流転海49号

安泰寺文集・平成24年度



恵光


    Antaiji

 ここに来て2年の月日が経過した。「檀家を持たない自給自足の禅寺」というフレーズに心惹 かれ上山したのが2年前の9月6日だった。
  気が付けば、同じ日に来た友も、8年安居すると言っていた先輩雲水もいなくなり、今安泰寺 で一番長い人になってしまっていた。
 
  師匠からは折りに触れて「ここで生きていくという気合が足りない!!」と喝を入れられ続け た1年半だった。
  里山の景色を楽しみ、咲いている花の香りを楽しみながらトロトロと、ぼんやりと田んぼ作業 を楽しんでいた。また境内内にはいろんなものが自生しているが、牛蒡もこぼれ種から元気に育 っているものがよくある。牛蒡がうまく育っていなかったその年、そうとは知らず秋に収穫予定 の牛蒡を興味本意で春に引っこ抜き、キッチンに嬉しそうに持っていった。作物の成長も見守る ことが大切との大義名分でズッキーニ任せにして必要なケアも考えず放ったらかしにしていた。 台風であっという間にダメにしてしまっても責任感のない言い訳…。電気柵の管理をめぐっては 本来毎日、時に1日2回行っている柵のチェックを、5日に1回という無意味な方法にも関わら ず電気柵担当の人と感情のぶつけ合いに終わり、冷静で真摯な対処ができず黙認していた。
  自分の都合、我執を切り離して事態をありのままに眺め、冷静に判断できれば違う対処方法も あったと気付く。
  いづれにしても本気でここでの生活を守っていくという姿勢に欠けていた。私はどうやら田舎 暮らしを満喫していたようだ。
 
  しかしいよいよ頼る先輩もいなくなり、それまでのようについていっていればよかった状況か ら一変して、頼りない二人の雲水と共に迎えた今年3月26日からの一般参禅。本気にならざる を終えない状況に追い込まれていたと振り返る。
  この春からは、堂頭は徐々に現場監督的役割を退き、講演・執筆に加え家族の中での役割、責 任を果たすことにも力をいれていきたいということで、これまでどおりに手取り足取り堂頭が何 でもやってくれていた修行から、自分たちで積極的に関わっていくという方針に切り替わった。 というか本来安泰寺の目指す修行はこういう修行だったのかもしれない。
  そうなっては安泰寺の自給自足生活が滞ってはいけない。今植えなければ半年後の食べものは ない。私が知り得た安泰寺を伝えなければ・・・  と無我夢中、我武者羅になって取り組んでい たのかもしれない。
  ところが、気付けば「これが安泰寺!!」と安泰寺を見つけたと思い込み、自分の安泰寺を勝 手に作りあげ、参禅者に強制していたのでした。これはこういうふうに、あれはあゆうふうにや るんだということを次々に参禅者に向かい捲くし立てていた。それをコントロールされている、 と感じるのは外国人特有の気質だけではないだろう。
  そんな折、またまた師匠の「お前なんかどうでもいい」との無言の喝が…
  典座の職を更迭になったのでした。
 
  そこで気付くアレコレ、そしてこれが師匠の師匠から続く教え「安泰寺はお前が創る!」「お 前なんかどうでもいい!!」かぁ~~ と。
  もう一歩突っ込んで分析すると、我執との境目に気付かず我を押しとおしていることに気付 く。自分の世界が常識だろ!と思い込んでいた。
  ジョーシキでしょ~とよく思うことがあるが「私の常識、他人の非常識、他人の常識、私の非 常識」といった感じで、人はみな自分の世界を持っている。その尺度でしか物事をみることがで きない。現状公案にもそのように諭している下りがある。一水四見といって魚にとっては宮殿と 見えるし、天人にとっては瓔珞と見る、人は水と見、餓鬼は火と見る。それぞれの見る立場や方 向からは様々に見えるのである。ただ自分の位置から見えただけのものしか見ていないというこ となのである。…と前回の冬のレポートでこのように解釈した下りがある。
  頭ではわかっていても噛み砕いて自分の血となり肉となっていない。
  今のままの自分ではいけない!!と思い立ち仕事を辞めて早4年半、ようやく自分が探し求め ていたこと、学ぶべきことに出会った手ごたえのこの晩夏だった。
 
  そんなことを感じていたあるとき「自覚を持って生きる」というフレーズが浮かんだ。それは 私にとっては自分自身に気付くことである。坐禅の時に、経行の時に周囲に感覚を研ぎ澄まして いることと同じく自分自身のこころの動きにも感覚を研ぎ澄まして生きたいとの自覚である。
  その自覚から、ずっと「何の意味があるのか???」と思っていた「得度」ということを初め て意識し、10月に恵光という戒名をもらい在家得度をするに至った。自分への覚え書きのよう なものである。
 
  安泰寺での1年1年はたくさんの気付きの連続で、飽きることがなかったように思う。さらに 次の1年が楽しみにさえ思う。1年1年一歩一歩ではあるが、確実に歩んでいる実感がある。
  安泰寺で修行した人はこの11年間で最長2年半、と堂頭は新しい参禅者が来るたびに参禅者 の質問に答えている。3年の新記録を創るつもりはないが、今ここで終われない安泰寺修行。と いうよりまだまだこの師匠の元から離れてはいけないと感じる三年目である。


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