流転海07

安泰寺文集・平成19年度


奈美江 (神戸市・34才・看護師・カウンセラー))


 ・・・、想像だにしなかった内容をお待ちしております。

 そんな、無方さんからの文集依頼のメールを読んで、メラメラと闘志を燃やしてしまいました。

 安泰寺に通いだして1年とちょっと。通うと言っても、まだ3回。坐禅は、未だに時間との戦い。そして、堂頭さんの前では、若干緊張してしまう小心者です。

 さて。
 わたしは、宗教が嫌いです。世界中に、多数の宗教が存在している今日。宗教の数ほど、争いがある。これは、過言ではないような気がします。宗教と政治の裏のつながり、そこで発生する多額のお金、そして、カルトまがいの狂気の宗教団体。かと言って、声を荒げて宗教に対する嫌悪感を発表するほどの、宗教への知識もありません。

 「じゃあ、あなたは何を信じているの?」半年前、高校時代の友人と久しぶりに再会した際、彼女にこう聞かれました。彼女は会社の同僚と恋人同士となった矢先に、相手の浮気が発覚。落胆している最中に出逢った、スピリチュアル系の遠隔ヒーリング。そのセラピストには叱責されるし、高額な費用は請求されるし、さらに神経は衰弱する一方。そこで彼女に、何を信じたらいいのか、と尋ねられたのです。日常生活でも、質問をされたらその意図を推測してしまうのは、カウンセラー(自称)の悪い癖なのかも知れません。でも、彼女はきっと、じぶんのことに自信が持てずにいるのだろうと、感じ取れました。そこで答えたのは、「わたしは、わたしを信じてる。」わたしがよく言うのは、『じぶん哲学』あるいは、『じぶん宗教』という言葉です。誰にでもあるだろう、個人の中に渦巻く思考や迷い。それを解決するため、判断する基準をどこに照合するのか。

 カウンセリングに、【フォーカシング】という技法があります。これは、じぶんの内側に焦点を当てて、身体が感じるものに寄り添い、そこから出てくるものを受け取るというものです。先日も、淡路島にて“フォーカサーのつどい”というフォーラムがありました。そこで講演されたのは、アメリカから来られたドラリー・グリンドラー・カトーナ博士。通訳の人がいて、わたしが講演の内容を理解するのには、少しのタイムラグがありました。しかし、彼女の口から「DOGEN」という言葉が聞かれたときには、わたしの身体にビクンッと電気のようなものが走り、一瞬にしてシンクロニシティしたのです。そして議題は、『フォーカシングと禅』へ。フォーカシングでじぶんの内側に注意を向ける際に、《クリアリング・ア・スペース》という作業をします。「心に空間をつくると、じぶんがよく見えてくる。」初めて安泰寺で坐禅を体験したときに、無方さんが教えてくださったと言葉と重なりました。飽きっぽいわたしが、続けることができているフォーカシングと禅。道に迷ったとき、なにかに手を合わせて拝むより、己のなかに問うてみる。

 さて、さて。
 宗教ってなんだ。どんなにじぶんに聞いても問題が解決しないときは、不安になる。そこで、仏様に傍にいてもらえれば、安心感が得られて、再度、問題と向き合う勇気が湧いてくるかも知れない。いつかはじぶんにも命の最期がくる、という恐怖心に苛まれるより、神様が天で待っていてくれると思えば、生きていくことが心強くなることか。宗教は、個人の信念である『じぶん宗教』のスーパーバイザーなのかも知れない。そうなれば、意外と、宗教も悪くないかもよ…。

 そんな、わたしのちっぽけな宗教観は、これから大きくなって宇宙へと旅立てますように。その願いを叶えるのは、じぶん。そして、仏様は壁に向かって座るわたしの後ろで悠然と見守ってくださっている。ああ、なんて安らぐのでしょう。

 この作文が題名に沿ったものになったかは、幾分疑問を残しながらも、最後に。住職不在時や放参日でもないのに、図々しく上山してくるわたしを受け入れてくださった無方さん、言葉もわかってないのに丁寧な指導を施してくださった雲水さん、なかでも夜遅くまでコーヒー飲んで語り合ったMくん、「おねえちゃん、おねえちゃん」と可愛い笑顔で癒してくれためぐみちゃんとひかるくん。みなさんに、心より感謝いたします。そして、天空の城・安泰寺。今は下界であなたとはかけ離れた生活をしているけど、必ずまた会いに上山いたします。そのときは、礒部ではなく、杉野という苗字になっている予定ですので、よろしくお願いいたします。


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