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ばさばさ生きねば案内所&ネルケ無方「弁道話講義⑫」&本堂回り、2019年3月12&15&16日

ばさばさ生きねば案内所: 西田幾多郎の宗教哲学②ネルケ無方さま(安泰寺ご住職)からご意見を頂きました。

Ⓠ4 とふていはく、「いまわが朝(ちょう)につたはれるところの法華宗、華厳教¬¬¬、ともに大乗の究竟(くきょう)なり。いはんや真言宗のごときは、毘盧遮那如来したしく金剛薩埵(こんごうさった)につたえへて、師資みだりならず。その談ずるむね、即心是仏、是心作仏といふて、多劫(たごう)の修行をふることなく、一座に五仏の正覚をとなふ、仏法の極妙(ごくみょう)といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや。」
Ⓐ4 しめしていはく、「しるべし、仏家には、教の殊劣(しゅれつ)を対論することなく、法の浅深(せんじん)をえらばず、ただし修行の真偽(しんぎ)をしるべし。草華山水(そうかさんすい)にひかれて仏道に流入(るにゅう)することありき、土石沙礫(どしゃくしゃりゃく)をにぎりて仏印を稟持(ぼんじ)することあり。いはんや広大の文字は万象にあまりてなほゆたかなり、転大法輪 又 一塵(いちじん)にをさまれり。しかあればすなはち、即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり。即坐成仏のむね、さらに又かがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべからず。いま直証菩提の修行をすすむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。
また、仏法を伝授することは、かならず証契(しょうかい)の人をその宗師とすべし。文字をかぞふる学者をもてその導師とするにたらず、一盲の衆盲をひかんがごとし。
いまこの仏祖正伝の門下には、みな得道証契の哲匠をうやまひて、仏法を住持せしむ。かるがゆゑに、冥陽の神道もきたり帰依し、証果の羅漢もきたり問法するに、おのおの心地を開明する手をさづけずといふことなし。余門にいまだきかざるところなり、ただ仏弟子は仏法をならふべし。
又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず、とこしなへに受用すといへども、承当することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふによりて、大道いたづらに蹉過(しゃか)す。この知見によりて、空華まちまちなり。あるいは十二輪転、二十五有の境界とおもひ、三乗五乗、有仏無仏の見、つくることなし。この知見をならうて、仏道修行の正道とおもふべからず。しかあるを、いまはまさしく仏印によりて万事を放下し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかはらず、すみやかに格外に逍遥し、大菩提を受用するなり。かの文字の筌罤(せんてい)にかかはるものの、かたをならぶるにおよばんや。

Ⓠ5 とうていはく、「三学のなかに定学あり、六度のなかに禅度あり。ともにこれ一切の菩薩の、初心よりまなぶところ、利鈍をわかず修行す。いまの坐禅も、そのひとつなるべし。なにによりてか、このなかに如来の正法あつめたりといふや。」
Ⓐ5 しめしていはく、「いまこの如来 一大事の正法眼蔵 無上の大法を、禅宗となづくるゆゑに、この問(もん)きたれり。しるべし、この禅宗の号は、神丹以東におこれり、竺乾(ちくけん)にはきかず。はじめ達磨大師、嵩山の少林寺にして九年面壁のあひだ、道俗いまだ仏正法をしらず、坐禅を宗とする婆羅門となづけり。のち代代の諸祖、みなつねに坐禅をもはらす。これをみるおろかなる俗家は、実をしらず、ひたたけて坐禅宗といひき。いまのよには、坐のことばを簡(かん)して、ただ禅宗といふなり。そのこころ、諸祖の広語にあきらかなり。六度および三学の禅定にならっていふべきにあらず。」

道本円通、いかでか修証を仮らん。宗乗自在、何ぞ功夫を費さん…大都当処を離れず、豈に修行の脚頭を用ふる者ならんや…入頭の辺量に逍遥すと雖も、幾んど出身の活路を虧闕す…少林の心印を伝ふる、面壁九歳の声名、尚ほ聞こゆ。

亦云く、道を得ることは心を以て得るか、身を以て得るか。教家等にも身心一如と云て、身を以て得るとは云へども、猶一如の故にと云ふ。しかあれば正く身の得ることはたしかならず。今我が家は身心ともに得るなり。其の中に心を以て佛法を計校する間は、萬劫千生得べからず。心を放下して知見解会を捨つる時得るなり。見色明心聞声悟道の如きも、猶を身の得るなり。然あれば心の念慮知見を一向に捨てて只管打坐すれば道は親しく得るなり。然あれば道を得ることは正しく身を以て得るなり。是に依りて坐を專らにすべしと覚へて勧むるなり。(随聞記)

近況報告「変わること」&「安泰寺へ残す言葉」、2019年3月7日

仏教伝道協会「ネルケ無方の処方箋」:VOL.06 変わること(最終回)

安泰寺へ残す言葉より (内山興正老師)

1 人情・世情ではなく仏法ために仏法を学し仏法のために仏法を修すべきこと。
2 坐禅こそ本尊であり正師である。
3 坐禅は具体的に「得はマヨイ、損はサトリ」を実行し二行(懺悔行、誓願行)、三心(喜心、老心、大心)として生活の中に働く坐禅でなければならない。
4 誓願を我が生命とし深くその根を養うこと。
5 向上するのも堕落するのも自分持ちであることを自覚して修行向上に励むこと。
6 黙って10年坐ること、さらに10年坐ること、その上10年坐ること。
7 真面目な修行者達が悩まないでいいような修行道場であることを願って互いに協力すべきこと。

「安泰寺を去る」
老人としての私には私なりの仕事がある。
それは若い時のように外に向かって働くことではない。
ただ、内に向かって自己を見つめ
大空の中に雲が消えて行くように静かに消えていくことだ。

2019年のスケジュール:antaiji.org/ja/muho/events/

正法眼蔵・行持の講義、2019年2月28日

 福州玄沙宗一大師、法名師備、福州閩縣人也。姓謝氏。幼年より垂釣をこのむ。小艇を南臺江にうかめて、もろもろの漁者になれきたる。唐の咸通のはじめ、年甫三十なり。たちまちに出塵をねがふ。すなはち釣舟をすてて、芙蓉山靈訓禪師に投じて落髪す。豫章開元寺道玄律師に具足戒をうく。
 布衲芒履、食纔接氣、常終日宴坐。衆皆異之。與雪峰義存、本法門昆仲、而親近若師資。雪峰以其苦行、呼爲頭陀(布衲芒履なり、食は纔かに氣を接す、常に終日宴坐す。衆皆之を異なりとす、雪峰義存と、本と法門の昆中なり、而して親近すること師資の若し。雪峰其の苦行を以て、呼んで頭陀と爲す)。
 一日雪峰問曰、阿那箇是備頭陀(一日、雪峰問ふて曰く、阿那箇か是れ備頭陀)。
 師對曰、終不敢誑於人(師對へて曰く、終に敢て人を誑かさず)。
 異日雪峰召曰、備頭陀何不偏參去(異日雪峰召んで曰く、備頭陀何ぞ偏參去せざる)。
 師曰く、達磨不來東土、二祖不往西天。
 雪峰然之。

 つひに象骨山にのぼるにおよんで、すなはち師と同力締構するに、玄徒臻萃せり。師の入室咨決するに、晨昏にかはることなし。諸方の玄學のなかに所未決あるは、かならず師にしたがひて請益するに、雪峰和尚いはく、備頭陀にとふべし。師まさに仁にあたりて不讓にしてこれをつとむ。拔群の行持にあらずよりは、恁麼の行履あるべからず。終日宴坐の行持、まれなる行持なり。いたづらに聲色に馳騁することはおほしといへども、終日の宴坐はつとむる人まれなるなり。いま晩學としては、のこりの光陰のすくなきことをおそりて、終日宴坐、これをつとむべきなり。

辨道話講義⑪ & 本堂回り、2019年2月13日&14日

たいていの人間は忙しい、忙しいと言うておる。何で忙しいかと言えば、煩悩に使われて忙しいだけの話じゃ。坐禅しておればヒマである。天下一のヒマ人になるのが坐禅人である

『坐禅をすると妄念がおこります』と言うてくる人がある。―― そうじゃない。坐禅すればこそ妄念がおこっているのがよくわかるのだ。妄念ぐるみのくせにダンスでもしておれば、それが全然わからないでいるまでじゃ。坐禅している時には蚊一匹とんできても『やっ、くいついたな』とよくわかるが、ダンスしておる時には、ノミがキンタマにくいついておってもわからず、夢中になって踊っておるやないか。

一種の陶酔というものを信心と、よう間違うんじゃ。アリガタキに似た陶酔、妄想というものがある。―― いやそんなすべての陶酔がさめ切ったところが信心なんじゃ.

何か有難いに似た陶酔を、信心と間違えてもろおては困る。坐禅はいい気持ちがする。そんな坐禅にふけることを三昧と間違えてはならぬ。それは有難いに似た妄想が起こっただけのことである。
正しい仏法は、こんな陶酔の覚めきった処でなければならぬ。ところが宗教屋としては、この陶酔というやつが大切な商売のネタである。だから私のようなことを言う者はおらぬ。

信とは「澄み浄き」ということである。ノボセの下がったことである。それをノボセ上がることを「信」だと思って、一生懸命ノボセ上がろうとするが、なかなかノボセられぬ。そこでノボセタ真似している奴さえいる。

三昧とは、自分ぎりの自分であり、自性清浄心である。坐禅だけが、自分ぎりの自分であることができる。坐禅のとき以外はいつでも他人より勝れたい、他人より楽しみたい根性がでてくる。

信仰ということも非思料ということも、「随順」することである。何に随順するか? 随順とは「長いものにはまかれろ」ということではない。…信仰とは「澄浄」の儀 ――シズマルこっちゃ。

   草の庵に ねてもさめても 申す事 南無釈迦牟尼仏 憐み給へ

正法眼蔵・道心 ①佛道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人まれなり。あきらかにしれらん人に問ふべし。よの人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて、人にしられざる人あり。かくのごとく、ありなししりがたし。おほかた、おろかにあしき人のことばを信ぜず、きかざるなり。また、わがこころをさきとせざれ、佛のとかせたまひたるのりをさきとすべし。よくよく道心あるべきやうを、よるひるつねにこころにかけて、この世にいかでかまことの菩提あらましと、ねがひいのるべし。
②世のすゑには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常にかけて、世のはかなく、人のいのちのあやふきこと、わすれざるべし。われは世のはかなきことをおもふと、しられざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、我がいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちもをしまざるべし。
③つぎには、ふかく佛法僧三寶をうやまひたてまつるべし。生をかへ身をかへても、三寶を供養し、うやまひたてまつらんことをねがふべし。ねてもさめても三寶の功徳をおもひたてまつるべし、ねてもさめても三寶をとなへたてまつるべし。たとひこの生をすてて、いまだ後の生にむまれざらんそのあひだ、中有と云ふことあり。そのいのち七日なる、そのあひだも、つねにこゑもやまず三寶をとなへたてまつらんとおもふべし。七日をへぬれば、中有にて死して、また中有の身をうけて七日あり。いかにひさしといへども、七七日をばすぎず。このとき、なにごとを見きくもさはりなきこと、天眼のごとし。かからんとき、心をはげまして三寶をとなへたてまつり、
南無歸依佛、南無歸依法、南無歸依僧 ととなへたてまつらんこと、わすれず、ひまなく、となへたてまつるべし。
④すでに中有をすぎて、父母のほとりにちかづかんときも、あひかまへてあひかまへて、正知ありて託胎せん。處胎藏にありても、三寶をとなへたてまつるべし。むまれおちんときも、となへたてまつらんこと、おこたらざらん。六根にへて、三寶をくやうじたてまつり、となへたてまつり、歸依したてまつらんと、ふかくねがふべし。
⑤またこの生のをはるときは、二つの眼たちまちにくらくなるべし。そのときを、すでに生のをはりとしりて、はげみて南無歸依佛ととなへたてまつるべし。このとき、十方の諸佛、あはれみをたれさせたまふ。縁ありて惡趣におもむくべきつみも、轉じて天上にむまれ、佛前にうまれて、ほとけををがみたてまつり、佛のとかせたまふのりをきくなり。
⑥眼の前にやみのきたらんよりのちは、たゆまずはげみて三歸依となへたてまつること、中有までも後生までも、おこたるべからず。かくのごとくして、生生世世をつくしてとなへたてまつるべし。佛果菩提にいたらんまでも、おこたらざるべし。これ諸佛菩薩のおこなはせたまふみちなり。これを深く法をさとるとも云ふ、佛道の身にそなはるとも云ふなり。さらにことおもひをまじへざらんとねがふべし。
⑦又、一生のうちに佛をつくりたてまつらんといとなむべし。つくりたてまつりては、三種の供養じたてまつるべし。三種とは、草座、石蜜漿(しゃくみつしょう)、燃燈なり。これをくやうじたてまつるべし。⑧又、この生のうちに、法華經つくりたてまつるべし。かきもし、摺寫(しょうしゃ)もしたてまつりて、たもちたてまつるべし。つねにはいただき、禮拜したてまつり、華香、みあかし、飮食衣服もまゐらすべし。つねにいただきをよくして、いただきまゐらすべし。
⑨又、つねにけさをかけて坐禪すべし。袈裟は、第三生に得道する先蹤(せんしょう)あり。すでに三世の諸佛の衣なり、功徳はかるべからず。坐禪は三界の法にあらず、佛祖の法なり。
        
ヨブ記(口語訳)
第1章 ①ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。②彼に男の子七人と女の子三人があり、③その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。 …⑧主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。⑨サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。⑩あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。⑪しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。⑫主はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。⑬ある日ヨブのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、⑭使者がヨブのもとに来て言った、「牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、⑮シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。⑯彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
⑰彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。⑱彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、⑲荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。⑳このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、㉑そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
㉒すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。

第2章 …⑥主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。⑦サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。⑧ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。
⑨時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。⑩しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。⑪時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである。⑫彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。⑬こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。

第3章 ①この後、ヨブは口を開いて、自分の生れた日をのろった。②すなわちヨブは言った、③「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。④その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように。⑤やみと暗黒がこれを取りもどすように。雲が、その上にとどまるように。日を暗くする者が、これを脅かすように。

第38章 この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、②「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。③あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。④わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。⑤あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。⑥その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。…

第40章 ①主はまたヨブに答えて言われた、②「非難する者が全能者と争おうとするのか、神と論ずる者はこれに答えよ」。③そこで、ヨブは主に答えて言った、④「見よ、わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。⑤わたしはすでに一度言いました、また言いません、すでに二度言いました、重ねて申しません」。
⑥主はまたつむじ風の中からヨブに答えられた、⑦「あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。⑧あなたはなお、わたしに責任を負わそうとするのか。あなたはわたしを非とし、自分を是としようとするのか。⑨あなたは神のような腕を持っているのか、神のような声でとどろきわたることができるか。」

恵光の輪講『もう少し爽やかに生きたいと願うあなたへ』『この身このままで仏と言うあなたへ』、2019年2月22日

22. To you who wish you could lead a happier life

“Rest awhile and everything will be fine.”
We simply need to take a short break. Being buddha means taking a short break from being a human. Being buddha doesn’t mean working your way up as a human.
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What makes Ryōkan so refreshing is that he doesn’t fondle things.
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In everything, people follow their feelings of joy, anger, sadness and comfort. But that’s something different from everyday mind. Everyday mind means cease-fire. Without preferences, without animosity, without winner and loser, without good and evil, without joy and pain – that’s everyday mind.
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“What sort of person stands on the ground where there’s neither coming nor going?”
Kyūhō answered, “The stone sheep versus the stone tiger: sooner or later they’ll get tired of staring each other in the eyes.” The stone sheep won’t flinch. The stone tiger won’t jump out of hunger. That’s the point – encountering things beyond thinking.
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What do we have when we truly have a grip on things as they are? Beyond-thinking. Beyond-thinking doesn’t allow itself to be thought. No matter if you think so or not: things are simply as they are.
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“All things are empty” means there’s nothing we can run into, because nothing is really happening. We only think something’s happening because we are intoxicated by something.
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Nothing is ever happening, no matter what seems to be going on – that’s the natural condition. Illusion means losing this natural condition.
Normally we don’t recognize this natural condition. Normally we cover it with something else, so it’s not natural anymore.
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The buddha-dharma means the normal condition. Yet in the world everything is unnatural. Domineering, succumbing and discussing everything to death are unnatural.
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What’s […]

辨道話講義⑪ & 本堂回り、2019年2月13日&14日

たいていの人間は忙しい、忙しいと言うておる。何で忙しいかと言えば、煩悩に使われて忙しいだけの話じゃ。坐禅しておればヒマである。天下一のヒマ人になるのが坐禅人である

『坐禅をすると妄念がおこります』と言うてくる人がある。―― そうじゃない。坐禅すればこそ妄念がおこっているのがよくわかるのだ。妄念ぐるみのくせにダンスでもしておれば、それが全然わからないでいるまでじゃ。坐禅している時には蚊一匹とんできても『やっ、くいついたな』とよくわかるが、ダンスしておる時には、ノミがキンタマにくいついておってもわからず、夢中になって踊っておるやないか。

一種の陶酔というものを信心と、よう間違うんじゃ。アリガタキに似た陶酔、妄想というものがある。―― いやそんなすべての陶酔がさめ切ったところが信心なんじゃ.

何か有難いに似た陶酔を、信心と間違えてもろおては困る。坐禅はいい気持ちがする。そんな坐禅にふけることを三昧と間違えてはならぬ。それは有難いに似た妄想が起こっただけのことである。
正しい仏法は、こんな陶酔の覚めきった処でなければならぬ。ところが宗教屋としては、この陶酔というやつが大切な商売のネタである。だから私のようなことを言う者はおらぬ。

信とは「澄み浄き」ということである。ノボセの下がったことである。それをノボセ上がることを「信」だと思って、一生懸命ノボセ上がろうとするが、なかなかノボセられぬ。そこでノボセタ真似している奴さえいる。

三昧とは、自分ぎりの自分であり、自性清浄心である。坐禅だけが、自分ぎりの自分であることができる。坐禅のとき以外はいつでも他人より勝れたい、他人より楽しみたい根性がでてくる。

信仰ということも非思料ということも、「随順」することである。何に随順するか? 随順とは「長いものにはまかれろ」ということではない。…信仰とは「澄浄」の儀 ――シズマルこっちゃ。

   草の庵に ねてもさめても 申す事 南無釈迦牟尼仏 憐み給へ

正法眼蔵・道心 ①佛道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人まれなり。あきらかにしれらん人に問ふべし。よの人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて、人にしられざる人あり。かくのごとく、ありなししりがたし。おほかた、おろかにあしき人のことばを信ぜず、きかざるなり。また、わがこころをさきとせざれ、佛のとかせたまひたるのりをさきとすべし。よくよく道心あるべきやうを、よるひるつねにこころにかけて、この世にいかでかまことの菩提あらましと、ねがひいのるべし。
②世のすゑには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常にかけて、世のはかなく、人のいのちのあやふきこと、わすれざるべし。われは世のはかなきことをおもふと、しられざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、我がいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちもをしまざるべし。
③つぎには、ふかく佛法僧三寶をうやまひたてまつるべし。生をかへ身をかへても、三寶を供養し、うやまひたてまつらんことをねがふべし。ねてもさめても三寶の功徳をおもひたてまつるべし、ねてもさめても三寶をとなへたてまつるべし。たとひこの生をすてて、いまだ後の生にむまれざらんそのあひだ、中有と云ふことあり。そのいのち七日なる、そのあひだも、つねにこゑもやまず三寶をとなへたてまつらんとおもふべし。七日をへぬれば、中有にて死して、また中有の身をうけて七日あり。いかにひさしといへども、七七日をばすぎず。このとき、なにごとを見きくもさはりなきこと、天眼のごとし。かからんとき、心をはげまして三寶をとなへたてまつり、
南無歸依佛、南無歸依法、南無歸依僧 ととなへたてまつらんこと、わすれず、ひまなく、となへたてまつるべし。
④すでに中有をすぎて、父母のほとりにちかづかんときも、あひかまへてあひかまへて、正知ありて託胎せん。處胎藏にありても、三寶をとなへたてまつるべし。むまれおちんときも、となへたてまつらんこと、おこたらざらん。六根にへて、三寶をくやうじたてまつり、となへたてまつり、歸依したてまつらんと、ふかくねがふべし。
⑤またこの生のをはるときは、二つの眼たちまちにくらくなるべし。そのときを、すでに生のをはりとしりて、はげみて南無歸依佛ととなへたてまつるべし。このとき、十方の諸佛、あはれみをたれさせたまふ。縁ありて惡趣におもむくべきつみも、轉じて天上にむまれ、佛前にうまれて、ほとけををがみたてまつり、佛のとかせたまふのりをきくなり。
⑥眼の前にやみのきたらんよりのちは、たゆまずはげみて三歸依となへたてまつること、中有までも後生までも、おこたるべからず。かくのごとくして、生生世世をつくしてとなへたてまつるべし。佛果菩提にいたらんまでも、おこたらざるべし。これ諸佛菩薩のおこなはせたまふみちなり。これを深く法をさとるとも云ふ、佛道の身にそなはるとも云ふなり。さらにことおもひをまじへざらんとねがふべし。
⑦又、一生のうちに佛をつくりたてまつらんといとなむべし。つくりたてまつりては、三種の供養じたてまつるべし。三種とは、草座、石蜜漿(しゃくみつしょう)、燃燈なり。これをくやうじたてまつるべし。⑧又、この生のうちに、法華經つくりたてまつるべし。かきもし、摺寫(しょうしゃ)もしたてまつりて、たもちたてまつるべし。つねにはいただき、禮拜したてまつり、華香、みあかし、飮食衣服もまゐらすべし。つねにいただきをよくして、いただきまゐらすべし。
⑨又、つねにけさをかけて坐禪すべし。袈裟は、第三生に得道する先蹤(せんしょう)あり。すでに三世の諸佛の衣なり、功徳はかるべからず。坐禪は三界の法にあらず、佛祖の法なり。
        
ヨブ記(口語訳)
第1章 ①ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。②彼に男の子七人と女の子三人があり、③その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。 …⑧主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。⑨サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。⑩あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。⑪しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。⑫主はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。⑬ある日ヨブのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、⑭使者がヨブのもとに来て言った、「牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、⑮シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。⑯彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
⑰彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。⑱彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、⑲荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。⑳このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、㉑そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
㉒すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。

第2章 …⑥主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。⑦サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。⑧ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。
⑨時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。⑩しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。⑪時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである。⑫彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。⑬こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。

第3章 ①この後、ヨブは口を開いて、自分の生れた日をのろった。②すなわちヨブは言った、③「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。④その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように。⑤やみと暗黒がこれを取りもどすように。雲が、その上にとどまるように。日を暗くする者が、これを脅かすように。

第38章 この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、②「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。③あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。④わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。⑤あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。⑥その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。…

第40章 ①主はまたヨブに答えて言われた、②「非難する者が全能者と争おうとするのか、神と論ずる者はこれに答えよ」。③そこで、ヨブは主に答えて言った、④「見よ、わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです。⑤わたしはすでに一度言いました、また言いません、すでに二度言いました、重ねて申しません」。
⑥主はまたつむじ風の中からヨブに答えられた、⑦「あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。⑧あなたはなお、わたしに責任を負わそうとするのか。あなたはわたしを非とし、自分を是としようとするのか。⑨あなたは神のような腕を持っているのか、神のような声でとどろきわたることができるか。」

恵光の輪講『幽霊や霊魂の話が好きなあなたへ』『他人と意見が合わなくてと言うあなたへ』、2019年2月13日

20. To you who like to hear ghost stories

People often ask me if ghosts really exist. Somebody who racks their brains over something like that is what I call a ghost.
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It’s said that the dead appear as ghosts, but that’s only true as long as you have the living. When the living are dead, they won’t see any more ghosts. In Yogacara philosophy, ghosts are the tools of the living.
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One person says he saw a ghost, someone else learned of somebody’s death in a dream. What’s all this besides individual scenes in the theatre of transmigration.
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Isn’t everything a hallucination? It’s only because we don’t recognize this hallucination as a hallucination that we wander around in life and death.
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Everyone is dreaming. The problem is simply the differences between the individual dreams.
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When you are dreaming, it isn’t clear to you that you’re dreaming. If somebody hits you in the face, it hurts. But this pain is also only in the dream.
One dream keeps another company, that’s why even a dream doesn’t recognize the other as a dream.
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Some underpants are hanging to dry on a branch. Somebody sees them and thinks they’ve seen a ghost. Maybe you’re thinking that something like that hardly ever happens in reality, but when we think, “I need money”, “I want to become minister”, “I want to get ahead” – aren’t we all taking a pair of underpants for a ghost?
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Everyone is talking about “reality”, but this is only a dream. It’s nothing more than the reality inside a dream. Good!
When people are talking about revolution and war, we think that something really special is going on, but what is it besides struggling inside a dream? […]

古東哲明著『マインドフルネスの背後にあるもの』を紹介、2019年2月9日 Thumb­nail-Bild 古東哲明著『マインドフルネスの背後にあるもの』を紹介、2019年2月9日

講義「坐禅で人を救えるか?」、2019年2月6日

「仏教と日本の現代社会」にまつわる質問

1. お宗派は何ですか。
「曹洞宗」

2. どちらの寺院に勤めていますか。 
「安泰寺」

3. 何年ぐらい僧侶をしているんですか。 
「25年間」

4. どうして僧侶をしているんですか。僧侶になった理由は? 
「簡単に言えば、高校生の頃に坐禅と出会い、それに魅せられた。鈴木大拙などの著書を読んで、将来日本で禅僧になる夢を持つようになった。大学で日本学を勉強してから、京都での留学を経て、縁あって安泰寺で出家得度。詳しくは拙著『迷える者の禅修行』を参照。」

5. 現代社会では、人々が宗教への関心を徐々に失っていくに伴って、宗教的な活躍も減っているとよく言われていますが、そう思いますか。どうしてですか。 
「人々が関心をなくしたから宗教的な活躍が減ったのではなく、逆に本来の宗教的な活躍がされていないため、人々の関心が薄れただけの話である。徳川時代の幕府の政策であった檀家制度の上には、いまだに大半の僧侶が胡坐をかいているのが一番の原因。それに加えて、日本の寺院が明治以降、世襲制になり、実質私物化されたしまったことも関係している。」

6. 忙しい生活を送っている現代人の人生には、仏教が実際に役に立つと思いますか。(「はい」なら、どのように役に立ちますか。)人々が現代社会の問題(いじめや自殺や忙しさなど)が仏教を通して乗り越えられると思いますか。 
「「人々」や「現代社会」が何かの問題の「乗り越える」ために仏教を利用されたくないが、各々が檀家制度の残骸にすぎない既成仏教とは違う、本来の仏教に目を向けたら、生きるためのヒントはいくらでも得られると思う。」

7. 昔からある伝統に結んでいる宗教として、仏教が日本でなくなったら、それは社会にどんな影響を与えると思いますか。 
「この問題については、拙著『日本に宗教は要らない』の第4章「もし日本から仏教がなくなったら・・・」に詳しい。ご参照まで添付。」

8. 現代社会では仏教を守るために、僧侶がたがどういう活躍をしているんですか。どのように一般の人々に興味を向上させますか。それが足りると思いますか。 
「最近の若い僧侶(お寺の副住職など)は様々な活躍を試みている。お寺でヨガやコンサートを開催したり、本堂で婚活パーティーをしたり、地域でボランティア活動をしたり、「坊主バー」のような変わったことまで、いろいろやっているのは事実。だが、私はそこに「信念」を感じられない。たとえて言うなら、イタリアンレストランで展覧会もやり、コンサートもやり、定期的に中華や和食のクッキング・スクールもするが、肝心なピッツァもスパゲッティも作れないありさま。なぜなら、問い4(「あなたはなぜ僧侶になったか」)にはっきりした答えを持っている僧侶が少ないからだ。何とかして一般人のニーズに答えようとするけれども、仏教者としての主張は皆無である。イタリアンだけが作れない、イタリアン料理屋のように…」

マインドフルネスとお茶の文化について:
「茶の湯とは只(ただ)湯をわかし茶をたてて呑むばかりなるものと知るべし」(千利休)

「飛石のうち、一つだけ一寸(ちょっと)高いが、倅(せがれ)は気が附かないと見えます」(利休)
「己も常々さう思つてゐた所なのだ。親父は流石にカンが鋭い」(道安)
「さては、道安め、己の言葉を聞いたと見える。だが、それにしても、よく気が附いて、こちらが帰るまでに直したものだ」(利休)
(鈴木大拙著『禅と日本文化』より引用)

坐禅の資料:
足の組み方(1)
足の組み方(2)
足の組み方(3)
足の組み方(4)
足の組み方(5)
足の組み方(6)(英語)
足の組み方(7)(英語)
腰について(1)(英語)
腰について(2)(英語)
手の組み方(英語)
正身端坐(英語)
腰について(2)(英語)
居眠り対策(英語)

昔、安泰寺HPのために書いたシリーズがあります:
大人の修行

マインドフルネスの問題点と正しい坐禅について、特に以下のページで触れています:
「マインドフル」なお心、 もう忘れてしまいなさい
心猿意馬
さがしものは何ですか
正しい坐り方
綿屑みたいな顔はみっともない!
坐禅を好きになること

「坐禅儀」の各バージョン:

原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本円通、争(いか)でか修証を仮(か)らん。宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫を費さん。況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。然れども、毫釐も差有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心を失す。直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)、既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照の退歩を学すべし。身心自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん。恁麼の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事を務(つと)めよ。
夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思はず、是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏を図ること莫(なか)れ。豈に坐臥に拘(かか)はらんや。尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物(ざもつ)を敷き、上に蒲団を用ふ。或(あるい)は結跏趺坐、或は半跏趺坐。謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の腿(もも)の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず。半跏趺坐は、但(ただ)左の足を以て右の腿を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。乃(すなわ)ち、正身端坐して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しんし)相(あい)著け、目は須らく常に開くべし。鼻息(びそく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振して、兀兀として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。…『普勧坐禅儀』

參禪は坐禪なり。坐禪は靜處よろし。坐蓐あつくしくべし。風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すべし。かつて金剛のうへに坐し、盤石のうへに坐する蹤跡あり、かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。坐處あきらかなるべし、晝夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり。
諸縁を放捨し、萬事を休息すべし。善也不思量なり、惡也不思量なり。心意識にあらず、念想觀にあらず。作佛を圖する事なかれ、坐臥を脱落すべし。飮食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃をはらふがごとく坐禪をこのむべし。黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禪のみなり。坐禪のとき、袈裟をかくべし、蒲團をしくべし。蒲團は全跏にしくにはあらず、跏趺のなかばよりはうしろにしくなり。しかあれば、累足のしたは坐蓐にあたれり、脊骨のしたは蒲團にてあるなり。これ佛佛祖祖の坐禪のとき坐する法なり。
あるいは半跏趺坐し、あるいは結果趺坐す。結果趺坐は、みぎのあしをひだりのももの上におく。ひだりの足をみぎのもものうへにおく。あしのさき、おのおのももとひとしくすべし。參差なることをえざれ。半跏趺坐は、ただ左の足を右のもものうへにおくのみなり。衣衫を寛繋して齊整ならしむべし。右手を左足のうへにおく。左手を右手のうへにおく。ふたつのおほゆび、さきあひささふ。兩手かくのごとくして身にちかづけておくなり。ふたつのおほゆびのさしあはせたるさきを、ほそに對しておくべし。正身端坐すべし。ひだりへそばだち、みぎへかたぶき、まへにくぐまり、うしろへあふのくことなかれ。かならず耳と肩と對し、鼻と臍と對すべし。舌は、かみの顎にかくべし。息は鼻より通ずべし。くちびる齒あひつくべし。目は開すべし、不張不微なるべし。かくのごとく身心をととのへて、欠氣一息あるべし。兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禪の法術なり。坐禪は習禪にはあらず、大安樂の法門なり。不染汚の修證なり。『正法眼蔵坐禅儀』

夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘(ぐ)誓願を発し、精(たけ)く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し身心一如にして、動静間無(へだてな)く、其の飲食を量って、多からず少なからず、其の睡眠を調えて節せず、恣にせず。坐禅せんと欲する時、閑静處(かんじょうしょ)に於いて厚く坐物を敷き、寛(ゆる)く衣帯を繋け、威儀をして齊整(せいせい)ならしめ、然る後、結跏趺坐せよ。先ず右の足を以って、左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。或いは、半跏趺坐も亦た可なり。但左の足を以って、右の足を圧すのみ。次に右の手を以って、左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面をもって相拄(あいささ)え、徐徐として身を挙し、前後左右、反覆揺振(はんぷくようしん)して、乃ち身を正しうして端坐せよ。左に傾き右に側(そばだ)ち、前に躬まり後に仰ぐことを得ざれ。腰脊頭頂(ようせきずちょう)骨節をして相拄え、状(かたち)浮屠(ふと)の如くならしめよ。又た身を聳(そび)やかすこと太(はなは)だ過ぎて、人をして気急不安(ききゅうふあん)ならしむることを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対し、舌は上の顎(あぎと)を拄え、唇歯相著(しんしあいつけ)けしむることを要せよ。目は須らく微(すこ)し開き、昏睡を致すこと免るべし。若し禅定を得れば其の力最勝なり。古え習定の高僧有り、坐して常に目を開く。向(さ)きの法雲円通禅師も亦た、人の目(まなこ)を閉(と)じて坐禅するを訶して、以って黒山の鬼窟と謂えり。蓋(けだ)し深旨(じんし)あり、達者焉(これ)を知るべし。身相既に定まり、気息既に調い、然して後(のち)臍腹(さいふく)を寛放(かんほう)し、一切の善悪都て思量すること莫れ。念起らば即ち覚せよ。之を覚すれば即ち失す。久々に縁を忘すれば、自ら一片と成る。此れ坐禅の要術なり。窃(ひそ)かに謂うに坐禅は乃ち安楽の法門なり。…『禅苑清規・坐禅儀』

正法眼蔵行持の講義、2019年1月31日

 石頭大師は草庵を大石にむすびて石上に坐禪す。晝夜にねぶらず、坐せざるときなし。衆務を虧闕せずといへども、十二時の坐禪かならずつとめきたれり。いま原の一派の天下に流通すること、人天を利潤せしむることは、石頭大力の行持堅固のしかあらしむるなり。いまの雲門法眼のあきらむるところある、みな石頭大師の法孫なり。

 第三十一祖大醫禪師は、十四歳のそのかみ、三祖大師をみしより、服勞九載なり。すでに佛祖の祖風を嗣續するより、攝心無寐にして脅不至席なること僅六十年なり。化、怨親にかうぶらしめ、徳、人天にあまねし。眞丹の第四祖なり。
 貞觀癸卯の歳、太宗、師の道味を嚮び、風彩を瞻んとして、赴京を詔す。師、上表して遜謝すること前後三返、竟に疾を以て辭す。第四度、使に命じて曰く、如果して赴せずは、即ち首を取りて來れ。使、山に至つて旨を諭す。師乃ち頚を引いて刄に就く、神色儼然たり。使、之を異とし、廻つて状を以て聞す。帝彌加歎慕す。珍繒を就賜して、以てその志を遂ぐ。
 しかあればすなはち、四祖禪師は身命を身命とせず、王臣に親近せざらんと行持せる行持、これ千歳の一遇なり。太宗は有義の國主なり、相見のものうかるべきにあらざれども、かくのごとく先達の行持はありけると參學すべきなり。人主としては、引頚就刄して身命ををしまざる人物をも、なほ歎慕するなり。これいたづらなるにあらず、光陰ををしみ、行持を專一にするなり。上表三返、奇代の例なり。いま澆季には、もとめて帝者にまみえんとねがふあり。
 高宗の永徽辛亥の歳、閏九月四日、忽ちに門人に垂誡して曰く、一切諸法は悉く皆解脱なり。汝等各自護念すべし、未來を流化すべし。言ひ訖りて安坐して逝す。壽七十有二。本山に塔たつ。明年四月八日、塔の戸、故無く自ら開く、儀相生ける如し。爾後、門人敢てまた閉ぢず。
 しるべし、一切諸法悉皆解脱なり、諸法の空なるにあらず、諸法の諸法ならざるにあらず、悉皆解脱なる諸法なり。いま四祖には、未入塔時の行持あり、既在塔時の行持あるなり。生者かならず滅ありと見聞するは小見なり、滅者は無思覺と知見せるは小聞なり。學道にはこれらの小聞小見をならふことなかれ。生者の滅なきもあるべし、滅者の有思覺なるもあるべきなり。

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