流転海49号

安泰寺文集・平成24年度



伴行


    Antaiji

 安泰寺には、1週間と大変短い間ですが、参禅させていただきました。 坐禅を組んでみようと思ったきっかけは、雑誌に「禅」の特集が組まれたことでした。 しかしそれ以前に、その特集が琴線に触れる下地が僕にあったから手にとって読み、参禅 させていただくことになったのでしょう。

  僕は自分自身に自信がなく、いつも人の顔色をうかがい、人からどう思われているのか 気になってしまう自分が以前から嫌いでした。いや、今でもそういうところは嫌いです。 修道院とか、静かに決まったことをしていれば、その中では自分の存在を許してもらえる (かなり不遜な考え方ですが…)そんな生活に憧れを抱いていました。しかし、それは 「逃げ」なのではないかとも思っていました。そして逆に、家族や友達、好きな人と連絡 を絶ち修行をする勇気もありませんでした。そしてこれも今でもありません。…ぜんぜん 変わってない?僕は、安泰寺で少しでも成長できたのでしょうか?

    結果はともかく、そんな自分を変えたく、初夏の頃から京都宇治の興聖寺の坐禅会に参 加させていただいていました。しかし、月2回の坐禅会も仕事の都合で1回しか参加できな い。そうでなくても月2回なんて、少ないのではと感じていました。修行されている人た ちは、修行のための環境が整ったところで、さらに多くの時間をかけて坐禅をしている。 修行とはもっときっちりしなくては意味がないのではないか?

  本格的に夏に入って、家でも坐ってみようと部屋を片付け、坐蒲を買い坐ってみまし た。最初は10分もするとイライラしてきました。興聖寺では30分、10分歩いて休憩し(そ の頃は経行と言うとは知りませんでした。しかもこれも禅であるなんと思っていませんで した…いや、すべてが修行で禅とは思ってもいませんでした)、もう30分坐った時は、指 導してくださるお坊さんの気配を感じたり、暑くなってきた季節の中で一筋の風を心地よ く感じたり、お寺に参拝している人の声を聞いたりと刺激があったのですが、家では何も 無い。動きたい、イライラする…眠たくなってくる。

  それでも少しずつ時間を延ばし、30分間坐っていられるようになりました。しかし、こ れでいいのか?一人で坐っているけど、正しいのか?これで僕は変われるのか?またまた 迷いが生じました。

  夏休みを利用して1週間、みっちり、ぎっちり嫌になるぐらい修行を経験してみようと 思いました。興聖寺を選んだのは、道元という名前を知っていたから。なので最初、同じ 曹洞宗の永平寺に行こうと思いました。しかし、2泊3日のコースしかない。おまけにお客 さん扱いのようだ。…非常に失礼な考え方です。自分の都合で他の方々が修行をされてい るところに踏み入れるのに、同じ修行をしたいなどと考えていたのです。邪魔になるのは 目に見えています。曹洞宗でさえ「『道元』って教科書で見たことがある受け口(またま た失礼)の人だ。ここなら変な所じゃないだろう」ぐらいの知識しかなく、ましてお経も 作法も知らないくせに!

  ともあれその時、僕は曹洞宗ネットを用いて1週間参禅させて下さるところを探したと ころ、安泰寺に行きつきました。しかも修行僧の方々と同じ生活ができると書いてありま す。「1週間しかないけど、ここなら何かきっかけが得られるかもしれない」と思いまし た。

  ホームページを探り当て、読むと住職はドイツの方と書いてありました。えー!これは 僕が行くために待ってくれている所ではないか?なんて躁状態の患者さんが言いそうな事 を思いました。たまたま僕がドイツに留学したことがあり、そしてドイツ語を今も勉強し ていて再留学したいと思っていたからです。もちろんそれは「たまたま」なのですが、そ の勢いを借りて参禅希望のメールをしました。

    最初、住職さんから帰ってきた返事は「3年以上滞在する人しか受け付けていません」 でした。3年滞在できるならしたいのですが、そうもいかない…しかし、メールを下まで 読んでいくと、短期滞在も特別な場合受け付けている、と。

  再度メールをし、お願いして受け入れていただきました。9月末、堂頭さん(ここら辺で 初めて”堂頭”と言う言葉を知りました。そしてこの頃は「どうとう」と読んでいました)に 確認のメールをさせていただき、10/6~10/12の一週間、参禅させていただきました。それ までに1時間の坐禅が2回、朝晩と聞いていたので、30分しか出来なかった坐禅を少しずつ 伸ばし、45分は出来るようにしました(一人では1時間には到達しませんでした…)。

  初日から、カルチャーショックの連続でした。通完さん、Tobiさん、Stefieさん、Alexさ ん、時水さん、Dirk (佛心)さん…国際的なのもビックリです。何人かは外国から来ている 方が居られるとホームページに書いてありましたが、日本人は恵光さん、愚聖さん、蛭 川さん、雄大さん…日本人の方が少ない!そして2時間の坐禅。きつかったです。朝はも ともと早起きだったので、あまり苦ではなかったのですが、朝起きてすぐ坐禅すると、足 が、いや右足首が痛い!膝が痛い!腰が痛い!そして坐っていると、やっぱりいろんなこ とを考えてしまう!

  参禅させていただく前に、再度ホームページを読みました。そうか、考えを手放さなく てはならない、自分も手放さなくてはならないのか。でも実際、坐禅していると考えて る、痛がっている、眠さと戦っている自分がいる。考えていることを認識して、考えな いでおこうと考えている自分もいるし、痛みをこらえ、起きようと頑張っている自分が いる。作務も1日目は力仕事で筋肉痛になって、疲れているが、2日目になると雑念が生 じ、作務が単純作業になると、話をしている自分がいる(話の内容自体は、凄く為になる お話でした。しかし、没頭できていなかったのではないかと今更ながら反省)。作業自体 も人と比べてしまっている自分がいる。比べているということは、人によく思われたいと 思っている、ええかっこしいの自分がいると言うことでもある。しかも明日のことを考え て、作務のではなく、自分の段取りをしている自分もいる。完全燃焼していない。全然、 修行になっていないのでは?そんな焦燥感がありながら、全力投球できていない自分が情 けない…

  雄大さんが「5日接心をしていると、2日目あたりから、考えることが無くなってくる。 自分の考える材料って20年生きてて2日分ぐらいしかないのかとびっくりする」と言われ ていました。どんな感覚なんだろうか。この期間に5日接心は無理でも、1日接心があるか ら少しは体験できるかもしれない。でもこんな機会でも無い限り、自分では出来ない。

 しかし、接心の機会は来ませんでした。ちょうど稲刈り、得度式に重なったのです。得 度式を見学させていただく機会に恵まれ、接心の代わりに温泉に行ってプールで泳ぎまし た。ええ、楽しかったです。でもホッとしている自分が嫌でした。また逃げたんじゃない か?

 堂頭さんは接心の前日、「それは中桐さんが逃げるわけではないでしょ」と仰って下さ ったのですが…ええ、たしかに僕が逃げたわけでは無かったし、稲刈り、得度式、どちら も僕が二度と経験できないかもしれない、貴重で、しかも楽しい経験をさせていただきま した。でも、気持ちは接心から完全に逃げていました。逃げ切ってホッとしている自分が いるんです。

 全身全力でぶつかれる相手に、力を抜いてぶつかっている。自分に跳ね返ってくるのが 怖いから。負かされても「これが精いっぱいじゃない」という逃げ道を残しておきたいか ら。でもそれって、実は「これが精いっぱい」なんですよね。自分で精いっぱいを勝手に 決めているくせに、そしてその自分の枠から抜け出せないくせに、これが精いっぱいでな いと逃げ口上。そんな気持ちでした。

 それならば、接心を含めてもう一度参禅させていただけばいいじゃないか。いろいろ言 ってるけど、安泰寺で滞在することを延長しなかったのは自分が決めたことで、下山した のも含めて自分の責任じゃないか。滞在を延長して、さらに大学を休んだら迷惑かけてし まう。でも、すぐに学会で博多に行けって言われたら喜んで行っている自分がいます。実 際、安泰寺から帰ってすぐに1週間博多に行ってました。そうなんです。滞在延長よりも 今までの生活を選んだのも僕です。すべて自分の選択により、僕は動いているはずです。 それで逃げていると思ってしまう僕は、自分が決めた選択肢を否定し、その原因を誰かの せいにしようとしているんです。生まれてきたこと以外に「仕方ない」ことは本来ないは ず。もちろん状況次第のところはありますが、その中でいくつもの選択肢があり、それを 選んできたのは自分であったはずです。そして逆に強要されて選んだとしても、強要され ることに甘んじた自分がいるんです…書いてて、さらに自分が嫌になってきました…ま だ、僕はいろいろ迷って悩んでいます。そして不安になっています。

 今は毎朝30分だけですが坐禅をしています。朝起きて部屋を片付け、掃除をし、洗顔、 歯磨きの後、お線香を焚き、iPhoneのアプリ(雲堂)で30分計って坐っています。時間が許 せば(≒前日お酒を飲んでいなければ)、その後、ランニングをしています。この様にこれを 書いているということは、(これも堂頭さんに話しましたが)まだこの生活は自分のものに はなっていません。自分のものになってしまえば、それが普通となって、わざわざ書こう ・言おうとは思わないもんだと僕は思ってます。「トイレの後、僕はお尻を拭くんです」 とわざわざ言わないように…なのでまだ努力してこの生活をしています。

 ともあれ、今も不安を解消したくて坐禅をし、勉強をし、求められる仕事をし、求めら れる人を演じています。先日は「禅学入門」(鈴木大拙)を読み終え、なんとなく参禅で分 かった気になっていた感覚が壊されてしまいました。なーんにも分かっていなかった。堂 頭さんの本も大阪に帰ってきてから2, 3冊読みました。安泰寺の皆さんに書いた手紙の内 容以上に、頭でっかちなってしまっていることを再認識しました。そしてまたいつものよ うに落ち込んで、友達と飲んでしまってます…

 結局、僕は全然変われていません。でも、参禅させていただいたことで得た(?)ことが あります。「これでもいいのかもしれない。世界全体丸ごとOKなのかもしれない」ってこ とです。それが本当に正しいのか分かりません。いや、何がいいんだ、OKなんだと言われ ても、具体的な例が挙げれないのですが。例をあげてしまい言葉にしてしまうと陳腐にな ってしまいそうな気がするのです。でも、この感覚も日々薄らいでいっている様な気もし ます。また日々の生活に流されて、つかみかけていたような落ち着いた気持ちが薄らいで きています。

 長々と、まとまりの無い話になってしまいました。初めの話ではないですが、今も家族 や友達とは連絡を絶っていません。が、まだ独り身です。なので、しばらくは自由に動け そうです。また、参禅させていただければと願いながら、筆を置かせていただきます。


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