流転海49号

安泰寺文集・平成24年度



ゆうだい


    Antaiji

 安泰時の生活というと、現代日本の物質文明的価値観の中で言うと、豊かさの点でいえば限りなく 最下層に近いのでは、と感じる。例えば、熱を生み出すものは電気でもガスでもなく、ほとんどすべて薪に よるものである。風呂も料理も暖房も全て山の木々から生まれた熱でまかなうのだ。なにより、生きるた めに働き、食べる、そして坐る、と言う活動以外の生産的活動はほとんど無く、必要とする利便性も限られ たものであるということが大きいらしい。というわけで現代文明の恩恵は必要最小限にとどまっているとい う訳である。私自身、都市の出身ということもあり、日常生活の充実度を測る基準として、先ずは生活の中 で触れる物事への価値の認識から始まる判断をしがちである。目に映る環境に対して感じる価値を最初の判 断基準とするのだ。この思考過程では自分の関わる環境に対しての評価が、そのまま生活への評価につなが る。それでは、なぜ生活に不自由のない現代文明をわざわざ抜け出て、山奥の禅堂での生活をおくっている のか、という疑問が客観的に見ると当然生まれるのだが、それに対する回答として、ごく単純に、私の行動 それ自体が現代社会の行き詰まりから生まれた必然的な物であるからである、という表現を用いたい。

  私の生まれ育った東京都では、現代日本に存在する近代以降作られた物質文明の全成果を見て取れ ると言って良い。日本においてはもちろん、世界の中でも相当の物質的最先端都市であると言えるのではな いか。そして現代の各大都市に共通する特徴として、科学、工学技術や商業の発展に代表される物質的利便 性の著しい向上があげられるが、これらを言い換えると、自己の外側の創造、構築という活動と言えるだろ う。自分の生活で関わる物事、環境を自分の理想的なものに変えてゆく、という働きかけだ。現代の世界の 形、価値観は、資本主義の名の下に、ほとんどこの活動のみによって作られてきたと言える。

  その社会機構は未だ留まる所を知らず、発展を続けているのは周知の通りである。そしてこ の近代以降の大きな流れの末に私の見た初めの綻びが可視化する。それは、物質的充実と、人間の知覚でき る充実感の乖離。つまり、物質的価値観に則った行動によって得た環境が本質的な自己の充実感に必ずしも つながらない、ということだ。資本主義的な価値観と行動規範によって作られてきた社会の転換期を感じさ せるものであった。資本主義経済機構の中での貨幣の充実度は、物質的充実度と全く同じ意味であるのと同 じように、人生の充実度ともまた、同じく等価交換が成立するかのような概念が普遍化しているが、私が問 題視しているのは、ここで生まれる、行動と目的の相違である。人生の充実度を求めて、物質的な充実を計 るのは方向は同じかもしれないが、種類が別であり、あくまで目的と手段の関係に過ぎず、決して同じでは ない。結果として、人生に対して世間体通りに活動しているのにもかかわらず、禁じ難い言い知れぬむなし さ、喪失感が生まれるのである。これは、日本の自殺大国としての一因としても大いに影響しているのでは 無いか。今現在まで自分達の周りに存在する物質至上主義によって作られてきた環境が、実のところ、全て が真の意味で自分に適した物では無いのではないか、という問題提起である。つまり、レンガで作った家が 本人の人生に対して、藁で作った家に必ずしも劣らないと言えるのか、ということである。物質的充実が精 神的充実と直結し完全に等価では有り得ないのは一般的な価値観においては意外であるが、昨今の鬱屈した 社会を見ても明らかである。現日本社会は確かに不景気とは言え、戦後に比べれば格段に豊かであり、一般 的に過ごせば物質的飢餓には一生陥ることは無いであろう。ここで、先に述べた精神的活動の軽視により起 こるのが、レンガでできた家を持っても、鉄筋の家が欲しくなる盲目的欲求の暴走である。これによって自 分が本来求める必要十分を超え、時には方向性までも失い、もはや心で捉えることの出来ない正体不明の環 境を創りあげてしまうのだ。

  欲求階級、クオリティオブライフなどの単語が属する分野において、ある程度の考察がなさ れているようには思うが、これまでほとんど社会としての働きかけは実質、完全に資本主義経済での物質至 上主義に傾倒している。結果として物質的に全くと言っていいほど不自由が無いのにも関わらず、ある種の 虚しさを感じる人々が一定数生まれるのだ。そしてそれは、これまで精神分野での研究機構として活躍した 各宗教勢力の社会に与える影響力の衰退が大きな原因であるように思う。具体的な行動過程として、現代社 会の価値観では、カレーが食べたい場合は理想的なカレーを食べるためにレトルトではなく材料選別、調理 法研究などに尽力すべきである、という形が典型的な物であるとする。そうすると、上で述べた精神的な面 でのアプローチでは、自分が本当は何を食べたいのか、という形が始まりであろう。この方向性は全く逆 で、物質的アプローチには、今まで述べた事に代表される外側への働きかけのみが見て取れるが、精神的な アプローチでは逆に自分の内側への働きかけから始まるのだ。その後どのようになるのかを考えると、精神 的なアプローチの方では全てが起こりうると言える。レトルトがむしろ好きであった、タイカレーが一番食 べたい、実はカレーじゃ無くてラーメンが食べたい、いや、根本的に必要なものは食事ですらないかもしれ ない、など。対して、物質的アプローチでは馴染み深い結果のみの予想に留まる。つまり、最終的にどれだ け一般的に優れたカレーを手にいれたのか、という成功の度合いである。物質的価値観の中で言う、「良い 結果」であれば満足したかのような充実感を感じるのである。精神的分析を欠き、このかりそめの充実感に 浸り進むことの危険性は推して知るべし、といった具合である。

  自己の外側、つまり環境の創造、構築という活動である物質的アプローチに対する、自己の内側、 つまり精神の研究、コントロールという活動に対して、現代人は効果的な術を驚くほど持たない。既に述べ た社会の移り変わりを踏まえ、これからの社会を築くのに大きく貢献するであろう分野を、私はこの精神的 なアプローチに見出したのであるが、これを扱わせるのに最も適した場所を探した時、宗教の扱ってきた分 野がそれに当たるのではないかと感じたのだ。数ヶ月という短い期間ではあるが、安泰寺での修業期間を通 して見ても、未だにこの判断を経て、禅を選んだのは間違いではなかったと言える。自己を習うというは、 自己を忘るるなり。とは道元禅師の言だが、現代社会で生きる我々には忘れるための自己、執着すべき自己 と言ったようなものが、信じられぬ速さで、しかも巨大に積み重なってゆく。これを見ずに、どうして正し い判断と共に人生を歩めるだろうか。精神的なアプローチに対して問題意識を持った後、掴むべき手がかり が見えぬ中で見た自国の立派な文化に、喜びと同時に救われた気がした。禅は確かに私を求める方向へ導い てくれるだろう。実は、私の方向はここまでの所、確かに定まっては居るが、目的がどこになるのか未だに 判然としない。いかんせん、物質主義全体を敵に回して精神的分野の研究というわけだから話が大きすぎる のだ。しかし、執着を捨て、身心脱落の後に何を見るかに全てはかかっているが、当面は仏道に実直に打ち 込んだ修行をしてゆく他無いだろう。


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