流転海07

安泰寺文集・平成19年度


政明 (岡山県・四十四歳 コンサルタント)


今から二十四年前、大学三年生になるはずの秋、私は安泰寺にいた。
大学で社会学部に所属していた私は、「社会学をするには現実の社会を学ぶ必要がある」と考え、1年間大学を休学して全国を旅していたのだ。
ここを紹介してくれたのは、夏に住み込みでボランティアをしていた養護施設の園長、近松良之氏であった。元大学教授であった近松氏は、澤木興道老師の晩年の弟子でもあった。
当時の私は、現代社会のさまざまな問題は、人間が自然の生き方から離れてしまったことが原因であると考えていた。しかし、ただ座り続けるという人間にとっては「不自然な」行為で、人生の問題が解決するというのは、いったいどういうことなのか?その謎を解きたい。それが私を安泰寺に向かわせた理由だった。

山道を上り、寺に着いた頃にはもう薄暗くなっていた。入れてもらえなかったら門前で徹夜する覚悟だったが、意外とあっさり参禅が認められて、まず堂頭の部屋に呼ばれた。
座布団に正座し、正面の渡部耕法堂頭と向き合った。私はまず、ここに来た理由を説明した。すると堂頭は言った。
「わしらは、人間の考えというものがいかにくだらないものか、そういうものをぶっ壊していくために日々ここで生活をしている。」
確かそういった内容の言葉だった。
渡部堂頭は、若い頃から「どうすれば本当に自由な生き方ができるかのか」を追求して、最後にここにたどり着いたと言う。それまでは、路上でチンピラを相手に喧嘩ばかりしていたこと、飛行機のパイロットになった(なろうとした?)こと、吹雪のために雪の穴の中に友人と1週間、何もせずに過ごした経験なども話してくれた。 次の日の昼間、雲水の人に本堂を案内してもらった。坐禅の仕方を説明されたあと、私はこうたずねた。「あの、棒で肩を叩いたりしないんですか?」彼は壁の方を指さしてこう答えた。「以前はあれを使っていたが、叩いて回る者が坐禅できないから今はやっていない。」そこには長さ二mもありそうな船の櫂が掛けてあった。その前のはもっと太かったが、「肩を叩いていたら折れた」ということであった。 食事の作法も最初は苦労した。そもそも皆食べるのが早い。ぼやぼやしていると取り残されてしまう。あるとき永平寺で修行したことのある雲水に聞いた。「猫舌なので、おかゆが熱くて早く食べられないときは、どうしたらいいんですか?」「わしも永平寺では皆に負けまいと苦労した。そんなときは、梅干しを入れて冷ますのだ。」「醤油をかけるのはどうですか?」「わしもそう思ったが、醤油をかけたら負けだと思って、さすがにそれだけはしなかった。」
この「醤油をかけたら負けだ。」はその後、私の座右の銘のひとつになった。


寺での生活は、朝晩の坐禅と昼の作務が基本だった。ちょうど大根の収穫の時期で、畑で大根を抜き、下の炊事場でみんなで大根を洗ってネット詰めしたのが印象に残っている。
肥料にするための草刈りもよくした。山の上の草を柄の長い鎌で刈り、手作りのロープウェイで下に降ろすのである。そのためには山の上から下までワイヤーを張る必要があった。一番年長の雲水に「若いんだから、ほら、行けーっ!」とはっぱを掛けられ、私はワイヤーの端を持って斜面を駆け上がった。

何日か経って風呂に入って着替えていたところ、ある雲水が入ってきて、びっくりしてこう言った。
「わっ!女かと思った。」
当時の私はさほど長髪ではなかったが、流行でパーマをあてていた。その後、複数の雲水から「切れ。」「切れ。」と迫られ、「わかりました」。私は生まれて初めて丸坊主になった。

ある日、内山興正老師の関係で雲水が京都に行くというとき、「肉を買ってこい」という指示が堂頭から出された。そして次の日の晩、皆で車座になり、焼き肉パーティーが始まった。酒も一升瓶が数本並んだ。まさか禅寺で飲み会&焼き肉パーティーをするとは思わなかった。「お寺だから酒、肉は禁止」などというとらわれた考え方を超越する禅の発想だろうと解釈した。その席で私は堂頭から「おまえは刺身のつまだ。」と言われた。どうしようもないやつという意味である。その他いろいろケチョンケチョンに言われたが、自分のために言ってくれているのだと理解していた。

寺で修行する雲水は、実にさまざまな経歴を持った人が集まっていた。
商社マンだった人、教員だった人、北海道に妻子を残して来た人。空手で世界大会に出たことのある人等々。年齢もさまざまで、私と同じ二十歳代は、良道さんと一照さんの二人であった。
一照さんは、放参の日に私の部屋に遊びに来てくれた。彼は大学院で教育学を学んでいたが「他人を教育する前にまず自分が教育される(学ぶ)べきでは?」との思いから、大学を辞めて四国のお遍路さんの旅をし、その後ここに来たという。堂頭に「とりあえず十年ここにいろ」と言われたから十年いるつもりだ、と話してくれた。 寺で食事を作るのは当番制だが、一照さんが当番のときは料理が美味かった。それぞれのおかずに何か一工夫してある感じがした。
地元の祭りの日、皆で下山して地元の神主さんたちと懇親会(?)をしたことがあった。和気あいあいと飲み食いし、最後はカラオケパーティーになった。一照さんも無地のTシャツに学生服のズボンを履き、カツラをかぶって歌った。
大地さんは、花園大学を主席で卒業した雲水であった。彼が法戦式の予行演習をするというので、皆が本堂に集まった。般若心経を唱え、問答が始まった。「杓は・・・。」何を言っているのかわからなかったが、禅問答であることだけは理解できた。その翌日から、参道に続く山道で青空に向かって大声を張り上げ、問答の練習をする大地さんをよく見かけた。

摂心は、毎月一〜五日と十五〜十七日にあった。
結跏趺坐がうまくできず、ずっと胡座だったが、股間が痛くてつらかった。頭に浮かんでくる念にとらわれず、そのままほうっておくことを意識して座ったが、なかなかできなかった。
坐禅中のあるとき、私は放屁がしたくなり、我慢するのも身体に悪いと思い、音を出さずにしようとした。ところが「プウッ」と小さな音が出てしまった。その途端であった。「うるさいーっっ!!」大声が本堂中に響き渡った。隣に座っていた信雄さんだった。信雄さんは、その後も「ハアハア」と鼻息荒く、興奮した様子だった。
坐禅をしていると感覚が敏感になり、線香の灰が落ちる音でも聞こえる、と聞かされていた。だから信雄さんには、私のオナラが大音響に聞こえたのか?などとも思った。しかし、おそらくそうではない。彼は私の坐禅に対する不真面目な姿勢を一喝したのだと思う。

約束の1か月が過ぎ、下山する日となった。私は渡部堂頭に呼ばれた。
「おまえが求めるものを見つけるためには、春までここにいろ。」しかし私は、下山することに決めていた。初めのうちはいろいろ厳しく、学ぶことも多かったが、1か月も経つとここでの生活に「慣れ」が生じていた。今から思うと自分の気持ち次第でいくらでも厳しい生活にできたのかもしれない。しかし、1年間の休学期間中にいろいろ他の経験もしてみたい、そんな気持ちもあった。私は堂頭に言った。「いえ、お言葉ですが下山したいと思います。自分なりに答えが見つかりました。」 実際には、何か具体的な答えがみつかったわけではなかった。坐禅をして発見したこと、それは、脳というものはテープレコーダーのようなもので、外からの刺激を記録し、「考える」とはただそれを再生しているだけだということ。これまで後生大事に守ってきた自分の考えというものが、所詮、どこかよそから得た情報を記憶し、自分に都合の良いように組み立て、再生しているだけの借り物に過ぎなかったということ。そんなものだった。
すると堂頭は、次のようなことを言った。
「世の中が進歩して、知識も情報もどんどん増えていく。昔の人よりも今の人のほうが優れるのはあたりまえのことだ。だから昔の人に学ぶというのは、知識を学ぶのではなく、その生きる姿勢を学ぶのだ。」また、こう付け加えた。「勉強したら、わしに教えに来い。」
下山の日の朝、雲水たちが皆で見送ってくれた。「がんばれよ。」「元気でな。」折しも空がやや暗くなり、小雨がふり出した。「おうおう、雨が降って大変じゃのう。」信雄さんだけは、私に励ましの言葉はかけなかった。
寺で飼っていた三匹の犬が、なぜか私の前を先導して歩き、下のバス停まで連れて行ってくれた。道すがら、私はとりあえずひとつのことを達成したという充実感に浸っていた。
上山したときの私の疑問が解決したわけではなかった。それどころか、今までの疑問自体が、何かどうでもいいことのように思えた。
その後、大阪に行き、飛び込みセールスや土方を体験して一年間の休学は終わった。

あれから二十四年、インターネットを検索していて、安泰寺の現在を知った。堂頭が替わられたこと、宮浦信雄堂頭が亡くなられたこと。また、出会った人々のその後の人生、消息もわかった。渡部耕法老師、一照さん、良道さん等々。
私も四十四歳になった。私はあれからどう生きてきたか。あのときの経験は生かされているのか。知識や経験は増えたが、生きる姿勢は当時と比べてどうか。これからもあの時のことを忘れず、自問自答していきたいと思う。
最後に、宮浦信雄様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌

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