流転海46号

安泰寺文集・平成21年度


進 (山口県・六十歳・元サラリーマン)


 私は十月十九日が誕生日で、今年六十歳の還暦となった。私の会社では、六十歳の誕生日の翌月末日が定年退職となっている。したがって今月十一月末日が退職日となる。二十二歳の時、入社し三十七年余りのサラリーマン生活をしたことになり、その間悲喜こもごもいろいろとあった。でも無事に職業人生の終点を迎えることができたのは、やはり先輩の指導、後輩の協力、家族の支援があったことは間違いのないところである。

 考えてみると、この三十七年余りのサラリーマン時代は仕事を通じて社会貢献をしては来たものの、民間会社である以上やはり生産性の向上、能率であり、自社の利益を超えることはできません。そこには、売上高のアップと原価のダウンであり、無駄の排除です。これを日々努力することで会社は成立ち、ゴーイング・コンサーンとなる。

 ふと人生を振り返ると疑問も生じた。

 人間に知恵が付き、いろいろと考えるようになると、物事の判断を下し、好悪、善悪、美醜、真偽を分別を始めた。確かに、この過程を進歩させることにより、人間はグループを作り、より快適な生活、社会を形成してきた。そしてこれこそが人間的な文化生活・文明社会であり、理想社会と信じてきた。だが、反面それに落ちこぼれができ、過度なストレスを生じ、うつ病患者を造ったのも、人間の悪知恵か?

 こうして職業生活を続けていたが、四十五歳の時、図書館が近くにあり、仏教関係の本を読み漁った。読み進める中で、沢木興道老師の言葉に出会い、疑問の糸口が見出せた感じがした。

内山興正著「宿なし興道・法句参」(柏樹社)より

一、
わしのことを宿なし興道といいおるが、
これはべつにわしを、けなしたわけじゃない。
一生寺をもたず、住居ももたんときておるから、
宿なしというたんじゃろう。
ところが人間だれでも、じつは宿なしなんじゃ。
固定した宿があると思うとるだけは、間違いなんじゃ。

二、
人生観と関係のない宗教なんてペケだ。
仏法とはゆきつく所へゆきついた人生観を教える宗教である。
外道降伏とは中途半端、いい加減、ゴマカシ、
不十分な人生観を入れかえさせて、
ゆきつく所へゆきついた人生を歩ませることである。

三、
大概の人間のやることは、べつにはっきりした人生観が
あってやっているのではない。
ただ肩凝ったときトクホンはってみるくらいの、
まにあわせの人生観でやっているのでしかない。

 この視点から、肩の力も抜け、私の「座禅人生」が始まった。それは山口市にある瑠璃光寺での日曜座禅会、そして下関市の功山寺での座禅を続け、安泰寺での摂心となり、今日に及んでいます。定年退職を機にもう一度、原点に戻り、これからのライフワークを再検討し、再出発するつもりです。                   合掌


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