安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2010年 11・12月号

命を噛み締める



住職になる


 堂頭さんの葬儀は二月十六日に浜坂のホールで執り行われました。
「次の堂頭が決まるまで、お前が安泰寺でしばらく留守番しろ。どうせ暇なんだろ」と覚玄さんに言われました。この「留守番」が何を意味をするのも、全く知らずに・・・本当は誰も堂頭などなりたくないというのが本音のようだったのですが、かつて安泰寺で修行をしていた会下(註 ある師の下で修行をしていた僧たち)は思い入ればかり強くて、その後の三ヶ月間に及ぶ権力争いで口出しだけは絶えることがありませんでした。とりあえず、大藪先生が堂頭として復帰するという話になりました。
 しかしそれでも大藪先生からは「俺にはもう、そんな馬力はない。最初の二年間は俺が名前だけを出す。俺の代わりにお前がここを盛り上げろ!」と言われましたが、師匠の命令ならともかく、大藪先生の操り人形になるつもりはまったくありませんでした。
「いいえ、それはできません。大阪城公園で私を待っている人がいますから」
「じゃあ、俺は身を引くから、最初から自分の責任でやれ」
「私は堂頭さんの末弟子です。まずは兄弟子に頼むべきです」
「檀家もない、収入もない山寺だ。会計には九万円しか残っていない。雨漏りもひどい。まあ、お前はホームレスだから、そのへんは心配ないだろう。こうなったらお前がやらなければ、誰がやるというのだ?」


 安泰寺に対する、嫌な思い出も山ほどありましたが、それ以上に、なくなった師匠が、集う人がしっかり坐禅できるようにと願って、寺が経済的にも成り立つように奮闘しておられた姿が思い出されました。また、大藪先生も大藪先生なりに、自分のライフワークとして安泰寺の行く末を真剣に考え、何とかいきいきした修行道場として維持・発展していくことを願っておられたでしょう。立場の違う二人はそれぞれに良かれと思っておられたに違いありません。そのどこがどう食い違っていたのか、私には知るすべもありませんが、二人のどちらにもずっとお世話になり続けてきたことだけは確かです。
 安泰寺があってこそ、今の私があるのです。この安泰寺の跡を誰も継がないというのであれば、私がやるしかない……。
 「安泰寺をお前が創る」という亡き師匠の一言。安泰寺は他人が創ったものではない。自分が創ったものである。そして、絶えず創りなおさなければならないものである。昨日創っていた安泰寺は、今日もう存在しない。今日から、どんな安泰寺を創れるのか。
 安泰寺を私が創る。そしてここで修行している誰もが安泰寺を創らなければならない。私たちは安泰寺を創り、問い、壊し、創りなおす。安泰寺によって私たちも創られ、問われ、壊され、創りなおされてゆく。
 私はそもそも何をしに安泰寺に来ていたのか。そして今なんでそこに戻ろうとするのか。他にも選択筋はいくらでもあるはず。しかし、私をここまで導いてくれたのは坐禅であり、これからも私は坐禅のために生きていこう、私はそう思ったのです。


 ホームレス生活もよかったです。葛藤はありましたが、歴史はないが修学と坐禅の伝統だけある安泰寺の堂頭に任命されることは、光栄なことでした。
 公園に残していたテントを片付けるために、大阪に戻りました。その足でトモミの勤める「ピッグ&ホイッスル」に向かいました。愛する彼女にプロポーズをするためです。
「俺について山寺に来ないか」
「たぶん無理やろうけど、がんばるわ」 その日から九年間。彼女は今、二児のよき母として私と一緒に寺で暮らしています。


安泰寺“改革”

私が安泰寺の住職に任命された二〇〇二年は、“改革”という言葉が各方面でもてはやされた時期です。私の周りにも「曹洞宗を離脱して、二一世紀に合った、新たな形の仏教を編み出せ」とか「もう一度、寺の境内を全部売り払い、遠い外国にでも新境地を開け」といったアドバイスは飛び交いました。外国人だからこそ、今だからこそ、思い切った“改革”が可能だというのです。しかし私はそれとは反対に、まず三年間は修行生活を微調整し、目新しいものを目指すよりじっくり修行の形態と内容を考えることにしました。
 まず、師匠が提起していた寺の経済基盤という切実な現実問題がありました。
 私が大阪城公園に出る前に、山羊は二匹とも死んでしまい、年老いた牛も売却されてしまっていました。一方、炭焼きで生計を立てる計画も実現できそうになく、その当寺から結局は托鉢に頼るしかありませんでした。
 私自身は仏弟子が托鉢を行うことに何ら疑問を感じないし、恥と思ったこともありません。毎年の雪解け頃と秋の収穫が済んだときには、修行僧を連れて一週間ほど大阪の愛隣地区(通称「釜ヶ崎」というドヤ街)の低額宿泊施設で泊まりながら、京阪神方面で托鉢をします。「完全自給自足」といっても、田んぼや畑で育っている稲や野菜も大地、大空と太陽の力に助けられて育っているに過ぎず、いわば「大自然への托鉢」です。電気代や機械類の燃料を払うためには、一般社会の多くの方々のお布施に助けられているのもまた事実ですし、それに応えるためには私たちも修行をゆるめることなく、この寺の門戸を誰のためにも広く開き続けなければなりません。
 修行道場の具体的な最善策として、まず差定(一日のスケジュール)を変えたことがあげられます。接心は以前、一日は十四?の坐禅と三度の食事でしたが、まずそれを十五?の坐禅と二度の食事に変更。接心中、作業をしないのに、三度も食事を摂る必要はないと判断したからです。
 それから、後で詳しく説明しますが、ドイツ人の私から見れば日本の朝は遅すぎます。一般社会はなおさらですが、修行道場の起床時間が五時では、修行にならないのです。日が昇る前に坐禅をし、山の上から太陽が頭を覗かせるまで、とにかく外の作業にかかるべきだという思いから、起床時間を三時四五分にしました。そのおかげで作業の段取りがしっかり錬られ、効率もよくなり、作務の済んだ後の充実感は倍増した感じです。
 住職に就任してまずやらなければいけなかったのは、それまで担当したことのなかった稲作のノウハウや、ユンボ(建設機械の通称)の操作を独学で学ぶことでした。しかしそれよりも大変だったのが、入れ代わり立ち代りやって来る参禅者の指導でした。最初の二年間は短期参禅者を相手に、たった一人で寺を切り盛りしていましたが、三年目でようやく二人の弟子ができました。初めて「堂頭さん」と呼ばれ、はっとさせられました。それまでは雲水として自分だけの修行を考えればよかったのですが、今後は師匠の立場で雲水のたちの面倒を見なければならない。そしてこれまでに、八ヶ国の計十五人が私の下で出家得度をしました。国に帰った人もいれば、日本でこつこつと修行を続けている人もいます。
 安泰寺がこの九年間で一番変わった点は、その「国際化」でしょう。私が雲水だった頃には、私以外の修行者のほとんどは日本人でしたが、今は国内参禅者は過半数を割ってしまいました。九カ国語で開いている寺のホームページを見てきた人がほとんどなので、安泰寺の共通語も、いつの間にか世界各国訛りの英語に変わってしまいました。
 彼らに「修行のイロハ」を教えなければならないのが私の立場なのですが、その際、文化によって強調しなければならない点が違うということに気づきました。それぞれの言葉が違うだけではなく、考え方そのものが違うからです。その違いについては後ほど詳しく述べますが、まず私が提案したのが「日英会話」なるものです。廃業になっていた浜坂のパチンコ屋の一室を提供してもらい、毎週一般人を相手に無料で開きました。普通の英会話と違うのは、先生と生徒の区別がないところです。二時間のうち、一時間は安泰寺の外国人たちが日本人に英語を教え、次の一時間で外国人が日本人から日本語を学び、互いの文化を学ぶ、そういうランゲージ・エクスチェンジが狙いでした。しかし、「お金を払っている以上は勉強もしなければならない」「お金をもらっている以上はきちんと教えなければならない」という緊張感のないせいか、いつの間にかサロン化してしまいました。今では、浜坂での「日英会話」をしばらく休んで、山内で身ぶり手ぶりでコミュニケーションをとってもらっています。
 おなじ釜の飯を食っていながら、互いの言葉が通じ合わない、考え方も生活のスタイルもまったく違う。その中での「修行」に対する姿勢そのものがばらばらだったりします。それでも「以心伝心」でもなんでもコミュニケーションをとり、切磋琢磨される……、これこそ多くの参禅者にとって今の安泰寺では一番大きな公案であり、一番大変修行でしょう。しかし大事なことは、修行の形式ではなく、その中身ですから、本山僧堂でも得られない、今の安泰寺の修行のポイントかもしれません・・・

 さて、実はこの二年間「火中の連」で発表してきました文章は、本として世に問われることになりました。この本の基となったテキストは、二〇〇八年の秋から「仏教とは何か」という題で安泰寺のホームページに公開しました。そこでは、欧米では今や仏教が広まりつつあって、仏教の専門的な話もできるようになったのに、仏教国であったはずの日本ではむしろ、ごく初歩的な話、仏教とはどういう教えなのか、というところから今もう一度、再出発しなければならないという私の不満を書きました。
「その怒りを新潮新書という形で発表しては?」
 という願ってもいない誘いがあったのは、それから間もない時でした。
 相手は新潮新書編集室の金寿煥さんでした。
「その本、是非書かせてください!」
 お誘いに軽い気持ちで載ってしまった自分の甘さに、すぐに気づかされました。
「その話、リアリティーが全然ない。もっと具体的に書け!」 と尻を叩かれていると思いきや
「そこの部分、つまらないから要らない」
 ととても大事な話(と私が勝手に思い込んでいた駄文)がぽしゃっとカット。
 しばらくへこんでいると、今度は手のひらを返したかのように
「すごく面白いので、いつ続きが読めるか、楽しみだ」
 という励ましの電話があったり……。
 一方、金さんが「てにはを」の確かな使い分けすら教わっていない尻の青いガイジン坊主に本のオファーをしたことを何度後悔したことだろう、と思うとこちらも頭が下がり、再び原稿に向かわざるを得ませんでした。
 本の仮題は「大人の修行」ですが、まだ正式に決まっていません。2011年1月18日に発売される予定です。内容の多くはすでに何らかの形でこのホームページで発表されていますが、編集も加わり、大分磨かれた感じになっていると思います。目次は次の通りです。


前書き

仏教とは何か


第一章 仏教との出会い

「苦」からの出発
坐禅との出合い
ドイツの禅道場について


  第二章 憧れの修行生活

安泰寺への道


第三章 出家はしたけれど……

安泰寺の雲水たちと私


第四章 京都てなもんや禅寺修行

臨済宗に遊山
臨済宗に遊山(その2)
臨済宗に遊山(その3)


第五章 師匠との決別

黙って十年
若因地倒 還因地起
師匠との別れ


第六章 ホームレス雲水

ホームレス雲水
9・10月号
雑草と、花と


第七章 大人の修行

 今回の「住職になる」以降の話、
大人の修行の話、等々。

 元々、第八章まであったのですが、「もったいない気もしたのですが、 どうしてもテーマがそれまでとズレてしまいます。読者のためにも、いかにスムーズに読み終えていただくかという点が大事」という編集者のご指摘を受けて、ボツになりました。

 ここに本に載せられなかった第八章を発表し、今回の「仏教とは・・・」シリーズを終わらせたいと思います。「飴と鞭」の実践に徹して、この本を完成させてくださった金さんにたいへんお世話になりました。

 これまでの私の修行を見守ってくださったたくさんの善知識(仏道の仲間かつよき指導者たち)にも敬意を表します。本の執筆の心構えから、誤字脱字のご指摘まで、色々な助言をいただきました。ただ、そのすべてを活かせなかったことをお詫びいたします。
 この本の登場人物の名前は全て仮名にしています。その理由は、この本があくまで「私」という一つの主観から見た話に過ぎないからです。フィクションのつもりで書いた部分は全くありませんが、それぞれの登場人物はそれぞれの視点から、違う真実を見ていたのかもしれません。敢えてお断りしますが、この本は「私の話」、「私の真実」です。そこには何の“客観性”もないのです。

 最後になってしまいましたが、私の話にラストまで付き合ってくれた読者のあなたにもお礼を申し上げます。
 問題は、私の「真実」ではありません。
 つまるところ、私の個人的な体験や、ドイツ人の私が日本仏教をどう見ているかということではなく、読者のあなた自身がどのように生き、どの視点から仏教をどうとらえて、どう関わっていくかが、最も大切なことだと思います。



第八章 命を噛み締める

 


子どもだらけの日本

 日本に不足しているもの、それが大人だと思います。
 安全な日本社会では、大人はまるで「子ども」のように安心して生きてきました。それはある意味で、日本社会の良いところでもあるのでしょう。ドイツと違い、無理に自己主張する必要もなければ、自己防衛する必要もありません。ただ、その分日本には「本当の大人」と呼ぶに値するような人物が育ちにくい。何もそれは成人式で暴れる若者たちをニュースで見て言っているのではありません。幼稚なまま還暦を迎える大きな「子ども」たちが問題です。自分の行動に責任を感じない甘さ、他者の世界が見えない視野の狭さ、自分さえよければいい、今の日本にはそのような態度が蔓延しています。政界・財界・教育現場のリーダーでさえ、幼稚に見えて仕方がありません。いわんや宗教家も。 

西洋には古くから個人主義という考え方があります。しかし、日本で考えられている「個人主義」とは中身が違います。西洋では自分と他者をはっきりと分け、自己を主張しながら、相手の主張も認めるという態度を取ります。フランスの啓蒙思想家、ヴォルテールの「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを言う自由は命をかけて守る」という有名なテーゼにもそれがよく表れています。そこには、「私」と「あなた」と「彼・彼女」という第三者が横に並んで、それぞれの世界が平等に存在しています。
 比して日本人は、自分と相手を分けることなく、和をもったつながりを強調してきました。そこには「私の世界」と「あなたの世界」という厳しい線引きはなく、「私たちの世界」という温もりがありました。ところが、西洋の個人主義をはき違えた現代日本では、それが他者の存在しない「私だけの世界」に変わってしまっています。

 


無宗教の意味

 最近、地方の大学などの講演会に呼ばれることが多くなりました。九十分ほど、私の坐禅との出会いやその魅力、日本で学んだこと、外国人僧侶の目から見た現代の日本人についてお話しして、最後に質疑応答の時間を設けます。
 しかし、最初の質問が「先生の身長、何センチですか?」ということもしばしばです。一体、何のために話をしたのかがっかりすることも多く、思わず「オー、マイ・ブッダ!」と叫びたくなります。私のことは、青い目をした珍しい生きものとしか見えてないのでしょう。  欧米人はよく「日本人は無宗教だ」と言います。お正月は神社でお参りし、結婚式はキリスト教のチャペルで挙げ、お葬式はお寺のお坊さんにお願いする。日本人に「あなたは何教ですか」と聞くと、たいがいは答に窮します。でも、自ら積極的に「私は無宗教です」と断言する人も少ない。実際は、仏教徒でもあり、神様も拝み、儒教の影響もある。だからといって、キリスト教を否定するわけでもなく、お釈迦さまのお誕生日を知らなくても、イエス様の誕生日であるクリスマスを知らない日本人はいません。
 でもそのようにはっきりとした宗教観が日本人にないからこそ、日本は平和だともいえます。そもそも日本人は特定の宗教を必要としなかったという見方もできます。「宗教が無い」というのは、必ずしもモラルが低いということを意味しません。むしろ治安が悪く、社会の秩序が乱れているほど、その地域の宗教心は高くなると言われています。鎌倉時代の日本や宗教革命前夜のドイツもそうであったように、今の南米やアラブもしかりです。
 宗教観が曖昧といえば曖昧ですが、反面それは日本人の心の豊かさの表れとも言えます。「和」を尊び、他人を思いやる心を養ってきた日本人の精神それ自体が、ひとつのすばらしい「宗教」とも言えるのです。むしろ欧米人(というより一神教徒)が大いに見習わなければならない点でもあります。イスラム教、キリスト教、ユダヤ教が崇拝する「神」は同じ。それなのに、なぜお互いを憎しみ、傷つけあってきたのか、日本人にはなかなか理解しづらいはずです。


「心の主食」が欠けている

 私が日本に来て感心したことの一つは、食卓に並ぶ「おかず」の多様性です。辛いおかずも甘いおかずもあって、熱い味噌汁も、冷たい酢の物や漬け物も仲良く並んでいます。ドイツでは朝も晩もパン食で、昼ご飯は皿一枚に肉とジャガイモが載っているくらいで、日本のような豊かな食卓ではありません。
 日本の宗教も同じでしょう。神道からキリスト教、あるいは新興宗教まで、あらゆる宗教が「食卓」に並んでいます。日本の宗教シーンはいわば「心の食卓」です。和食の基本は、食卓に載ったものを全部おいしく頂くことであり、それが日本人の美徳でもあります。ただ、「心の食卓」に並ぶ「おかず」の種類は多いけれど、肝心の「主食」が何かが見えてこない。「心の主食」が日本人に欠けているように思います。「心の主食」とはつまり、一生の支え、バックボーンになるような人生観・世界観・宗教観のことです。「おかず」ばかりがあれこれと並び、それをつまみ食いしているだけでは、必ずどこかで行き詰まるはずです。

雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテイル/一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ……

 日本人なら誰もが知っている、宮沢賢治の作品です。宗教的な専門用語が一つも出てきませんが、「ワタシハナリタイ」と賢治が憧れた生き方こそ、宗教そのものです。あえて仏教的に言えば、菩薩の生き方と言えるでしょう。
 この詩を読むたびに私が注目しているのが、「玄米四合」という言葉です。菩薩として生きるために心が大事なのは言うまでもないですが、賢治は「丈夫ナカラダ」を初めにあげています。それを支えるのが「玄米四合」というわけです。しかし四合というのは、膨大な量です(戦時中・戦後の教科書では「玄米三合」に改竄されたそうです)。「玄米四合」は約二二〇〇カロリーなので、これだけ食べれば成人男性も充分生きていけます。
 まさにそれが賢治の言いたかったポイントでしょう。つまり、人間らしい生き方をするためには、いろいろな「おかず」を並べるのはダメで、「玄米四合/味噌ト少シノ野菜」で充分だということです。肉体労働の過酷な安泰寺も玄米食ですが、それでも一日一人当たり二合も食べません。安泰寺でさえ、おかずの量が多いということです。

 では、「心の主食」とは何か。
 私の場合、それは坐禅です。安泰寺の日々の坐禅は決して「白米」のように美味しいわけではありません。「玄米」のように、よく噛まずに飲み込んだだけでは、栄養になりません。現に、「安泰寺には五年間もいたけど、何の勉強にもならなかった」という人が私の周りにはいっぱいいます。それもそのはずです。無自覚のまま坐禅しようが何をしようが、年月は無駄に流れていくだけです。一?一?の坐禅を噛み締めなければなりません。坐禅を噛み締めることは、すなわち自分の命を噛み締めることです。大人として生きるということは、一日一日を噛み締めて生きるということなのです。

 


人生の問い

 若かったころの私は、人生問題の解決を坐禅に求めていました。坐禅と出会ってから、二十七年も過ぎましたが、「坐禅を噛み締める」ことによって、その解決を得られたかどうか、そこが知りたいという方もおられるでしょう。
 実は、「人生の意味とは?」という問いに対する答を坐禅が導いてくれた、といえばウソになります。 「いや、坐禅そのものが解決であった」、というのもちょっと違います。 坐禅によって、私の求め方の方向がガラッと変わったのです。 「夜と霧」というロングセラーの著者として知られている、ホロコーストを生き延びたユダヤ系オーストリア人の心理学者、ヴィクトール・フランクルの言葉を借りれば、それは「人生の問いのコペルニクス的転換」かもしれません。

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。 (「それでも人生にイエスという」・山田邦男・松田美佳訳・春秋社・1993年)

 人生においても、坐禅においても、一体何が正解なのか、私は未だに全く分かりません。
 しかし、「人生とは何か」「坐禅とは何か」というふうに、よそに向かって問うことだけは止めました。一瞬いっしゅん、この私自身の生きる態度が問われているのだ、ということに気づいたからです。
 坐禅修行は解決を求めるためのものではなかったのです。坐禅に問われ、作務に問われ、家庭生活に問われ、この日々こそ私の修行であったのです。そしてこの修行を人々と分かち合うことこそ、これからも私のつとめです。

(ネルケ無方)

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