流転海49号

安泰寺文集・平成24年度




    Antaiji

 現代の日本に於ける宗教的日常性の根本を生きること。
 
  価値観について。
 価値観とは言葉を変えると大事なこと、そうどもないこと。という私の偏見。私の偏見は私を取り巻く世間が強く関与している。全く関与していないのなら私はきっと今頃精神科の病院のお世話になっているであろうと思われる。安泰寺という名の病院はそれとは別のタイプの精神科であると私は認識しております。さて、宗教とは何でありましょうか?価値観と言えば人間が高いポイントを与えている宗教とは?そこには道徳があり、生死があり、神がいてお話がある。かなり荒くて雑な認識で恐縮ではありますが、宗教とは自分を超えたモノに自分を委ねる行為。自分を超えているという点において、自分では計れないもの、自分には分からない、理解出来ない何か尊いであろうと直感するもの。であるが故に周知のように人をとんでもなく狂った生き物へとも誘いかねない恐ろしいシロモノ。神様に自分を委ねる人、座ることに身を委ねる人、お経に身を委ねる人ありき。或いはスポーツ、音楽、武芸。今の日本、私の世代は学校で良い成績を取って良い大学に入って良い会社に入ってというタカイ?理想に身を委ねる人ありき。私の場合も同じようにカネ、その為の能力、出来る人というタカイ理想に神を見たもののあまりにも惨めで嘘っぽくてどうもこの神様は違うんじゃないのかと思うに至りました。今の自分には仏教の何たるかは今の自分に分かる程度にしか分かりませんが、無価値論という価値には何処か恐ろしくも魅惑的な何かを感じております。価値を入れないでそのものをそのまま扱い、その事を捨てていく。川を渡ったなら船は置いていく生き方。その時を生きる生き方。私は安泰寺に来て生きる為に生きる時間があるような気がして、ここでこの生活そのものを通して生きる事そのものに近づきたいと思っています。
 
  生活について。
 生活が元にあって様々なものが発展し、便利、楽、快、美、いわゆる良いことと感じることをより多く、より深く。と進歩、発展してきておりますが自分を鑑みる程に(欲が強いのでよく思うのですが)欲望の成就する一瞬の快楽で走ることそのものの苦しみから逃れる行為のような何処かハムスターがぐるぐると車輪の中で走っているような気がする時があります。しかし同時に人生のひとコマひとコマにちょっとした花を添える行為、まぁ花より団子かもしれないけど、一瞬で消える喜びは消えるがままにそっとしておける、子供の寝顔を静かに見つめる母親の様な心で生きられたなら心に浮かぶ快なるものは手垢のつかない尊い瞬間であると思います。安泰寺の生活は一つ屋根の下、同じ釜の飯を10人前後の仲間と共に分かち合います。人と一緒に生きるというのはそういうちえばこの様であったのではないのかとふと思いました。一緒に何かをするのはとてもエネルギーを要するものであり気も使います。しかし生きていくこと、生活することは極単純な起きること、食事を用意すること、働くこと、好きで座ることすらその実結構たいへん!一人で生きていく事が出来ないから人様と共に重荷を背負う。人様がそこにいて下さるから私は何とか立っていられるのだと思います。ただ、人と一緒に時間を共有し、酸いも甘いも同じものとして生活をする。生きているから何かをする。生活はエキサイティングである必要はなく、淡々とした営みでありつつも、その実数限りない美しい瞬間が所々花を咲かせて見せたり、散って見せたりと本当に目まぐるしい。生活、と言えば起きること、食べること、トイレへ行くこと、食事の糧を得る仕事をすること、寝ること。ソクラテスは(僕は食べる為に生きるのではなく、生きる為に食べる。)と名言を残しておりますが、接心の時私は食事の合図の戒尺に耳をそばだてていて、あぁ私は座る為に食べていないなぁとつくづく思い至ります。それでも崇高な思想と同化することはそれとして現実の生身の私、下らない私そのものを共同生活の中で生きること。悪意や欲、無知が私の中で広がっても取り合わない、振り回されない、非核三原則で生活の中から立ち現れてくる貪、怒、無知を仏教を学びながら超えて行く。これが私の課題になります。
 
  仏教について。
 私はアルボムッレ・スマナサーラ長老の(仏教は心の科学)というタイトルの本を5年程前に読み、仏教に関心を持ち始め今に至っております。とても平易な言葉で書かれた本で何かが分かった気になりましたが、実践はとても難しいものです。例えば、(人間は、後悔さえやめれば幸福になるのです。後悔しないで、気楽に、明るく過ごせばいいのです。)とあり、確かにその通りであるのですが私は心が病んでいるから下らない思考の回転が時に私を掴み、振り回し、疲れさせます。しかし、実践が難しいとしても私の歩む方向は私の病を治すこと。この方向であります。仏教はお葬式よりも、自分を知り、自分のことを学ぶ為のもの。そして、その知った自分を捨てること。話としては簡単なことです。あとはやるだけになります。安泰寺に来て毎日座る時間が決まっていて、接心があり輪講や堂長さんの提唱を聞けることは私にとって大きなことです。その瞬間、瞬間を十全に生き、その瞬間、瞬間を引きずらないこと。頭では分かるけれどまぁ、ミッションインポッシブルの世界ですね。それでも文句を言わず黙ってやって行くしかないと感じております。
 
  最後に、ミッションインポッシブルの誓願になります。
 
  衆生無辺誓願度。 生きとしいけるものを救うこと。
 
  煩悩無尽誓願断。 尽きることの無い煩悩を断つこと。
 
  法門無量誓願学。 無量の法を全て知ること。
 
  仏道無上誓願成。 仏道は無上なれど成仏すること。
 
  無知であってもこの私を少しづつ一歩づつ仏道に適う在り方へとにじり寄って行けたら。と願っています。


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