流転海08

安泰寺文集・平成20年度


大地   (愛媛県・57才・龍現寺住職)


 私は若いころ登山が趣味で、北アルプスの槍ヶ岳や剣岳、白馬岳、南アルプスの北岳、荒川岳、赤石岳、さらに白山や大峯山、石槌山、屋久島の宮ノ浦岳、北海道の駒ケ岳などに登りました。趣味がこうじて、現在、標高350mの山寺に住んでいます。

 さて、登山の醍醐味は、何といっても頂上からの素晴らしい眺め、360度の眺望は本当に美しく雄大で、遠くまで連なる山並みは、自然の奥深さを感じさせてくれます。しかし、それだけでなく、美しい色取りどりのお花畑、万年雪をたたえた雪渓や池、雷鳥に代表される動物、のどの乾きを癒してくれる冷たくおいしい谷川の水、テントや山小屋で食べる食事の味など様々な魅力に溢れています。

 登山にも、やはり人の性格が出るもので、ひたすら頂上を目指す事のみを考えて、登り下りは、その為の止むを得ない苦行のように考えている人と、先に述べた様々な事を楽しみ、味わい、苦しい登りの一歩一歩も単なる苦行でなく、それが登山の魅力の一つと思っていろ人がいます。

 坐禅修行も、やはり二通りあって、悟りという頂上を目指して、苦しい坐禅も辛抱して我慢し、目的を成就したら、もう坐禅はしないというのと、坐禅そのものが悟りの姿であり、日常生活の一歩一歩が修行であり、真実の実践であって、修行に終わりは無いというのとです。

 前者は、一時は悟ったような気分になっても、その後、修行を怠たって、ボケてしまう可能性が高く、また、自惚れてしまって、他人を見下すようになる事が多いようです。それに較べて、後者は非常に現実的で、一歩一歩、着実に生活そのものが修行になるよう工夫し、死ぬまで修行ですので、ボケる暇も無いようです。

 最初の一歩を踏み出した瞬間から登山が始まるように、初めて坐禅した、その時から仏道が成就しているのです。「授記」の巻には、

「授記の当陽に、授記と同参する工夫きたるなり」
とあります。「授記」とは「成仏の約束」「すでに真実の中にいる」という事で、「当陽」とは、「じかに直面する」「まさにその時に」という意味で、この場合の「工夫」とは「綿密な修行」の事です。「もうすでに自分には何の不足も無く、すべて備わっているから、我の突っ張りをやめて、仏道修行に力を入れる、まさにその時、同時に真実が実証される」という意味です。

 ところが、普通の感覚では、長い間の修行の結果、悟りに到ると思ってしまいますが、そうではありません。この事を「授記」には、

「よねつねにおもふには、修行功満じて作仏決定する時、授記すべしと学しきたるといへども、仏道はしかにはあらず」
とあります。

 そして、この次に、

「或従知識して一句をきき、惑従経巻くして一句をきくことあるは、すなはち得授記なり」
とあって、「一句をきく」今、ここの修行、一歩一歩の行履が真実の現成なのです。

 しかし、いくら坐禅しても、一向に何の変わりもなく、何ともないので、もっと特別な悟り、心がスカッと開けたようなものが欲しくなるものですが、そのような自分の欲望を満たしてくれるようなものは、悟りでも、何でもないのです。「授記」には、

「至愚にしておもふことなかれ、みずづからに具足する法は、みづからかならずしるべしと。恁麼にあらざるなり。」
とあって、真実は自己の感覚や意識でとらえられるものではないのです。

 以前、安泰寺で修行した人の中に、無念無想を求めて、何とかの瞑想をやったり、神秘体験とか根源に徹したとか言っている人がありますが、ほんまにこの人達は道元門下なんかいなと思う事があります。別にそういうのが悪いというのではないのですが、道元禅師の教えとは、ちょっと違うんとちゃうかと思います。

 結局、この当り前の坐禅を一歩一歩、着実に続けて行くしかないのですが、これがまた、ドロドロした事が多い世の中にあっては、とても素晴らしい事なのだと思います。


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