他人の目がすごく気になるあなたへ
澤木興道老師の言葉
屁ひとつだって、人と貸し借りできんやないか。人人みな「自己」を生きねばならない。お前とわしとどちらが器量がいいか悪いかそんなこと比べてみんかてええ。
目が、オレはカシコィのだげれど、位が低いとも思わず、眉はオレは役なしだげれど、位が高いと思わぬ。仏法の生活とは、この不知の活動である。
山だからというて高いと思わず、海だとて広いとも深いとも思わず、一切合財、不知の活動じゃ。
野鳥自啼花自笑、不干岩下坐禅人・野鳥は坐禅している人に、ひとついい声を聞かしてやろうと思って鳴くわけでもなく、花も人に美しく思ってもらおうと思って咲くのではない。坐禅人も、悟りをひらくために坐禅しているのではない。
みなただ自分が自分を自分しているのである。
宗教とは何ものにもダマサレヌ真新しの自己に生きることである。
オイ、どっちゃ向いとるんじゃ。藪にらみみたいな目をして。お前自身のこっちゃ。
ケツの穴だからというて卑下せんでもいい。足だからというてストライキやらんでもいい。頭が一番エライというのでもない。ヘソが元祖だというていばらんでもいい。
総理大臣が一番エライと思うておるからオカシイ。目の代わりを鼻ではできぬ。耳の代わりを口ではできぬ。みな天上天下唯我独尊である。
一切衆生は唯我独尊じゃ、自分が自分を生きるよりほかはないんじゃ。それをどうして見失うたか。
世間の見本が悪いからじゃ。常識といい、杜会意識といい、党派根性といい、一切合財みんな見本が悪すぎる。
徳川時代の儒者は、「釈迦という奴は傲慢な奴じゃ。天上天下唯我独尊などと言いおって」と言うておるが、そうじゃない。
天上天下唯我独尊はお釈迦さまばかりではない。だれでもかれでもみんな天上天下唯我独尊じゃ。
それを天上天下唯我独尊をもち歩きながら愁嘆いうとるだけじゃ。
天上天下唯我独尊を、自分において実現するのが、仏道である。
泣き顔をヤメイ。ちっちゃな気で「オレはツマラヌ」と思い、「ヒトはエライ」と思うて泣き顔してコセコセして。そしてちょっとツマルと調子づきやがって。
宗教をもって生きるとは自分で自分を反省し反省し、採点してゆくことである。
なにごともヨソゴトみたいな顔している人間。
自分で「自分をみくびる」ことがないようでは、信仰も懺悔もない。
このごろグレン隊やら何やらが悪いことしてつかまると、「環境が悪いので」とか何とか言いおる。
いったいどんな環境がよくて、どんな環境が悪いのか。金持ちの息子に生まれれば悪いのか、貧乏人に生まれればいいのか。
だいたい男一匹に生まれて「自己がない」ということこそ、真に環境が悪いんじゃ。
ようつつしんで親だとか先祖だとか背景だとかで、値うちをもたそうとしてはならぬ。金や地位や着物で味をもたせてはならぬ。自分で生きてゆかねばならぬ。現ナマじゃ。宗教とは現ナマの自分で生ききることじゃ。
世の中はヒトやヨソモンを背景にして自分をエラク見せようとする。味ないものを、皿で味をもたすようなもんじゃ。
そんなことで世間では、人間を見失う。
宗教には連帯責任ということはない。私一人である。
凡夫は見物人がないとハリアイがなくなる、見物人さえあれば火の中にまで飛び込む。
世の中に表彰ということがあるが、ロクなことではない。表彰されると「はばかりながら……」という染汚がおこりがちだから。
世の中、競走とか勝負とかいうようなオカシナことがあるべきではない。オレはオレなんじゃ。絶対比較なし。
今は学校の教育からしてワルイわい。試験して、点数をつけて、人間に等級をつけ、番号をつける。こんなバカなことはない。いったいどんなのがエライのか、どんなのがエラクナイのか。モノオボエのいい者がいいのか。モノオボエの悪いのが悪いのか。モノオボエのいいバカも、いくらだっているではないか。それにビリの番号をつけられた者なんか、「わい、ツマソナイ」と、一生ひがんでしまう者もおる。そのひがむことこそ、ツマソナイ。
人から番号をつげてもらって喜ぶな。自己をもて。自己がわからず、人から評価してもらったり測ってもらったりして、喜んだり、ひがんだり。
わしは人をほめたことはない。みんなよいところは自分でちゃんと知っておるから。しかも中味以上に知っておる。
ネズミが子供につかまえられて、ナブリモノにされ、コブチ(ネズミ取り)の中でバタバタ、バタバタ……鼻はすりむけ、尻尾がちぎれ、それで最後に猫の鼻先につきつけられて、食われてしまう。
わしが、この場合ネズミならと思うことがあるな。「畜生、だれが人間の奴のナブリモノなんかになるもんか」と、コブチの中で坐禅していてやるな。
よそ見なしが成仏である。よそ見がやんで、はじめて飯もだまって食える。
仏道とはよそ見せんこと。そのものにナリキルことである。これを三昧という。飯を食うのはクソをするためではない。クソをするのはコヤシをつくるためでない。ところがこのごろは、学校へ行くのは上の学校へ行くため、上の学校へ行くのは就職するため、と思うている。
菩提心をおこすとは「よそ見をやめる」ことである。「坊主しよか、坊主やめよか。坊主しよか、坊主やめよか」このよそ見がやんで「ただ正法眼蔵をもって重担となして随処に主宰とならん」(「大智禅師発願文」)とキマッタとき、菩提心をおこしたのである。
よそ見なしに、この肉体を仏道につかうのが、太尊貴生、露堂々(この上なく尊く、行きつく所へ行きついて、はっきりしている)ということである。仏とは「よそ見のやんだ人」である。
なにもよそ見する必要はないのじゃが、無始よりこのかた習慣でチラッチラッとよそ見する。
大人になると妙な癖がついているから言葉ひとつでも大騒ぎしおる。
赤ん坊ならなんともない。赤ん坊に恥をかかそうとしても赤ん坊は恥をかかぬ。
大人ばっかりがはじめっから対立感をもっていて、みずから催眠術にかかっているから、恥をかいたり、腹を立てたりする。
ただマッスグにゆけばいいんじゃ。
「鉄牛(鉄でつくった牛)は獅子吼を恐れず」と言うが、そりゃそうじゃ。生物の弱点がないから。
「木人(木で作った人)、花鳥を見るに似たり」-ここにも自主意識の弱点がない。
人間という奴は頭の早い奴で、化けものを見てはや腰ぬからかして、幻影を見ておびえておる。
現実、現実と言うが、この現実にだまされて大騒ぎしているのである。
自分の生き方が、一生みあたらない奴。
クラガリを手探りでゆくことをやめろ。大手をふって歩ける所で歩け。「夜行を許さず。明に投じてゆくべし」(『景徳伝燈録』十五・投子同章)これが宗教の極則である。
見わたすかぎり自分ぎりで、自分でないものは何にもない。「オレのダルイのを手伝ってくれ。オレのイタイのを代わってくれ」・・・そうはゆかぬ。
三昧とは、自分ぎりの自分であり、自性清浄心である。
坐禅だけが、自分ぎりの自分であることができる。
坐禅のとき以外はいつでも他人より勝れたい、他人より楽しみたい根性がでてくる。
われわれだれでも世界と一緒に生まれ、一緒に死ぬ。めいめいもっている世界が違うのじゃから。