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安泰寺の桜 & ビニールハウスから開山堂へ & 玉切り・薪割り、2019年4月17&18日

流転会の報告・今後のイベントの告知、2019年4月15日

毎週日曜日、6:40~7:40 大阪城公園(石山若宮三吉大明神の裏)。
antaiji.org/ja/muho/events

流転会の報告・時間の変更、2019年4月9日

毎週日曜日、6:40~7:40 大阪城公園(石山若宮三吉大明神の裏)。
antaiji.org/ja/muho/events

本の紹介 & 春日和の安泰寺、2019年4月4&5日

流転会の再開と「安泰寺」と「ネルケ無方」のアカウントの使い分けについて、2019年3月31日

安泰寺のアカウント: youtube.com/user/sendaba
ネルケ無方のアカウント: youtube.com/user/sendab
無方の再生リスト: youtube.com/user/sendab/playlists

トマス・マートンの「最も危険な人物」や小池龍之介さんの「懺悔」などについて(英語)、2019年3月28日

The most dangerous man in the world is the contemplative who is guided by nobody. He trusts his own visions. He obeys the attractions of an interior voice but will not listen to other men. He identifies the will of God with anything that makes him feel, within his own heart, a big, warm, sweet interior glow. The sweeter and the warmer the feeling is, the more he is convinced of his own infallibility. (Thomas Merton)
出典:New Seeds of Contemplation

解脱失敗とその懺悔――小池龍之介さんからの電話

本堂回り、2019年3月24日

ばさばさ生きねば案内所&ネルケ無方「弁道話講義⑫」&本堂回り、2019年3月12&15&16日

ばさばさ生きねば案内所: 西田幾多郎の宗教哲学②ネルケ無方さま(安泰寺ご住職)からご意見を頂きました。

Ⓠ4 とふていはく、「いまわが朝(ちょう)につたはれるところの法華宗、華厳教¬¬¬、ともに大乗の究竟(くきょう)なり。いはんや真言宗のごときは、毘盧遮那如来したしく金剛薩埵(こんごうさった)につたえへて、師資みだりならず。その談ずるむね、即心是仏、是心作仏といふて、多劫(たごう)の修行をふることなく、一座に五仏の正覚をとなふ、仏法の極妙(ごくみょう)といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや。」
Ⓐ4 しめしていはく、「しるべし、仏家には、教の殊劣(しゅれつ)を対論することなく、法の浅深(せんじん)をえらばず、ただし修行の真偽(しんぎ)をしるべし。草華山水(そうかさんすい)にひかれて仏道に流入(るにゅう)することありき、土石沙礫(どしゃくしゃりゃく)をにぎりて仏印を稟持(ぼんじ)することあり。いはんや広大の文字は万象にあまりてなほゆたかなり、転大法輪 又 一塵(いちじん)にをさまれり。しかあればすなはち、即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり。即坐成仏のむね、さらに又かがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべからず。いま直証菩提の修行をすすむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。
また、仏法を伝授することは、かならず証契(しょうかい)の人をその宗師とすべし。文字をかぞふる学者をもてその導師とするにたらず、一盲の衆盲をひかんがごとし。
いまこの仏祖正伝の門下には、みな得道証契の哲匠をうやまひて、仏法を住持せしむ。かるがゆゑに、冥陽の神道もきたり帰依し、証果の羅漢もきたり問法するに、おのおの心地を開明する手をさづけずといふことなし。余門にいまだきかざるところなり、ただ仏弟子は仏法をならふべし。
又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず、とこしなへに受用すといへども、承当することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふによりて、大道いたづらに蹉過(しゃか)す。この知見によりて、空華まちまちなり。あるいは十二輪転、二十五有の境界とおもひ、三乗五乗、有仏無仏の見、つくることなし。この知見をならうて、仏道修行の正道とおもふべからず。しかあるを、いまはまさしく仏印によりて万事を放下し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかはらず、すみやかに格外に逍遥し、大菩提を受用するなり。かの文字の筌罤(せんてい)にかかはるものの、かたをならぶるにおよばんや。

Ⓠ5 とうていはく、「三学のなかに定学あり、六度のなかに禅度あり。ともにこれ一切の菩薩の、初心よりまなぶところ、利鈍をわかず修行す。いまの坐禅も、そのひとつなるべし。なにによりてか、このなかに如来の正法あつめたりといふや。」
Ⓐ5 しめしていはく、「いまこの如来 一大事の正法眼蔵 無上の大法を、禅宗となづくるゆゑに、この問(もん)きたれり。しるべし、この禅宗の号は、神丹以東におこれり、竺乾(ちくけん)にはきかず。はじめ達磨大師、嵩山の少林寺にして九年面壁のあひだ、道俗いまだ仏正法をしらず、坐禅を宗とする婆羅門となづけり。のち代代の諸祖、みなつねに坐禅をもはらす。これをみるおろかなる俗家は、実をしらず、ひたたけて坐禅宗といひき。いまのよには、坐のことばを簡(かん)して、ただ禅宗といふなり。そのこころ、諸祖の広語にあきらかなり。六度および三学の禅定にならっていふべきにあらず。」

道本円通、いかでか修証を仮らん。宗乗自在、何ぞ功夫を費さん…大都当処を離れず、豈に修行の脚頭を用ふる者ならんや…入頭の辺量に逍遥すと雖も、幾んど出身の活路を虧闕す…少林の心印を伝ふる、面壁九歳の声名、尚ほ聞こゆ。

亦云く、道を得ることは心を以て得るか、身を以て得るか。教家等にも身心一如と云て、身を以て得るとは云へども、猶一如の故にと云ふ。しかあれば正く身の得ることはたしかならず。今我が家は身心ともに得るなり。其の中に心を以て佛法を計校する間は、萬劫千生得べからず。心を放下して知見解会を捨つる時得るなり。見色明心聞声悟道の如きも、猶を身の得るなり。然あれば心の念慮知見を一向に捨てて只管打坐すれば道は親しく得るなり。然あれば道を得ることは正しく身を以て得るなり。是に依りて坐を專らにすべしと覚へて勧むるなり。(随聞記)

近況報告「変わること」&「安泰寺へ残す言葉」、2019年3月7日

仏教伝道協会「ネルケ無方の処方箋」:VOL.06 変わること(最終回)

安泰寺へ残す言葉より (内山興正老師)

1 人情・世情ではなく仏法ために仏法を学し仏法のために仏法を修すべきこと。
2 坐禅こそ本尊であり正師である。
3 坐禅は具体的に「得はマヨイ、損はサトリ」を実行し二行(懺悔行、誓願行)、三心(喜心、老心、大心)として生活の中に働く坐禅でなければならない。
4 誓願を我が生命とし深くその根を養うこと。
5 向上するのも堕落するのも自分持ちであることを自覚して修行向上に励むこと。
6 黙って10年坐ること、さらに10年坐ること、その上10年坐ること。
7 真面目な修行者達が悩まないでいいような修行道場であることを願って互いに協力すべきこと。

「安泰寺を去る」
老人としての私には私なりの仕事がある。
それは若い時のように外に向かって働くことではない。
ただ、内に向かって自己を見つめ
大空の中に雲が消えて行くように静かに消えていくことだ。

2019年のスケジュール:antaiji.org/ja/muho/events/

正法眼蔵・行持の講義、2019年2月28日

 福州玄沙宗一大師、法名師備、福州閩縣人也。姓謝氏。幼年より垂釣をこのむ。小艇を南臺江にうかめて、もろもろの漁者になれきたる。唐の咸通のはじめ、年甫三十なり。たちまちに出塵をねがふ。すなはち釣舟をすてて、芙蓉山靈訓禪師に投じて落髪す。豫章開元寺道玄律師に具足戒をうく。
 布衲芒履、食纔接氣、常終日宴坐。衆皆異之。與雪峰義存、本法門昆仲、而親近若師資。雪峰以其苦行、呼爲頭陀(布衲芒履なり、食は纔かに氣を接す、常に終日宴坐す。衆皆之を異なりとす、雪峰義存と、本と法門の昆中なり、而して親近すること師資の若し。雪峰其の苦行を以て、呼んで頭陀と爲す)。
 一日雪峰問曰、阿那箇是備頭陀(一日、雪峰問ふて曰く、阿那箇か是れ備頭陀)。
 師對曰、終不敢誑於人(師對へて曰く、終に敢て人を誑かさず)。
 異日雪峰召曰、備頭陀何不偏參去(異日雪峰召んで曰く、備頭陀何ぞ偏參去せざる)。
 師曰く、達磨不來東土、二祖不往西天。
 雪峰然之。

 つひに象骨山にのぼるにおよんで、すなはち師と同力締構するに、玄徒臻萃せり。師の入室咨決するに、晨昏にかはることなし。諸方の玄學のなかに所未決あるは、かならず師にしたがひて請益するに、雪峰和尚いはく、備頭陀にとふべし。師まさに仁にあたりて不讓にしてこれをつとむ。拔群の行持にあらずよりは、恁麼の行履あるべからず。終日宴坐の行持、まれなる行持なり。いたづらに聲色に馳騁することはおほしといへども、終日の宴坐はつとむる人まれなるなり。いま晩學としては、のこりの光陰のすくなきことをおそりて、終日宴坐、これをつとむべきなり。