antaiji

About antaiji

This author has not yet filled in any details.
So far antaiji has created 539 entries.

夏の田畑、2019年8月11日

夏の田畑 & 本堂回り、2019年8月2&4日

弁道話講義⑯本堂回り、2019年7月29&30日

とうていはく、「あるがいはく、生死(ショウジ)をなげくことなかれ、生死を出離するにいとすみやかなるみちあり。いはゆる、心性(シンショウ)の常住(ジョウジュウ)なることわりをしるなり。
そのむねたらく、この身体は、すでに生(ショウ)あればかならず滅(メツ)にうつされゆくことありとも、この心性はあへて滅することなし。
よく生滅にうつされぬ心性わが身にあることをしりぬれば、これを本来の性とするがゆゑに、身はこれかりのすがたなり、死此生彼(シシショウヒ)さだまりなし。心はこれ常住なり、去来現在(コライ ゲンザイ)かはるべからず。かくのごとくしるを、生死をはなれたりとはいふなり。
このむねをしるものは、従来の生死ながくたえて、この身をはるとき性海(ショウカイ)にいる。性海に朝宗(チョウソウ)するとき、諸仏如来のごとく、妙徳まさにそなはる。
いまはたとひしるといへども、前世の妄業(モウゴウ)になされたる身体なるがゆゑに、諸聖(ショショウ)とひとしからず。いまだこのむねをしらざるものは、ひさしく生死にめぐるべし。
しかあればすなはち、ただいそぎて心性の常住なるむねを了知(リョウチ)すべし。いたづらに閑坐(カンザ)して一生をすぐさん、なにのまつところかあらん。かくのごとくいふむね、これはまことに諸仏諸祖の道にかなへりや、いかん。」

しめしていはく、「いまいふところの見(ケン)、またく仏法にあらず、先尼外道(センニ ゲドウ)が見なり。いはく、かの外道(ゲドウ)の見(ケン)は、わが身うちにひとつの霊知あり、かの知、すなはち縁にあふところに、よく好悪(コウオ)をわきまへ、是非をわきまふ。痛痒(ツウヨウ)をしり、苦楽をしる、みなかの霊知のちからなり。
しかあるに、かの霊性(レイショウ)は、この身の滅するとき、もぬけてかしこにうまるるゆゑに、ここに滅すとみゆれども、かしこの生(ショウ)あれば、ながく滅せずして常住なりといふなり。かの外道が見、かくのごとし。
しかあるを、この見をならうて仏法とせん、瓦礫(ガリャク)をにぎりて金宝(コンポウ)とおもはんよりもなほおろかなり。癡迷(チメイ)のはづべき、たとふるにものなし。大唐国の慧忠国師(エチュウ コクシ)、ふかくいましめたり。
いま心常相滅(シンジョウ ソウメツ)の邪見を計(ケ)して、諸仏の妙法にひとしめ、生死の本因をおこして、生死をはなれたりとおもはん、おろかなるにあらずや、もともあはれむべし。ただこれ外道の邪見なりとしれ、みみにふるべからず。
ことやむことをえず、いまなほあはれみをたれて、なんぢが邪見をすくはん。しるべし、仏法には、もとより身心一如(シンジン イチニョ)にして、性相不二(ショウソウ フニ)なりと談ずる、西天東地(サイテン トウチ)おなじくしれるところ、あへてうたがふべからず。
いはんや常住を談ずる門には、万法みな常住なり、身と心とをわくことなし。寂滅を談ずる門には、諸法みな寂滅なり、性と相とをわくことなし。しかあるを、なんぞ身滅心常(シンメツ シンジョウ)といはん、正理(ショウリ)にそむかざらんや。
しかのみならず、生死(ショウジ)はすなはち涅槃(ネハン)なりと覚了(カクリョウ)すべし、いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。
いはんや心は身をはなれて常住なりと領解(リョウゲ)するをもて、生死をはなれたる仏智に妄計(モウケ)すといふとも、この領解知覚の心は、すなはちなほ生滅して、またく常住ならず。これ、はかなきにあらずや。
嘗観(ショウカン)すべし、身心一如(シンジン イチニョ)のむねは、仏法のつねの談ずるところなり。しかあるに、なんぞこの身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて生滅せざらん。もし一如なるときあり、一如ならぬときあらば、仏説おのづから虚妄(コモウ)になりぬべし。
又生死はのぞくべき法ぞとおもへるは、仏法をいとふつみとなる。つつしまざらんや。
しるべし、仏法に心性大総相(シンショウ ダイソウソウ)の法門といふは、一大法界をこめて、性相(ショウソウ)をわかず、生滅をいふことなし。
菩提涅槃(ボダイ ネハン)におよぶまで、心性にあらざるなし。一切諸法 万象森羅、ともにただこれ一心にして、こめずかねざることなし。
このもろもろの法門、みな平等一心なり、あへて異違(イイ)なしと談ずる、これすなはち仏家の心性をしれる様子なり。
しかあるを、この一法に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらんや。
すでに仏子なり、外道(ゲドウ)の見(ケン)をかたる狂人のしたのひびきをみみにふるることなかれ。」

正法眼蔵随聞記2-26
亦云く、道を得ることは心を以て得るか、身を以て得るか。教家等にも身心一如と云て、身を以て得るとは云へども、猶一如の故にと云ふ。しかあれば正く身の得ることはたしかならず。今我が家は身心ともに得るなり。其の中に心を以て佛法を計校する間は、萬劫千生得べからず。心を放下して知見解会を捨つる時得るなり。見色明心聞声悟道の如きも、猶を身の得るなり。然あれば心の念慮知見を一向に捨てて只管打坐すれば道は親しく得るなり。然あれば道を得ることは正しく身を以て得るなり。是に依りて坐を專らにすべしと覚へて勧むるなり。

マルコによる福音書(口語訳)14:37-38
「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」

ガラテヤ人への手紙(口語訳)5:16-17
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。

遺教経
「世は実に危脆なり。牢強なる者の無し。我れ今、滅を得ること悪病を除くが如し。此れは是れまさに捨つべき罪悪の物、仮に名づけて身と為す。老病生死の大海に没在す。何ぞ智者あって、之を除滅すること怨賊を殺すが如くして、而も歓喜せざらんや。」

修証義・行持報恩
「此(この)一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、此(この)行持あらん身心(しんじん)自らも愛すべし、自らも敬うべし」

流転会、2019年7月28日

愛語 (priya-vāditā) について、2019年7月17日

愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛(こあい)の言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。慈念衆生(じねんしゅじょう)、猶如赤子(ゆうにょしゃくし)のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。しかあれば、ひごろしられずみえざる愛語も現前するなり。現在の身命の存ぜらんあひだ、このんで愛語すべし、世々生々にも不退転ならん。怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こゝろをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、たゞ能を賞するのみにあらず。

無財の七施 (眼施(がんせ)・和顔施(わがんせ)・言辞施(ごんじせ)・身施(しんせ)・心施(しんせ)・床座施(しょうざせ)・房舎施(ぼうしゃせ))

愛着、渇愛、十二因縁(無明-行-識-名色-六処-触-受-愛-取-有-生-老死)

四聖諦 (苦・集・滅・道 → 正見-正思-正語-正業-正命-正精進-正念-正定)

無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。

婆子焼庵(ばすしょうあん) 「枯木は寒巌に倚(よ)る。三冬に暖気なし」

四無量心(慈→布施・悲→愛語・喜→利行(?)・捨→同事)

愛語 (priya-vāditā) について、2019年7月17日

愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛(こあい)の言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。慈念衆生(じねんしゅじょう)、猶如赤子(ゆうにょしゃくし)のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。しかあれば、ひごろしられずみえざる愛語も現前するなり。現在の身命の存ぜらんあひだ、このんで愛語すべし、世々生々にも不退転ならん。怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こゝろをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、たゞ能を賞するのみにあらず。

無財の七施 (眼施(がんせ)・和顔施(わがんせ)・言辞施(ごんじせ)・身施(しんせ)・心施(しんせ)・床座施(しょうざせ)・房舎施(ぼうしゃせ))

愛着、渇愛、十二因縁(無明-行-識-名色-六処-触-受-愛-取-有-生-老死)

四聖諦 (苦・集・滅・道 → 正見-正思-正語-正業-正命-正精進-正念-正定)

無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。

婆子焼庵(ばすしょうあん) 「枯木は寒巌に倚(よ)る。三冬に暖気なし」

四無量心(慈→布施・悲→愛語・喜→利行(?)・捨→同事)

坐禅の意味について(英語&日本語)& Antaiji kitchen、2019年7月9日&10日

人生の意味の有無、ゲームを降りること、出家と日常生活における行、大人の条件、坐禅における痛みとの向き合い方、座布上で死ぬこと、関心のない人への伝え方、修行によって人を幸せにできるか、輪廻転生はあるか、神通力、慈悲の根源、今ここに戻ること、坐禅して本当に何んならないのか、など、いろいろな質問について。

本堂回り、2019年7月7日

弁道話 & 正法眼蔵行持の講義、2019年6月28日&30日

Ⓠ7 とうていはく、「この坐禅の行は、いまだ仏法を証会(しょうえ)せざらんものは、坐禅辨道してその証をとるべし。すでに仏正法をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらん。」

Ⓐ7 しめしていはく、「痴人のまへにゆめをとかず、山子(さんす)の手には舟棹(しゅうとう)をあたへがたしといへども、さらに訓をたるべし。
それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。直指の本証なるがゆゑなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。ここをもて、釈迦如来、迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師、大鑑高祖、おなじく証上の修に引転せらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。すでに証をはなれぬ修あり、われらさいはひに一分の妙修を単伝せる、初心の辨道すなはち一分の本証を無為の地にうるなり。
しるべし、修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。妙修を放下すれば本証 手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこなはる。
又まのあたり大宋国にしてみしかば、諸方の禅院みな坐禅堂をかまへて、五百六百、および一二千僧を安じて、日夜に坐禅をすすめき。その席主とせる伝仏心印の宗匠に、仏法の大意をとぶらひしかば、修証の両段にあらぬむねをきこえき。このゆゑに、門下の参学のみにあらず、求法の高流(こうる)、仏法のなかに真実をねがはん人、初心後心をえらばず、凡人聖人を論ぜず、仏祖のをしへにより、宗匠の道をおふて、坐禅辨道すべしとすすむ。
きかずや祖師のいはく、「修証はすなはちなきにあらず、染汚することはえじ。」又いはく、「道をみるもの、道を修す」と。しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。」

Ⓠ8とうていはく、「わが朝の先代に、教をひろめし諸師、ともにこれ入唐伝法せしとき、なんぞこのむねをさしおきて、ただ教をのみつたへし。」
Ⓐ8しめしていはく、「むかしの人師(にんし)この法をつたへざりしことは、時節のいまだいたらざりしゆゑなり。」

Ⓠ9とうていはく、「かの上代の師、この法を会得(えとく)せりや。」
Ⓐ9しめしていはく、「会(え)せば通じてん。」

ただ静かに坐禅する―このことだけが、今や私に残された、ただ一つの道でした。
まだ初秋とはいえ、すっかり秋らしくなってしまった信州の寺の、ガランとした僧堂の中に、外からさしこむ月光を受け、しげくすだく虫の声を聞きながら、ただ一人坐禅していたあの夜のことを、今でも思い出します。
それは何か大変すばらしいことを思いついたような派手な快感ではありませんでした。むしろただ求めにもとめたかけずりまわり、疲れはてたあげく、「まあひとやすみ」とホコをおさめて静かに坐ったとき、かえってそこに何か、ホノボノとした安らぎを、――もし「感覚以上の感覚」「覚知以上の覚知」といったものがありとすれば、そんなもので、わずかにそれを見出したとでもいえましょうか。…〈中略〉…今にして思えば、たしかこのころから私には、そこに何か、あるものが熟しつつあったようです。
それから一、二年たち、舞台は信州から京都にうつり、京都でも臘八接心のあるとき、本師老師は「仏法は無量無辺。小さなお前の思わくを、物足りさすものであろうわけがない」と。
――まさにこの言葉こそ、青天の霹靂、迅雷のごとく、私の身内(しんない)に轟(とどろ)きわたり、にわかに通じられた電流によって、従来の私はひっくりかえされてしまいました。…〈中略〉…「坐禅はサトリを『手籠め』にしたいという『思い』の手段となるべきではなく、かえって、坐禅とは本来『手放しの身構え』である。それでこの『無量無辺』を『無量無辺』ならしめる『手放しの身構え』に、ただまかせてゆくことが坐禅というものであり、また真実の自分というものでなければならない。つまり『私が坐禅をする』のではなく、『坐禅で私をする』ことこそが、真実というものなのだ」と。(1959年秋、ラジオ放送)  ―内山興正著『自己』(1965)

1 人情・世情ではなく仏法のために仏法を学し、仏法のために仏法を修すべきこと。
2 坐禅こそ本尊であり正師である。
3 坐禅は具体的に「得はマヨイ、損はサトリ」を実行し、二行(懺悔行、誓願行)、三心(喜心、老心、大心)として生活の中に働く坐禅でなければならない。
4 誓願を我が生命とし深くその根を養うこと。
5 向上するのも堕落するのも自分持ちであることを自覚して修行向上に励むこと。
6 黙って10年坐ること、さらに10年坐ること、その上10年坐ること。
7 真面目な修行者達が悩まないでいいような修行道場であることを願って互いに協力すべきこと。
(内山興正「安泰寺へ残す言葉」)

芙蓉山の楷祖、もはら行持見成の本源なり。國主より定照禪師號ならびに紫袍をたまふに、祖、うけず、修表具辭す。國主とがめあれども、師、つひに不受なり。米湯の法味つたはれり。芙蓉山に庵せしに、道俗の川湊するもの、僅數百人なり。日食粥一杯なるゆゑに、おほく引去す。師、ちかふて赴齋せず。あるとき衆にしめすにいはく。
夫れ出家は、塵労を厭い、生死を脱することを求めんが為に、心を休め、念を息め、攀縁を断絶す、故に出家と名づく。豈、等閑の利養を以て、平生を埋没す可けんや。直に須く両頭撒開し、中間放下して、声に遇い色に遇うも、石上に華を栽えるが如く、利を見、名を見るも、眼中に屑を著くるに似たるべし。況んや無始より以来、是れ、曾て経歴せざるにはあらず、又、是れ次第を知らせざるにはあらず、頭を翻じて尾と作すに過ぎず。止だ此の如くなるに於いて、何ぞ須く苦々として貪恋すべけん。如今歇まずんば、更に何れの時をか待たん。所以に先聖は、人をして只、要ず今時を尽却せしむ。能く今時を尽さば、更に何事か有らん。若し、心中の無事なることを得れば、仏祖も猶、是れ冤家なるがごとし。一切の世事、自然に冷淡にして、方に始めて那辺に相応せん。

Our Ancestor Dōkai of Mount Fuyō manifested a pure wellspring of ceaseless practice. When the ruler of the nation tried to bestow upon him the title of Meditation Master Jōshō along with a purple kesa, our Ancestor would not accept them and wrote a letter to the emperor politely declining his offer. Although the ruler of the nation censured him for this, the Master, to the end, did not accept them. His rice broth has passed down to us the taste of the Dharma. When he built his hermitage on Mount Fuyō, the monks and laity streamed to his refuge by the hundreds. Because he served them only one bowl of gruel as a day’s rations, many of them left. The Master, upon a vow, did not partake of any meals offered by donors. One day he pointed out the Matter to his assembly, saying the following:
To begin with, those who have left home behind to become monks have a distaste for the dust and troubles stirred up by defiling passions and seek to rise above birth and death. And they do so in order to give their hearts and minds a rest, to abandon discriminatory thinking, and to eradicate entanglements, which is why it is called ‘leaving home’. So, how can it possibly be all right for monks to indulge in conventional ways of living by being neglectful and greedy?
Straight off, you should discard all dualistic notions and let neutral ones drop off as well. Then, whenever you encounter any sights or sounds, it will be as if you were trying to plant a flower atop a stone, and whenever you encounter […]

本堂回り、2019年6月27日