流転海08

安泰寺文集・平成20年度


公一 (兵庫県・28才・塾講師)


 月日が流れるものは早いもので、初めてネルケ無方さんとお会いしてからもう二年以上たってしまいました。
  ちょうどその頃から今の仕事場で働き始めたのに加えて、いま乗っている愛車(15年もののボロですが…)に乗り始めたのもその頃なので、記憶がハッキリしています。さらに一年遡ると、その頃にヨーガと出会っています。かつては"最先端の心理学を学ぶぞ!"とアメリカに行ったものの…僕の動機が弱かったのか不純だったのか、それとも心理学そのものが所詮そんなものなのか…、学んでも知ってもおいらのパニック症+鬱の症状は一向に良くなりゃあしない。むしろ単純な生活さえ続けられないほどに悪化さえしてしまう結果になってしまいました。
  日本に悔しい思いで帰国し、虚ろウツロしていたそんな最中でのヨーガの考え方は強力な坑不安剤+坑鬱剤でした。それまで確かなものだと考えていたあらゆる価値観がとどめなく否定され、そして自分の考え方そのものに不純な"我侭"であったりとか"欲"で塗り固められていたのでしょう。その一方で、人間というものはそんなもの…ひとつひとつ在るがまま受け入れ客観的に自分を見出だし、その客観的な観点から日常にひしめく仕事や人間関係を受け入れてさらに自省する… 良いことも悪いことも、自分と自然や社会との間の隔たりなんて本来はないもの、ありとあらゆる悩みというものは自分自身が作り出した虚像に過ぎないと。

  ヨーガの話から始めましたが、言わずともインド発祥の歴史からでも仏教の世界観と共通する部分が多々あると思います。日本で根付いた歴史の長さからすると仏教の方がより多くの人にとって身近に入っていけそうな雰囲気がありそうです。たとえばひとつのテキストであるヨーガ・スートラの例え話も???が多いですし・・・ サンスクリット語も馴染みが薄いですしね。 一方で日本の仏教でも本質からかけ離れる結果をもたらした檀家制度があったり、学校の日本史で暗記させられるに過ぎない"単語"だけの世界だったりしますが・・・ 僕は「宿なし興道法句参」をベッドの横に置いていて、眠る前によく読みますが(読んでから眠るとよく眠れますので)、そこで沢木興道老師の「文化財や国宝など、焼けてしまってもいいんじゃ」というお言葉がとくに好きなんですよね。(笑)「ナマクラ坊主を飼うとくため・・・」と挙げておられますが、そこには仏教本来の"自己ありき""無常観"が疑問なく伝わってきます。僕自身の仏教に対する違和感が不思議と消えた一冊でもあります。そのような意味での"本来の実用的な仏教"を現代社会に取り入れる「ルネッサンス」をできないものかと思ったりするわけです。
  どうも最近さまざまなニュースを耳にしていると、もしくは普段の生活からもそうですが、アメリカ的になってしまった弊害はとんでもないと思うようになってきました。お金を生み出すことは幸せにつながるのか・・・ サブプライムローンなんていうのは一種の詐欺ですよね。家という"ハッピーさ"をちらつけながら銀行は債権が目的なのですから、「陥れる」とはこのことを言うと僕は思います。しかもこれがノーベル経済学賞に値するものだというのは、みずからを欺き正当化する一番の例ではないかと!(ちなみに経済学賞はノーベルが創設したものではなく、アメリカがその後作ったものです)日本でもそれがまかり通るようになってきたのが日本人として寂しいもので、たとえば三井住友銀行なんてものは"サラ金"さながらのローンばかりのメニューになって、かつての財閥の誇りなんて微塵も見えてこないし、僕とおなじ若者の世代には稼げばいいものだと「おれおれ詐欺」や広告費収入目当ての「違法サイト」を立ち上げる人が多いです。これは見ようとしている方向が「社会の営みのなかでのお金」ではなく「個人の営利のためのお金」に変化している気がしてやまないのです。殺人事件にしてもそうですよね。決して肯定するわけではないですが、悩み自殺することは人としてあり得ると思ったりもしたりするんです。でもそれが知り合いのみならず全く無関係な他人を巻き込んで殺害するのは完全な「個人のわがまま」に尽きるとおもうのです。
  このような考え方は"中途半端な個人主義"から来ているのではないでしょうか?周りの価値観に視点を置き、すべての出来事を二元論(良い・悪い)だけで判断して、なおかつ欲に踊らされる:「持戒」がどうしてあるのか関係ナシ。その点で仏教は"自己ありき"とどの宗教よりも"自身"に着目していますが、「自分の心の平穏さ」に「社会において自分がどう行動すれば平穏に暮らせるか」を教えてくれる気がしてやみません。ですので今この時代に仏教の「ルネッサンス」が必要ではないかな と。

  幸いなことだと思いますが、塾での先生として教える立場で子供たちと接触するだけではなく、絶えず自分を見つめ返すことができる良い仕事をしているなと感じたりしています。よく「相手は自分の鏡」だと言われます。僕からの行動・言動すべてに反応するわけですが、もちろん・・・と言えばよいのか、学校と同じような"物静かな"授業は"つまらない"という最たる証拠になってしまいます(笑) 時に反抗的な態度を取られるときも、なにか自分の側に問題があったのでしょう。ありがちなのは親や学校の先生と同じような一般論(理屈ともいいますが)を言ってしまった時です。よく周りでは「最近の子供たちはキレやすい」なんて言われていますが、どちらかというと子供たちの受け入れ許容能力が狭く、なかなかストライクゾーンに入らないという説明の方が理にかなっています。「病気の患者は我がままになる」のと同じ理由かもしれません。すくなくとも先進国、なかでも日本の子供たちの目は死んでいます。それなりの進学校の高校生なんて"鬱病"と診断できそうな顔をしています。そんな高校を僕は"鬱人間製造所"なんて呼んだりしていますが、小・中学においても勉強の教え方に決定的な問題があるように見受けられます。授業内容を教えることは問題ないかもしれません。それに誤った"認知"を引き起こさせるのが大問題でしょう。 良い点数を取れば"善"・欠点だと"悪"、宿題を形だけでもやれば"善"・やらなければ"悪"・・・人間が作り出した価値観にあてはめて、表面上の違いで周り と比べさせられる。そりゃあカンニングも出てくるし陰湿にもなって当然でしょ。日本には仏教があるのに(それとも・・・あったからなのか?)とりあえずのカタチばかり済ませたことにする文化がますます常態化してきています。ある中学校の先生の一言「答え写してでも問題集を提出しなさい」・・・・・・なんだよ、それ(汗)個人の責任なんて考えてもいないだろうし、それは尊重すらしてないことでしょ。
  塾やら塾の先生というものは胡散臭いものだと思ってきましたし今も思っていたりしていますが、学校がますます世間の評判を気にし始めて、保守的なのだけれども見せかけの教育現場になりつつあるなか、自分自身のためにも"勉強の本質"ってなんだと説いていきたいですね。仏教やヨーガ、そのような東洋的思想に答えが隠れていそうですし誰しもが望みはじめていることではないでしょうか。

  テレビ(しかも貧乏ウンタラカンタラ…っていう質素さを馬鹿にしたような番組だったような・・・)を車で移動しながら見ていたときに、自分の家から程近い場所で外国人が禅修行をされていると聞いたときには、とても興味と関心をもちました。アメリカにいたときに感じたひとつに"宗教とはなにか?"という問題があります。ジョージ・W・ブッシュがイラク戦争開始の際に「神のお告げ」があったといっています。自分の利益のためだけでも"神・キリスト"を使うなと思いますが、さらに彼は殺人まで犯していますよね。そんな"宗教"ってなんだ? と長きに不思議に思ったものです。日本の辺境地であるような但馬・浜坂にこられた外国人の方々は自分と同じように考えたりされているのかな? 分かりませんけれども、僕はそんな外国人たちをリスペクトしているつもりです。そして安泰寺も。安泰寺という存在があるから"仏教に興味がある"と大きく言えますからね。


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