流転海49号

安泰寺文集・平成24年度



庸行


    Antaiji

 今年もまた安泰時文集への投稿依頼のメールが来ました。また1年が過ぎようとして いることを改めて感じさせられる瞬間です。今年安泰寺の無方さんとご家族そして参禅 しておられる皆さまを“襲った”色々な出来事に思いを致しながら、思いつくままではあ りますが、今年もまた、自分自身の1年を振り返えり、これからの自分の生き方を見直 す機会とさせて頂きます。
 
第一部
   今年の主な行動: 1月 妻とペルーのマチュピチュ・ナスカの地上絵・イグアスの滝観光(11日間)
4月 ハーフマラソン参加(2時間40分程度)
5月 二回目四国歩き(35日間)
7月 妻と五合目からの富登山(山小屋で2泊)
11月 初フルマラソン完走(6時間14分程度)
その一週間後 妻と屋久島トレッキング(3泊)


  今年は大阪か神戸のマラソンに参加してみようと意気込んでいましたが、共に不合格 で、仕方なく淀川市民マラソンに出ることにしました。先達によると、とにかくマラソン 成功の秘訣は最初をいかにゆっくり走りだすか、いかに同じペースで走り続けるるかにあ るとのことです。そこで  昨年9月の30kmは、4時間20分ほどで走りましたが、これは キロ8分30秒くらいのスピードでしたので、今回のフルマラソンでは、最初からキロ9分 程度で走ることにしました。練習で10km程度走る時は、キロ7分強程度、20km程 度走る時は、キロ8分程度ですし、その上  みんなと走ると、どうしても人の眼を意識し てテンションが上がり速くなりがちですので、キロ9分のような遅いペースを保てるかど うか不安でしたが、何とかペースを維持して完走できました。30キロの壁とか言われ、 フルマラソンでは30kmを過ぎると大変な苦しさが繰り返し襲ってくると言われていま す。30キロの壁とはどんなものか?!かなり不安でしたが、  確かに30kmを過ぎた ころから腰や太ももが締め付けられるような感じになりましたが、むしろ  30キロ走を した時よりも今回のフルマラソンの方が楽に終わったような感じすらしました・・・。こ れも 現在の私の練習メニューは、原則として、水曜日と金曜日は各6キロ、そして日曜日 は、6キロ、12キロ、18キロ、24キロというサイクルを繰り返すことにしています。こ れで年間ほぼ1200km  遍路と大体同じ距離を走ることになります。24キロを、キ ロ8分ほどで走り、来年のフルマラソンは、何とか6時間を切りたいと思っています。

第二部
  “今年も色々したいことをしたようだけど、肝心の坐禅はどうなってるの?”という無方 さんの声がどこからか聞こえてくるようです。正直  安泰寺での参禅をしなくなって、日 々次第に坐禅と縁遠い生活を送っています。父の死後は神棚と仏壇のお世話が私の日課と なっていますが、仏壇では、開経偈・般若心経・坐禅和讃・修証義(総序)と唱えその後1 5分の坐禅をなんとかかろうじて続けているのが現状です。
 そこで少し弁解まがいの話をさせて頂きます。
  今年の二回目の歩き遍路の後、私は、朝  目が覚めると、ベッドの上で、まず  身心の 感覚にしばし思いを寄せるようになりました。窓からこぼれてくる光で何となく目がさめ ます。まだ目もあけていないのにマブタは、光を感じています、耳には鳥の声や雨・風の 音が入ってきます、皮膚はその時々の部屋の温度を感じています、大抵の場合、伸びやあ くびが自然に出たりします、ふっと気付くと心臓は休むことなく動き続けてくれています ・・・。改めて言うまでもないことですが  これらの身心の働きには、何一として自分で 創ったものはありません。自分自身の存在が、気付いていても・いなくても、自分の思い を超えた大きな力に支えられたものであることに改めて驚いてしまいます。しかし同時に  その思いを超えた大きな力も  実は  私という具体的な形を借りない限り  絶対にその姿 を現し得ないものであること、つまり  なんと  この私自身が、思いを超えた大きな力の 言わば化身であることに思いは至ります。
  自分の思いを超えた大きな力と私との関係は、丁度  “春と一輪の花”の関係にも似て いるように感じます。春がこないと春の花は咲けません、しかしそのすごい力を秘めた 春も、一輪の花、春の草木、春のそよ風というように何かの具体的な形をとらない限 りその姿を現すことはできません。朝起きると  ベッドの上で  ほんの少しの間ですが  命の不思議な二面性をしばし味わうようにしています。
  そして神棚では、この命の不思議さを、そしてその命を自己として生命体験している ことの奇跡を感謝し、仏壇では、ビッグバン以来この命を自分まで、更に孫・子まで、 引継いできてくれた親・祖父母そして祖先に思いを寄せることにしています。
  99歳で亡くなった父は、二回の歩き遍路をしていました。そして遍路は“歩禅”であ ると書き遺しました。私も一昨年の一回目の遍路で、とにかく今の一歩を踏み出すこと だけの日々を42日間繰り返す中で、そのことを私なりに確認しました。遍路の後始めた ジョギングやマラソンを、私は、言わば“走禅”との思いで走っています。いかに今ここ が苦しくとも  今ここを出発点として、まっさらな気持ちで、今の一歩を踏み出す。こ れが遍路でも、またジョギングやマラソンでも、だいご味であろうと思っています。
  話しは更に変わりますが、妻とベ-トーヴェンの第九を歌って昨年で丁度10年となり ました。“自分のパートに全力を注ぎながら、全きハーモニーを目指す”、“第四楽章ある いは第九全体を睨みながら、この一瞬の発声だけに集中する”。合唱は、言わば“立禅”と 言ってもいいのではないかと、私は少しだけ本気で感じています。
  更に更に驚くことに  遍路もジョギングもマラソンも第九合唱も坐禅とその根は一つ ではないかと感じることがあります。
  学生時代には、坐禅の心得として“腰を立て、背筋を伸ばし、顎を引き、肩の力を抜い て、腹式呼吸”と言う事を、口すっぱく教えられました。なんとジョギングやマラソンの 本にも同じようなことが書いてあります。また第九の合唱指導者も、全く同じようなこ とを口にされています。当たり前と言えば当たり前のようですが、不思議と言えば不思 議に思えてなりません。

第三部 
    “人生とはなんぞや”という中学時代に取りつかれた疑問が坐禅との出会いのきっかけと なしましたが、大学時代はそれに加え、“仏教や坐禅は、どのような社会を目指しているの か?”というテーマが、新たに
  仏教とは、坐禅とは、どんな社会を目指しているのか?遠因がこの疑問にあったの か、私は、定年後、自治会長とか市役所の委員会や審議会の委員そして保護司やNPO の理事長や役員など、自分に出来る限りの社会参加を手広くそれなりに続けてきまし た。
  確かに  その結果  自治会長や役所の審議会などの委員としての活動から、私は、日 本の社会での意思決定の構造や間接民主主義や行政の限界を自分なりに知ることが出来 ました。保護司として犯罪を犯した人々、NPO法人の理事長として知的障がい者の人 々、またある市民団体の運営委員として外国人市民の方々などと直接・間接に接する機 会は、弛緩しがちな私の生き方に、緊張感を与え続けてくれています。最近はまた新た に、近所の小学校区の3つの町会に呼び掛け、高辺地域連携ネットを創り、相互の情報 交流と連携を目指す活動を始めました。地域の絆が薄くなったと言われる昨今、しかし 幸か不幸か  国や地方は財政難、地域は高齢化・独居老人が増加中・・・、地震や災害 そして防犯に対する意識は嫌でも高まってきています。その高まっている意識をうまく つなぐことで  新たな絆を創り、そしてその絆創りの過程で、行政と対等に物事を考え ・発言できる地域の市民社会が模索できないかと言う訳です。
 しかし  ここ10年近くこのような活動をしてきて、つくづく感じることがあります。 それは、要は  世の中は、思う方向には決していかなし、人々は絶対に自分の思うよう には動いてくれないという現実です。何より10年前と比べて社会の抱える問題が減少し たという兆候は全くありません。ありようもないのですが・・・。
 今  私の心の中では、所詮  世の中の出来事は、頭の中の思いの展開に過ぎず、社会 参加など所詮はモノ足りようの思いに過ぎず、そんなもの相手にするに及ばずという気 持ちと、しかし、とは言え  自分自身  その社会があるからこそ  生を永らえるのであ り、この現実から逃避せずに  孫・子のために少しはこの世を住み易い世にして次世代 に継がねばならないという二つの思いの錯綜が、勢いを増しているように思われてなり ません・・・。まるで  “人生とは何ぞや”という中学時代の問いかけと、“仏教や坐禅は どのような社会を帰結するのか”という大学時代の問いかけが、一つになって自分にじわ じわと迫ってくる思いがするほどです・・・。

―閑話休題―
  私は、1965年大学卒業と共にある製薬会社に就職しました。サラリーマンだけには なりたくない、なりたくないと思いながらサラリーマンになっていました。その会社には (江戸時代の侠客の清水次郎長を模して) “次郎やん”と言われる名物社員がおられました。 名前の通りやくざ的なしかし勘が鋭く、そして気にいった人間には、全身全霊で体を張 って尽くすというタイプの人でした。その人が、われわれの新入社員教育の講師として出 てこられたときでした。話しの途中で電話がけたたましく鳴りました。それは職場から の電話で、上司たる“次郎やん”に仕事上の指示を仰ぐものだったようです。電話口に出た 途端、その“次郎やん”は、それはそれは大声でどなり散らしました。われわれ新入社員は  後で口々に「あそこの職場だけは行きたくないなぁ!」と真剣に言い合ったものです。し かし  しかし  なんと  その職場へ配属されたのは、誰あろう、この私でありました。そ して初出社の日に挨拶に行くと  “次郎やん”は、机の上にドンと足を乗せ、“オレは  義理 人情でいくからな!”とのたまわれました・・。入社後は、勤務開始時間よりも1時間ほど 男子を早く出社させて、当時女子社員がすることになっていました机拭きや窓ガラス拭き を、われわれ男性社員がさせられました。命令に対しては間髪を入れずに動かないと叱ら れ、質問には、瞬時に応えないとどなられるという、1万人程度の社員のいる会社でした が、社内でも名前を知らない人がいなといいくらい、有名な厳しい上司でした。しかし他 方“男は雑用なんかしたらアカン!”と新入社員の私に秘書をつけてくれたり(日本では、今 でも重役クラスにならないと秘書はつかないと思います・・・)、“山内は、よう出来る奴 や!必ず会社のためになるぞ!”と  私の知らないところで社内のアチコチで私を宣伝し てくれたりしていました。“次郎やん”の言葉で今改めて思い出す言葉があります。それは  「自分の仕事をしていても、部屋全体―40平米くらいの部屋で20名くらいの人が仕事 をしていました―で、何が起きているかくらい把握できてないと、まともな仕事なんか出 けへんゾ!」というものでした。自分の意識を自分の思いに埋没させることなく、常に四 方八方に心を配る・・・ことの大切さは、今少し分かってきたような気がしています。随 分前に故人となられましたが、今も 感謝の言葉もありません。

  第四部 終わり
 あるTV番組で誰かが、nowhereの語は  nowとhereに分解できると言って いました。
 この言い方を借りるならば、未来やあるべき将来などは、どこにも無いのかも知れませ ん。あるのは  今・ここで  われわれ一人一人が行う行動の結果の集積でしかありませ ん。だとすると、われわれは、今・ここでできるのは、行動の方向性の選択のみであ り、今ここのその行動の結果については、何かを期待するのは、それこそ幻想に過ぎな いと言わざるを得ません。
 また  この言い方を、借りるならば、自分などどこにも無いのかも知れません。ある のは  というか  自分に出来るのは、常に今・ここに醒めること、そして、自分の命は 自分の命ではないこと、自分とは自分の思い描く自分ではないこと、自分の見ている世 界・相手は必ずしも自分の見ている通りではないのかも知れないということを思い知る ことだけかも知れません・・・。
 ふと気づいてみると  開経偈や四弘誓願や普回向はもちろん般若心経や坐禅和讃など あらゆるお経が、nowhere、now、hereと語っているように感じられてなり ません。
 まさしく人生は逆説に満ちています。実は、人生が、逆説に満ちているのではなく、 われわれ自身が、日頃 “顛倒”した思いで生活をしているのに違いありません。 ふと次のような言葉が頭に浮かびました:
 「比較できない人間はアホ! しかし比較でとどまっているの人間はもっとアホ!」 そう言えば  学生時代に  何故かしら  だるまさんに出逢うということを  私は夢と していました・・・・。今  思うと  それは  多分  自分の思いがつかむ以前の今・こ こ・自分に、比較を超えた今・ここ・自分に出逢うことを意味していたのであろうかと 思います。
 “ジョギング・マラソンで足を鍛える”⇒“鍛えた脚で、歩き遍路する”⇒“歩き遍路で腰を 鍛える“⇒“鍛えた腰で、ジョギング・マラソンをする”⇒“ジョギング・マラソンで足を鍛 える”⇒・・・という“自己満足サイクル”を、気力と体力が続く限り続け  そして  叶う ならば  坐禅ならぬ歩禅と走禅を通じて、自分の思いがつかむ以前の今・ここ・自分、 比較を超えた今・ここ・自分とやらに出逢いたいものと願ってやみません。

以上


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