流転海07

安泰寺文集・平成19年度


淳広 (山口県・三十九歳 安泰寺信徒代表・医学生)


卒業試験が昨日終わった。内科・外科をはじめ、放射線科や統計処理まで三百問以上を二日で解くのだからたいへんだった。合否の結果が出るのはまだ先のことだ。そして今日、来春から臨床研修する病院の決定通知が届いた。幸運にも東京の有名病院に内定が決まった。昨今、医師の都市集中・偏在が問題となっている中で、非難されるのはぼくのような人間である。母校からも「地方国立大で学んだ者は地元の医療に責任を負わなければいけない」と公然と言いふくめられている。思いかえせば、ぼくが気まぐれに医学部に入学したころは医師不足・偏在どころか、あいかわらず医師過剰といわれていたものだ。それだけ時代の流れは速く、柔軟性を失ってきたということだろうか。
歌舞伎は古典芸能である。能は中世に発祥した日本古典芸能の精髄であり、相撲は神聖な国技として考えられている。多くの日本人がそれらの芸能や競技に日本民族の精神性が息づいているとみなしているからであろう。もしそうなら、とんでもないことだ。能にしてもたかだか700年ほど、歌舞伎なんか400年にもならない。そんなものでぼくたちの源流である太古の日本人の精神性など計れるものじゃない。茶の湯にしても、武士道にしても事情は変わらない。仏教は深く日本人の精神性の土台に食いこんで影響を与えたと考えられているけれど、それにしたってせいぜい聖徳太子の少し前の輸入で、取り入れにくいところはうまくごまかして日本人仕様に仕立て上げたものにすぎない。何千年、何万年とつづいてきた日本人の精神性の深層にほとんど影響を与えたことなんてなかったのだ。あまりにも外面的なもので覆いすぎてしまったので、何がほんとうなのかよくわからなくなってしまっているくらいだ。かつて天武天皇が日本民族の精神的な伝統の喪失を憂いて危機感を募らせていたのと何も変わらないのかもしれない。
人間が生まれて、生きて、病んで、死ぬ、ということに、どうしてこんなにも多くの人がむやみにいたずらに傷つき苦しむのか。多くの診療科をまわって患者と医師のやりとりを眺めながら、ずっとそれを考えていた。けっきょく、日本人がかりそめに作りあげてきた文化は日本人の生き方や考え方に対して無力であると気づくようになった。くだらない文化や思想が人間の生を蝕む現実を見ているうちに、ぼくたちがはるか昔に見失ってしまった感覚に思いを馳せるようになっていた。そして、気づくとそれはいまも自分の中にありありと流れつづけているのだった。
購買欲を失ってしまうくらいモノで満ちあふれ、不感症になるほど刺戟的な情報がテレビやインターネットを駆けまわっている。そんなものがなくても人間は生きていける。むしろ、みんななくなってしまった方が人間はよく生きていける。ほんとうに大切なモノや情報は自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分の耳で聞きとってつかんだものでなくてはならない。そんな力をもつ人間はほんとうに日本中から姿を消そうとしているのか。安泰寺は日本の奥地で人間のための最後の砦であってほしいと願う。ぼくは大都会で古代人の技術をつかって戦うつもりでいる。

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