流転海46号

安泰寺文集・平成21年度


真龍 (兵庫県・光雲寺住職)


 妙法蓮華経方便品第二に、舎利佛がお釈迦様に法を説いてくださいと、お願いするところがございます。しかしお釈迦様は、法を聞いて分かったつもりになって、傲慢になる者がいるから、すぐには法を説きませんでした。これは仏教は単なる教訓の集積ではないからです。安泰寺に安居した時に、まず黙って十年坐ることを告げられます。法を聞く態度というものがあるからです。

 安泰寺の本堂の真ん中に文殊菩薩がいます。沢木老師の移動叢林を共にした文殊菩薩だそうです。二祖の孤雲懐奘様が遺言のように書かれた『光明蔵三昧』に只管打坐は「大智文殊の無分別智光」だと書かれています。文殊菩薩は坐禅する部屋の真ん中に置かれているのです、坐禅は文殊菩薩の無分別智光の現成なのでした。しかし私たちの生活は言うまでもなく、あれにしようか、是にしようか、と分別の連続です。宗教の分野でも、キリスト教を信じている人はキリスト教が一番と主張します。イスラム教を信じている人はイスラム教が一番と主張します。仏教を信じている人は仏教が一番と主張します。なぜか、私が信じている宗教だからです。自分が信じているのが一番と思うのです。その自分とは何か、ここから始まるということが良く理解できると思います。

 暮らしの中の喜怒哀楽を受け入れ、坐禅中の思考の罪に気づけば幸いです。そして佛の坐に揺すりこまれていくのです。間違ったらごめんなさい、たしか「ナギャハラジュナ尊者」が「わたし」と言う言葉で自他を切り離すのだと説かれた事を、かなり昔に誰かから聞いたことがあります。恐らく、私は尊い命で他は物と意識し切り離すのでしょう、そして幸せになりたいと追求する。内面の暮らしで言えば、豊かな私が貧しい貴方を支援していると思う、そこに忍び込んでいる、豊かで幸せな私と、貧しく不幸な貴方と、二つに仕切る。修行している優れた私と、修行もろくにしていないダメな貴方と言って裁く、修行者に忍び寄ってくる自他の見。神を敬うと言う神と私、人を咎めないと言う、寛容に潜む自他を仕切っておいて解消しようとする迷い。それではどうすればいいか、どうすることもできないのです。優しい人は、悲しみに気づけば気づくほど道に憧れます。坐蒲に身を置いて、たった僅かな時でも頭を軽くして、足を組み手を組む姿勢になったら幸いです。それがどうなると言うものでもございませんが、力を抜いて何回も行うのです。その方向さえ定まって、素直に縁の深さに直面し、何時でも何処でも、どんな時でも、自分の曲がり真っ直ぐの道といえるのでしょう。闇を照らす光が邪魔にならないのは幸いの中の幸いです。

                           九拝


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