流転海49号

安泰寺文集・平成24年度



愚聖


    Antaiji

 私が安泰寺にきたのは修行生活のあり方の一つの理想を追求するため、という思いがありました。どんな生活スタイルが修行によく適っているか、という問題はこれからの仏教を考える意味でも大事なテーマだと考えています。私はひとまずは釈尊への尊敬の念と私の原理主義的な見方から、釈尊の実践していた托鉢遊行生活を最も純粋な修行のあり方と考えています。しかし仏教が万人に実践されるべきと考えるなら、人に食を依存するこの生活は限界があります。万人が仏教を実践できるとすれば、万人が自ら働き、修行を続けていくことのできる別の修行スタイルが模索されなければなりません。自ら食べ物を作り、坐禅をまじめに実践する最初期の中国禅はその理想をみたしうるものだと考えていました。すなわち修行としての作務と坐禅の追及です。私は安泰寺が現代の日本でそのスタイルを実践する道場と考え、参禅しました。

 しかし実際の問題として、純粋に修行するという意味で、困難を感じてもいます。やはり伝統的な仏教で労働が禁じられていたのは、故なきことではなかったと思います。安泰寺は修行道場であると自認していますが、よくゲストハウスのよう、といわれます。修行とはいいながら、やっていることは世間ととくに変わらず、食べて働いて寝る、の繰り返しですから、参禅者たちも何の気はなしに、会話をしたり、本をよんだり、インターネットをしたりして安泰寺ライフを楽しんでいます。しかし私たち参禅者は作務が、またこの共同生活がいかなる意味で修行なのか、よく考えなければならないと思います。なぜ私たちが制限されたこの環境に身をおいているのか。私たちは修行者としていつも怠りなく、今此処にいなければならない、といわれています。作務は作務として、食事は食事として現に重さあるこのところでそれを行ってこそ、それらははじめて修行たることができると考えています。しかしそれには大きな妨げがあります。

 私は、今現にここにあることを妨げているものはおしゃべりであると考えています。それは単に会話をするというだけではなく、一応三つに分類して理解しています。それは身口意に対応して、身体のおしゃべり、口のおしゃべり、心のおしゃべりです。身体のおしゃべりは生理的なレベルで今ここにいることを妨げているもので、欲望や疲労や気分、けだるかったり、そわそわしたり、イライラしたりという感情的なものも含めて考えています。口のおしゃべりはそのまま、人と会話をすること、或いは直接声に出さなくてもその場を共有すること、心のおしゃべりは人と会話はしていなくても、心の中で何かを思い、それに耽っていることです。私たちはそのいずれにも注意して生活しなければなりません。禅宗では坐禅中は心の声を相手にせず聞き流す、と教えられていますが、生活のどの場面でも、この三つのおしゃべりについてこのようにする必要があります。特に問題なのは口のおしゃべりで、自分から話すことはなくても人から話し掛けられればそれに対応しなくてはなりません。冷たく突っぱねても関係を悪くしますし、話に耽るのもいけませんから、よく考えて応じる必要があります。また話し掛ける側も何の気はなしに話し掛けるのではなく、それが必要な会話であるかどうか、よく見定めてから話を切り出す必要があります。或いはおしゃべりが修行の妨げになるからと、まったく無言であっては共同生活はうまくいきません。ちょっとしたあいさつや小さな言葉のやりとりが人同士の関係を円滑にし、修行生活をスムーズにしてくれます。

 安泰寺が修行道場であるか、ゲストハウスであるか(或いは禅センターであるか)、という議論は私にはまったく無意味であるように見えます。私たち参禅者の振る舞いが安泰寺を修行道場にもし、ゲストハウスにもし、キンダーガーデンにもするからです。私に関していえば安泰寺であろうとなかろうと、この現なるところを見失わずに振舞うその時々が私の目指す修行のあり方と考えています。


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