 最近、こうしたことが妙に気になって、以上、想いを書き連ねました。

 季節は「紅葉狩り」です。近々、秋の京都を訪れるつもりです。錦を仰ぎ見ながら、のーんびり、のびのび散策を楽しみたい。久しぶりです。


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