流転海49号

安泰寺文集・平成24年度



直樹


    Antaiji

まず私は、出家しよう、あるいは仏門をたたこう、などおおよそ正当な理由があってここに居さしていただいているわけではない。ごくごく自分のためにここに居る。

仏教の教義に何か意味を見出そう、というよりはむしろ坐禅、作務を含んだ自給自足の生活に身を置きたい、と考えている。私は一ヶ月とすこしの滞在を予定しているのだが、そのなかで悟り、あるいは仏教のなんたるかを知ろうというのは無理だと思っている。それよりもまず、このカチカチに凝り固まった頭と心を何とかするほうが先決だと判断している。それさえもきっかけにはなっても、一ヶ月ではどうにもならないと踏んでいる。

ここに来るまでの体験のなかで、一度に多くを望んでも焦るばかりでちっとも身にならないということを見事学んだのだ。

いま私が抱えている問題は一言で言うと、頭でっかちである。この頭は、自分がでかい、ということを知りながら、自己成長をやめようとしない非常に熱心な態度をもっており、厄介このうえない。頭を駆使して頭でっかちをやめよう!と考えることは、より頭の権力を増長する結果になるらしい。こうして、私は頭の中でつくったルールでがんじがらめになり、身動きがとれなくなった。考えることは常に何かの比喩のようで現実味がなく、実生活では役に立たないものばかりだった。昔のことや過去ばかりが目につき、いま目の前にある問題に向き合うことができなくなっていた。

また日常の諸活動にも、たっぷりと無駄な時間を費やした。行動の途中で手が止まりそこで全く必要とされてないことに思いを馳せることはしばしばで、現実の行動をスムーズに運ぶことが困難になっていた。"心ここにあらず"といったかんじで、いまここにいないときぼくはいったいどこにいるんだろうと首をひねるばかりだった。

そうした状態が煮詰まってきて、頭以外からのアプローチ、身体から心からアプローチする方法が必要だと感じるようになった。いよいよ目の前のことが進まなくなった。

以前、この安泰寺のことを友人の友人(直接には知らない)の体験談として聞いたことがあったのを思い出した。HPを見ると参禅できるようだ。また頭が働きだしたが、もう信頼を失っていたので、そのままここに来てしまうことにした。身体が求めているのだ。自給自足の生活に加わり、畑仕事をすることは、今までの頭中心の生活とは真逆のように思われた。

 そして、ネルケ無方さんの本にも偶然本屋で出会いHPの文章をここでの生活が自分の求めているものであると認識していった。

坐禅については、なるほどと思わされると同時に、なぜか安心感を得た。「只坐る」と書かれている。今までもメディテーションじみたことや催眠療法など、ともすれば似たものと思われるようなものに触れてきて、そのたび失敗してきた(きっと頭ばかり使ってきたからだ。)のだが、そのどれとも違うことが書かれていた。

 「坐っても何もならない」ということだ。これはぼくにとって衝撃的で、心が晴れやかになるのを感じた。何かになろう何かに得ようと必死になってきた自分が休息の可能性を見出したみたいだ。無になる、などのイメージを持っていたのだが、それさえも目指していないようだった。このことは頭の中の力の入った部分を、ふわっと軽やかにする手助けになりそうだった。身体と向き合うことができそうだと感じた。

そしてもうひとつ、作務である。

常々、自分の行いが現実とかみ合っていない「地に足がついていない」状態が続いていた。なんだかよくわからないけれど、それを大事にしなくちゃいけない。それを考えたとき、日常の行いを修行と捉える作務の考え方にひかれた。

私は掃除を掃除としか捉えておらず、重要視せず、いつも部屋は汚い。やらなきゃと頭で思ってみても、すぐサボってしまう。それができないために他の多くのこともできてないとわかっているのだけど、できなかったのだ。

家事やその他必要なことが修行であるということは、毎日地に足をつけようと試みることだと感じた。これにより、自分は身体によって現実と繋がれるような気がする。

 こうして、自分の身体でこの現実と関わっていく、という自分の中のテーマのようなものが生まれた。私をこのテーマと向き合うため安泰寺にいる。ここの人々の動きを見ることは、それに関しての多くのヒントを与えてくれる。そのことやここでの生活が、自分がしっかりと人生を歩むことのきっかけになるはずだし、また、そうやってこの地面の上歩むべきなのだ。


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