流転海07

安泰寺文集・平成19年度


庸行 (大阪府・六十五歳)


私は学生時代には経営学を専攻しました。経営学は、企業レベルのミクロの経営を学ぶわけですが、その際には 国のレベルでの経済であるマクロの経済については ケインズなどの近代経済学を基礎にする場合が一般的です。しかし われわれの先生を含め一部の学者は マルクス主義経済学を基礎として資本主義社会における企業の経営学を築こうとされていてました。実はそれと知らずに先生のゼミを選択して その上勉強も全く中途半端なものでしかありませんでしたが、とにかく経済や経営の現状を批判的に考えてみるという勉強にはなりました。大学時代には 坐禅のクラブ(般若団)にも入り、約2年弱 臨済宗妙心寺派祥福寺の末寺で米騒動で有名な鈴木ヨネさんの菩提寺である祥龍寺という寺で“下宿”しながら大学に通う毎日を送っておりました。禅宗はキリスト教などの宗教と異なり 信じることよりも疑うことを何よりも大切にしていると聞いたことが大きなきっかけでした。  

 坐禅も仏教の勉強も作務も安泰寺と比べるとママゴトのような中途半端の極みのようなものでしたが 
―毎日: 毎朝五時におきて お経をよみながら鐘をついて 本堂でお経を読んだあと当番制で一汁一菜の朝食を作り 本堂の掃除をする。(晩御飯も当番制でした。一度使った昆布を干して何回か使ったことやダイエイに買出しにいったことなどが懐かしく思い出されます。)
―毎月:三日間ほどだったと思いますが毎月接心、毎日曜日 学生や一般人を相手に「禅を知る会」を開催
―毎年:数回機関紙の発行、夏休みや春休みには 日本各地の禅寺での合宿や祥福寺での十二月接心参加など・・・
をクラブ活動の一環として行っていました。

われわれは一九六一年に大学に入ったのですが 入学の年には 逮捕された先輩の 裁判が行われているなど まだまだ六〇年安保の余韻が生々しくただよっていた頃でした。 オーム真理教などのように、若さ・純粋さがつけ込まれたようなケースを見ると、 時折 安保で逮捕された学生はその後どんな人生を歩んだのだろうか?と考えることがあります。 いずれにしてもそういう雰囲気のせいか 学生同士で 当時 仏教(界)の社会的責任ということを何回も話し合ったことを覚えています。仏教の社会的責任などの分野で有名な方を大学に招き講演会をしたような記憶もあります。そういう話の中で出てくる言葉の一つが「仏国土の建設」と言う言葉です。今回安泰寺文集への投稿の機会に 今改めてその言葉を少し考えてみたいと思います。ただし 拙文・暴論であることをあらかじめお詫びいたします。 私も含め多くの仲間は 自分の人生への疑問から坐禅のクラブへ入ったのですが、人間は、一人でしか生きれない(自立している)が故に、一人では生きれない(共生せざるを得ない)存在である限り、やはり 社会との関係は避け得ない命題でした。つまり 「プライバシー」と「パブリック」とが、常に表裏一体のもとして存在しなければならないものである限り、「己事究明」の坐禅のクラブに入りながら、と言うか 己を見つめる思いが強いゆえに その分また社会性を問う気持ちも強かったような気がします。

仏教は 社会が複雑化するのに伴い「個人の解脱を目指す小乗仏教」から「他との関係、集団の中でのあり方を重視する大乗仏教」に進化をとげたと言われています。しかし 実は、国家観・社会観において 仏教は 更なる「進化」を 長い間怠ってきたのではないかと 最近特に強く感じています。

ところで 一般に「仏国土」の名のもとに描かれている国・社会とは 一体 どんな国・社会なのでしょうか?「仏国土」とは 通俗的な信仰の世界では 西方極楽浄土を指しているようですが、現実の国でたとえれば たとえば 天皇のような支配者がまるで親のように優しく君臨していて、 したがって国民は 全てその中で安心して住まわせて頂いていて、国のあり方などに口出しするのは全く不要な国というようなイメージを 漠然と仏教家は抱いているのではないでしょうか。 そういう意味では (サラリーマンの場合はですが)税金すら源泉徴収して頂け、また余り選挙に行かなくても国民の福祉と安全がそれなりに守られているわが国は 既に 本当に素晴らしい「仏国土」なのかも知れません・・・。学生時代にお世話になった祥龍寺の和尚(私は その方の人間的魅力で坐禅に惹かれていったようなものです)が 抱いておられていた信仰に近い天皇陛下への親愛と尊敬の念は 全く私の理解を超えるものでした・・・。

申すまでもありませんが、国は ずいぶんと以前から天皇や王様のものではありません。また勿論政治家や行政や企業のものでもありません。国の主権は、「在民」なのです。国民は、決して 国のために存在しているのではあり得ません。国民こそが、当事者こそが、主権者なのです。今までのそして今の仏教は、古いままの国家観をそのまま継承し そして結果として温存することに加担してきたのではないでしょうか? 仏教(界)は 国民が、国に支配される存在から、国づくりの当事者として転換した国や時代に相応しい「仏国土」の中身とその建設の道筋を明確に示さなければならないのではないでしょか。

「そういうオマエは仏国土とはどういうものだと思っているのか?」と問われると困るのですが、私自身は きわめてアリキタリですが、「人種・性別・年齢・障害の有無・国籍・貧富・生まれなどの違う人々がそれぞれその人らしく生きることのできる世界、競争だけでなく共生を根本原理とする国や社会」こそが仏国土であり、それは端的には 「基本的人権の尊重」「主権在民」の実現された国や社会であると考えています。そして 「仏国土」が、まず 自分自身の心の中に建設されなければならないのと同時に 「仏国土としての国や社会」の建設は、まず 自分の住むまちを「仏国土」にすることから始まらなければならないとも考えます。坐禅を志す人間は なによりも 自分の住みまちを、当事者の主権が尊重され、互いが互いを支えあうようなまちにしていかねばならないと考えています。

ところで 道元禅師は 「仏道とは自己をならふなり」と言っておられます。「仏国土」というものは 「自分とは何か」を知っている国民の住む国だとおっしゃっているのでしょうか?あるいは仏国土とは 自分の心の中にあるのだとおっしゃっているのでしょうか?内山老師は 「思い手放し」をしきりに強調されました。人類はその発生以来 アタマの働きで他の生物の頂点として君臨してきましたが そのことは また いのちの一部である自分のアタマが、自分のいのちそのものを支配してきたと言うことでもあります。「仏国土の建設」とは まずは 自分自身が、アタマが描く概念を 仏や神として生きることを止め、生(ナマ)のいのちそのものに立ち返って生きることなのだとおっしゃろうとしておられるのでしょうか? 道元禅師のお言葉にしても 内山老師のお言葉にしても どちらにしても「基本的人権の尊重」「主権在民」とかいう言葉とはかなり距離があるとなぁという感じを禁じえません。無方堂頭は 平成14年四月号の帰命に 「・・・草にならって何の役にも立たない、誰にも利用しようのない、自分の命のままにただ生きていきたい」と書いておられます。「仏国土」なんてオレとは無関係とおっしゃっているように聞こえないこともありません・・・

人間は個としての実存的な存在であると同時に 社会的な関係の中でしか存在しえない存在です。「ならふべき自己」も「ナマの命」も「草のような生き方」も全て 石油文明と資本主義と民主主義という器・仕組みの中でその生をながらえざるを得ません。果たして坐禅はその器・仕組みに無関心・無関与であっていいのでしょうか?関与することはすべて「頭の思い」として排除すべきことなのでしょうか?そうでないとすれば 仏教は社会や国家とのどういう関わり方を説いているのでしょうか?

昔から「清規」というのが禅宗にはあるそうです。道元禅師は 料理の仕方から顔の洗い方までこと細かく書いておられると聞いております。 これらは集団生活の規律であると同時に 小乗仏教から大乗仏教への脱皮の方法論でもあったと考えられるのではないかと私は夢想しております。私の坐禅の浅さを露呈する以外のなにものでもありませんが 「坐禅で得た何か」はやはり静態的なものでしかありえません。坐禅で得た心境は動態化されねばなりません。それには やはり現実の世界での大変な訓練・努力の過程が不可欠なのではないでしょうか。 そこで 先人は 後輩達が 坐禅で得た何かを行動に移す際に 色々考えないで済むように 「清規」や「顔の洗い方、食事の仕方」などとして 細かい日常生活の詳細を明確にされたのではないでしょうか。つまり それらは 坐禅で得た静態的な心境を現実の行動で発揮できるような動態的なものにするためのマニュアル本でもあったのではないでしょうか? 更に暴論をお許し頂けるならば 釈尊が悟られた後 そのまま涅槃に入ろうとされたところ ある菩薩でしたかの願いで 布教活動をされることになったとありますが 実は 悟られたあとの布教活動は 臨在でいう“悟後の修行“に当たるのではないのではないでしょうか?つまり 40年の布教活動は 釈尊の悟りには不可欠なプロセスなのではなかったのかとも思ったりしています。

信雄老師は 「お前なんか何でもない」「お前が“安泰寺”を創るのだ」とかおっしゃっていたそうですが “安泰寺”という言葉は “自分の住む地域社会”“自分の住む国・地球”と 言い換えることができるのではないでしょうか?更なる逸脱をお許し頂けるならば、「唯我独尊」と「三界は吾が有、衆生は吾が子」は 前者は「プライバシー」と後者は「パブリック」と読み替えることはできるのではないのでしょうか?

地域や国とのかかわりには2つの種類のかかわり方があると私は考えています。たとえば在日外国人のケースで言えば 一つは 就労の機会が少ないや文字が読めないなど彼らが日常現実に直面している問題の解決あるいは解決支援であり、もう一つは そういう問題を起こす原因となっている日本の社会や行政や政治の仕組みの改革です。障害者も女性も子供も高齢者もワーキングプアーといわれている人についても同じことが言えます。いえ一般の“健常な”日本国民も「本当に基本的人権が守られているか 主権在民になっているか」と考えてみると 同じく二つの種類のかかわりを必要としていることが明らかに見えてくるように思えます。

二つの種類のかかわり方の内、目の前の問題解決、これは多分仏教が一番得意とする分野だろうと思います。しかしその問題の原因となっている社会や行政や政治の仕組みの変革については、今まで仏教は口を閉ざしてきたように思われてなりません。国民が主権者となった時代における仏教(界、徒)は 果たして今までのままでいいのでしょうか? 

いつか無方堂頭に 「市民社会清規」「主権在民清規」「地球市民清規」なるものをお書き頂けることを切に望みまして駄文、暴論をとりあえず終わりたいと思います。

以上

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