流転海46号

安泰寺文集・平成21年度


大地 (愛媛県・五十八歳・龍現寺住職)


 「諸悪すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまちに現成す。」

 (諸々の悪が、全くつくられなくなってゆくところに、修行の力が、ただちに現れる。)

 何となく分かったような感じでいましたが、もう少し考えてみようと思います。「諸悪すでにつくられずなりゆくところに」とは、もちろん、悪をなさないという事であり、言い換えれば、真実の存在になるという事でしょうが、もっと具体的には、坐禅修行の事になると思います。坐禅が真実のあり方であり、そこに坐禅の修行の力が、即、現れている。修即証という事であると思います。

 ところが、私はこの事が、よく信じられず、せっかく坐禅しながら、悟りが欲しい。もっといい境涯になりたい。こんなに坐禅しているのだから、何かいい事があるに違いない、などと色々考えてしまう事が、時々あります。しかし、これでは修行の結果を求めているので、沢木老師の言われる「ただする坐禅」にならないと、反省する事しきりです。

 また、坐禅中の妄念を静めようとして、「何とかの瞑想」をやったり、人にも勧めている人がありましたが、私は、そのようなよそ道をせず、何とか、ここまでやってこれたのは、渡部老師をはじめ、諸先輩のおかげで、本当に感謝しております。

 道元禅の特徴は、坐禅の中に、何も持ち込まない純粋な坐禅にあると思います。 

 「この奉行のところにかならず衆善の現成あり」

 (この善をなす、(坐禅)修行のところに、かならず諸々の功徳が現れる)

 このように言われても、長い間、坐禅してきて一向に何ともないので、これでいいのだろうかと、つい思ってしまう事があります。

 「作善の奉行なるといへども、測度すべきにはあらざるなり」

 (作善(坐禅)が、なすべき修行であるのであるが、人間の分別で、おし測ることは、できないのである。)

 自分が、どのくらい修行ができたか、知りたい、というのが人情ですが、「自分が………したい。」というのは、結局、自分の個人的な我欲であります。エックハルトも「われわれを真実の人たらしめるものは、意思の放下以外にはない。」と言っています。それに誰かと違って、自分の事を客観的に見る事はできません。また、坐禅の功徳を、いくら頭で推し量っても、すべてを知り尽くす事ができるはずもありません。

 もちろん、綿密な行持と正しい修行を分別する智慧が必要ですが、これでよいのだろうか、もっと違う方法はないのかとか、あまり考え過ぎるのも善くないと思います。エックハルトは「ただ神のみを注視しなければならない。そして、そのようにして前進し、恐れをいだいてはならない。過ちをしないように、これで正しいかどうかと一々考慮しなくてよい。もし画家が最初の一筆の際に先々の筆致をすべて考えようとするならば、何も画けないであろう。」と言っています。

 「この現成は、尽地尽界、尽時尽法を量として現成するなり。」

 (この現成は、大地全体、世界全体、時間全体、法の全体を、その量として現成する。)

 これからも、坐禅が永遠につながる行であると信じて、「南無坐禅仏」(坐禅が仏行であると信じて行じていく)という信仰生活を続けて行きたいと思っています。そして、それが周囲の人々とお互いに、善い影響を与えあうようになればと願っています。


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