流転海46号

安泰寺文集・平成21年度


無方 (兵庫県・四十一歳・安泰寺住職)


 「安泰寺の本尊はナニブツですか」と聞いてくる人が、ごくたまにいます。大体、「オマエのする坐禅こそ安泰寺の本尊なのだ」と、自分でもすこし格好つけすぎかなと思いながら答えています。

 「いや、そうじゃなくて、須弥壇(しゅみだん)の上にいらっしゃる仏さんのことです。何々如来とか、いろいろあるでしょ?」

 それくらいはこちらも分かりきっています。ただ安泰寺の場合、その「何々如来」というのがよく分かりませんので、「オマエこそ」でごまかそうとしているのです。第一、自分が住職している寺の本尊が分からないなんて、あまりにも情けないではありませんか。

 曹洞宗の御寺院の多くは、釈迦牟尼仏を本尊とします。安泰寺の本尊も、釈迦如来に見えなくはありません。しかし、阿弥陀さんではないかという説も誰からかは忘れましたが、確かに聞いたことがあります。ただ、阿弥陀如来の印相は、一本以上の指で輪を作っている場合がほとんどです。安泰寺の本尊の印相は施無畏与願印(せむいよがんいん)といって、右手を上げて相手に「畏れなくてもよい」と手のひらを向け、左手は手のひらを上にしてひざの上に乗せています。相手に何かを与えるしぐさだそうです。問題は、この施無畏与願印は釈迦如来の場合も阿弥陀如来も使われます。薬壷の取れた薬師如来もこの形になりますから、印相では判断がつきません。

 私自身の勝手な想像は「毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)」です。何しろ、奈良の大仏にそっくりではありませんか。手の持ち方や腹の出し方から目つきまで。そういえば、安泰寺が創られたときには、この本尊は奈良県にあった廃寺から持ってこられたとか。奈良大仏(毘盧舎那仏)と何らかの縁がないという保証は何もありません。

 ところが、私はこの奈良大仏があまり好きではありません。二回ほどお参りしたことがありますが、どちらのときも素直に手を合わそうという気持ちにはなれませんでした。ニヤッと見下さられているという感じが何よりもいやです。

 安泰寺の本尊の場合も、長い間はそうでした。が、今はそうでもなくなりました。本堂で三拝九拝しても、いやな気がしなくなりました。彼と視線があっても、目をそらさなくなりました。むしろお互い分かり合っている気すらします。どうしてでしょうか。最近、妻によく「メタボおやじのくせに、わたしを見下しているな」と無実の罪をきせられ、日々怒られているせいで、本堂のあの人に妙な親密感を抱くようになっただけなのかもしれません。


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