流転海49号

安泰寺文集・平成24年度



アレクサンドル


    Antaiji

 正直と言えば、私は安泰寺に来たときに、あまりその質問をしていませんでした。安泰寺のことはふとお友達から勧めてくれて、その縁があってそれにどっぷり漬かりました。
  今のほうは、なぜ安泰寺に居たいのか、何を求めているのかは3ヶ月前よりはっきりと分かります。
  以下は安泰寺にいて私の10の目的です。

一  自分の都合を小さくして、他人の為に生きる
  自己アピールの時代に生れた私は、小さい頃から自己というものを作ってきました。今まで自分の都合をできるだけ大きくしようとしていました。安泰寺ではこのような精神がダメです。自分の都合を捨てて、常にサンガの為に何かをやらなければいけません。放参があっても、自分の暇と間違ってはいけません。
  これは道元が説いた菩提薩埵四摂法の教訓ですし。自分の時間、自分のエネルギー、自分の考えを他人に施すということを身につけて実践したいです。

二  安泰寺に何かを差し上げる
  以上のポイントに従って、私は安泰寺にどうしても何かを差し上げたいです。安泰寺に受け入れていただきましたので、お世話になりました。この感謝の気持で、作務を一生懸命して、安泰寺の生活に参加して少しだけでも「安泰寺を造る」という計画に貢献したいです。

三  自給自足の理想的な生活から学ぶ
  安泰寺の昔ながら自給自足という生活は理想じゃないかと思います。畑を耕して自分の収穫した野菜を食べると「これは本格的な生活じゃないか?」という感じがします。私は数年前からエコ的な意識を持って、環境を大事にしていますから、その自給自足という生き方に興味があります。安泰寺でその生活を送って色々事を学んでいます。安泰寺を出たらどんなお仕事をするのか、どんな生活するのかまだ決めていませんけれども、畑や田んぼの作業についてできるだけたくさん学びたいと思います。農業に限らずに、燃料を作るなどの自給自足の作業をもっと知りたいです。

四  禅を知る
  フランスなどの欧米国では、禅はかなり人気があります。ストレスのいっぱいある生活の中で、人はどうやって落ち着けるのかと思っています。この問題があって、禅はリラックスする方法ばかりだと思う人が少なくないです。ただ、それは本当の禅じゃなくて偽物の禅だと私が思います。だから、安泰寺の修行で本格的な禅を知りたいです。禅は何ですか?禅はなぜですか?その質問して、これからも答えを見つけたいです。

五  坐って命と死の不思議を噛み締める
  私は坐禅して、自分というものを忘れて、自と他の差別を捨てて、生と死の区別を削除して、全宇宙の源流である「道」と一体になろうとしています。これだけではなく、無常に考えるのも死に覚悟をすることなども私の坐禅する理由です。やはり生きているのは不思議、死んでいくのも不思議んじゃないかなという感じがして、それを噛み締めるように坐りたいです。
  坐禅するには安泰寺が一番いい場所に違いないと思います。サンガの参禅者達と一緒にいるし、決まりがあるし、きれいな本堂がいい環境ですし。安泰寺に来た前に私は自分の家に坐禅していましたが、あまり集中できていませんでした。刺激が溢れる生活の中で、何もしなくてただ坐るのはなかなか難しいのです。時間を無駄にするような気がしますから。大切なメールを書かないといけなかったりとか、テレビで楽しい番組があるかもしれなかったりとか、いろいろな思いが集中を塞いできます。それに、あまり痛かったり眠かったり場合はいつでも「もういい、やめよう」と言うことができます。もちろんこれは修行じゃありません。お寺でしか修行ができないんじゃないかと思います。

六  快と不快の支配から解放する
  堂頭様の9月のご提唱では、「なぜあなたたちは安泰寺に苦難な修行生活しに来たんですか?なぜ祇園の芸者を見に行ったりとか沖縄に遊びに行かなかったんですか?」と問いました。ちょうど私は安泰寺に来た前に、祇園祭を見に行ったばかりで、秋に沖縄にのんびりと遊びに行く予定がありました。結局3ヶ月に苦難の禅修行の道を選びました。なぜこのような選択をしたのかと思います。
  仏教は、快と不快の支配から解放するということだと本で読みました*。人間は快と不快から人形のように操られる生き物じゃないでしょうか。おいしい物を食べたかったり、異性とセックスしたかったり、快適な家に住んだり、いい仕事をしてお金を持って他人に認められたかったりという様々な欲望は常に我々人間を支配していくんじゃないですか?その支配に気づかなければ自由を回収ができません。
  安泰寺の生活は作務と坐禅に中心しています。作務も摂心も楽じゃないに違いないです。逆に、大変なところが多いです。大変でも、なんとなく私は安泰寺にいたいです。きっと幸せですから。苦難の修行で幸せを感じるなんて、これは苦と楽、快と不快の支配から解放するのじゃないでしょうか?

七  堪忍能力を鍛える
  そうですね、作務も摂心もよく苦しいです。苦しくても我慢しかありません。このような絶対的な義務がありますので、堪忍能力をアップさせなければなりません。私は苦しいことを我慢するために、判断という精神的な機能を停止しようとしています。「苦しい!」っていうのは、判断です。「痛い!」っていうのは、判断です。「時間の経過が遅い!」っていうのもそうです。判断すると、苦をもうちょっと苦しくしてばかりじゃないでしょうか。
  特に寒いろうはつの途中で、何回も自分の頭に「判断するな!」という言葉を繰り返しました。経行の時、本堂の畳が氷のように冷たくて毎一歩が全体を冷やしていましたけれども「寒い!」という判断を排除しようとしていました。 一般的に生活でも苦しいところがあっても、それを判断せずにただ受け入れなければいけないという教訓しました。
  安泰寺の修行して、もうちょっとこの堪忍能力を鍛えたいです。

八  修行のレールで安らぎを見つける
  個人的な話ですが、私は緊張頭痛がよくありますので普段はほとんど毎日に頭が多少痛いです。ただし安泰寺に来てから、頭痛が大分に少なくなりました。これはどうしてだろうかと思って確かに修行の生活のおかげだと気づきました。3時45起きて皆さんと一緒に坐禅して礼儀に従ってご飯を食べてそして作務すると頭は迷う時間がないはずですから。このレールにある生活して、この厳しい決まりがある生活してこそ頭も心も安らかになるような気がします。

九  禅の料理を知る
  自給自足のため、安泰寺には料理の大切さを気づきました。私はけっきょく典座をしないかもしれませんが、それでも禅の料理を味わうだけではなく、もっと知りたいです。典座教訓を勉強して、典座のやり方を観測して、ご飯の作り方に限らずに、禅の料理の精神も知りたいです。

十  安泰寺から半僧半俗の生き方へ
  私は出家してお坊さんになろうかと考えたことがあります。社会での生活が苦しいなと思って、お寺の生活に惹かれていたのです。よく考えて、出家というのは人生の最終的な目的じゃないという結論に至りました。むしろ、普通の生活を送りながら仏教を実践するのほうはいいと思います。この中道的で半僧半俗という生き方のほうはいいんじゃないかと思います。
 だから、安泰寺の生活を参考にして、社会に帰ったらこの半僧半俗というライフスタイルを実践したいと思います。具体的に言えば、お坊さんじゃないのに、出家していないのに、食事の前に五観の偈を言っていいんじゃないでしょうか。お坊さんじゃないのに、出家していないのに、毎日一時間だけでも坐禅していいんじゃないでしょうか。菩提薩埵四摂法を実践するように一番いい場所は家や社会じゃないでしょうか?

  以上の目的を持っていますからもうちょっと安泰寺の体験を延長したいと思います。


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