流転海46号

安泰寺文集・平成21年度


綾子 (兵庫県・四〇歳・写真家)


 私が安泰寺に滞在したのは、八月の四週間で、参禅者もほとんどなく、大変静かな安泰寺生活でした。無方さん、智美さん、大仙さん、アンジェロさん、アレックスさんには、とてもお世話になりました。それと恵ちゃん、光ちゃんにも。

 安泰寺での生活、朝二時間の座禅や食事の仕方、作務のハードさにも少し慣れ、一週間か二週間が過ぎた頃、ある朝、座禅しながらふと頭に浮かんできたイメージがありました。真っ暗闇の穴の中で、上に向かって登っていこうともがいているのですが、四方の壁がぬるぬるつるつるとしていて、どこにもつかまって登っていけるようなひっかかりが何もなく、ロッククライミングのようにはいかないので、これはもう登りようがないと、ついには諦め、ただじっとしていると、上も下も左右も何もなく、別にどこへも行く必要もないのかもしれないな、と思い始めたのでした。

 たしかに座禅は、ひっかかりやとっかかりなどが何もなく、鐘の音が鳴って次の行動に移行するまでは、足が痛い他はなにもないし、安泰寺の生活も、座禅と掃除と食事と作務とお風呂と読書と睡眠の繰り返しです。ときどきコーヒーをすすりながらおしゃべりしたり、大仙さんの焼いてくれた蒸しケーキをぱくついたり、放散の日に温泉や浜坂でお買い物するのがちょっとした楽しみでした。こういう毎日は、やはり普通の私の日常で、次の週末には何をしようかと考えたり、次の仕事の予定や、来客に合わせて予定を組んだり、次にどこかへ出かける予定を心待ちにしたり、といった日常からの変化が、心の中であるひっかかりとなって、次に進んでいくような気分でいる毎日とは、やはり大きく違うなと思いました。どうしてもなにか変化のある部分をぐっとつかんで、次へ進んでいる気分になりたいと思う自分がいます。何というか、未来の予定の方が、今この現在そのものよりも、ずっと重要になっていることが多い気がします。

 私はたった四週間しかいなかったので、しばらくしたら別の場所へすぐ移動できるのが分かっていたけれど、これが何年もこういう修行をするのであるなら、それはそれは、辛いことかもしれないなと思い、あるとき大仙さんにそんなつるつるした中にいるイメージが湧いたと話したら、彼も、「たしかに、そうかもしれないですねー、安泰寺の生活は。」と頷いていました。アレックスさんは、「うーん、どうかな?」としばらくそのことについて考えていました。でも大変な反面、そういう自分の弱さや辛さを発見し、徹底的に立ち向かっていける彼らがうらやましくも感じました。

 安泰寺では、家族からも離れ、久しぶりに一人になって、自分を見ることができ、他にもいろんな実感を持つことができました。

 もう一つだけ、印象に残ったことを書くと、軽トラックでぼこぼこの山の斜面を走ったり、雨の中草集めしたり、田んぼの中で、夢中で四つん這いで雑草を取ったりと、今まで経験したことのない重労働をしていると、これがもし時給八百円で働いていたら、つくづく嫌になるだろうなと思いました。四時間働いてもたったの三千二百円だけ。でもここでは、どれだけ働いても、自分の懐には一銭も入らないのに、なぜかとても爽快な気分で働くことができ、これって儲けを考えないでいいことの、気分の良さなのかなと思いました。でもこれも、ある一定の日々だけやったから、そう感じたに過ぎないのかもしれませんが。

 今回は、一日接心だけ経験することができましたが、来年は、五日間接心にも挑戦してみたいと思います。

 安泰寺の皆さん、ありがとうございました。そしてまたお伺いします。


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