坐禅の心構え

澤木興道老師の言葉より

坐禅は龍の蟠るが如く颯爽たる姿勢と凛々たる気魄が籠っていなければならぬ。

『此の身、今生に度せずんば、さらに何れの生に向かってか此の身を度せん』との熱烈な求道心に燃え、一分一秒をも惜しんで全身心を坐禅の一行に投げ込まねばならぬ。

悟りを求めず、迷いを払わず、八万四千の雑念が起滅しても、起滅するに打ち任せて嫌わず追わず、鏡に影の映ると思い、一切を取り合わぬことが肝要である。

現在自分のしている坐禅がそのまま諸仏の坐禅であって、諸仏の坐禅と自分の坐禅との間に毫髪の隔てなく微塵も優劣がない、これぞこの身ながらの成仏の姿であるとの大自覚を持っていなければならぬ。

坐禅は乾坤宇宙にただ一人の境地にあって徹底自己に親しみ自己を究明することである。名聞利養のためでもなく、霊験果報を願うためでもない。何物かを期待する一切の心を振り捨てた坐禅でなければならぬ。

坐禅は考えることではない。理屈ではない。自分が自分を自分にする、体あたりの修行である。身をもって実際にやることである。やれば仏と一つになる。誰が坐っても坐禅であり、誰が坐っても仏である。

坐禅は仏道を覚触することである。覚触とは坐禅の掟に従って姿勢を正して結跏趺し、あるいは半跏趺坐し、寸分の隙のない身構えになることである。

修行そのものが悟りそのものである。形そのものが精神そのものである。態度そのものが道そのものである。

ただ坐るところに悟りはついている。ただ坐るところに仏道は現前する。ただ黙って坐るところに道がある。ここに只管打坐の道理がある。

狙いの外れた射撃は、いくら射っても的に当たらぬ。的の外れた坐禅は何十年つづけても仏道とは無関係である。

坐禅は正気一パイでやるものだ。決してつくりものであってはならぬ。

坐禅は猛壮でなければならぬ。威風堂々辺りを払うものでなければならぬ。

坐禅は人に見せびらかすものではない。自分が自分を自分にするものである。自分ぎりの自分である。しみじみと自己になりきることである。

坐禅をしている時は坐禅の外に自己はない。自分の相はなくなって、そこにあるのは坐禅ばかりである。坐禅ばかりなら仏ばかりである。

自己は水に映った月影の如く、変わりつめ動きつめである。この瞬間きりの真実は、うっかりすれば見失う。

禅の修行は現在を充実していくことである。今日を見失わぬ、此処を見失わぬ、今を見失わぬ、自己を見失わぬというように、全生活を一歩の浮き足なしに踏みしめて行くことである。今、此処でたとえ息が切れても少しも悔いのない生活を見つめて行くことである。

坐禅は自分が徹底透明になることである。天地とブッ続きの自分を見つめることである。天地宇宙の全景を一目に見ることでる。

本当に自己を掴んで充ち満ちているときは、心気天地の間に充満しているから、臨機応変、一を以て万に当たることが出来る。

自分の生活が本当に自分自身になっていれば、その時、その処に全自己が露われる。どう動いてもその瞬間の完全がある。

禅は一方究尽の修行である。その物になり切ることである。一挙手一投足の上に真実の道を体現し、一切時、一切処に於いて全自己を投入してその物になり切る修行である。生活の持ち場持ち場に全身全霊を打ち込むことである。

自分のコップに水が一杯になっていたのでは、水を注いでもこぼれてしまう。先ずコップを空にして即ち己見、己我を残らず振り捨てて正師の一言一句を余さず洩らさず受け入れる態度がなくてはならぬ。