安泰寺

A N T A I J I

火中の連
2009年 9・10月号

臨済宗に遊山(その2)

僧堂の石庭。


夜坐の指導(続き)  

 涙を流しながら薄暗い庭を睨みました。
「いずれは絶対、見返してやる」
かなうはずもないのにライバル意識に火をつけ、貧しかった私の感情を芽生えさせてくれたことに感謝すらしました。
「あいつらなんかに負けるものか」
星で埋め尽くされた晩秋の夜空を見上げながら亡き母とドイツで待っているはずの父親のことが頭に浮かびました。
「申し訳ない」
七歳で母と死別して、十六歳で家を出たきりだったので、親には心配ばかりかけて、安心させるようなことをまだ一つもしていないということにはじめて気づきました。だからこそ、このまま国に帰るというわけにはいけません。胸を張って帰れるまでこの道を突き詰めたいと思いました。

フルスイングとバットスイング  

 後でモッさんから色々なコツを教わりました。普段は警策のフルスイングを背中で受けるのですが、ちゃんと低頭しないと鎖骨が折れることもあります。かといって、肩を庇おうと、あまりにも深く身を前へ倒すと、腎臓に打撃が来ます。いかに背中の広く、しかも安全な範囲で警策を受けるかです。力任せで警策をたたき込まれる背中は、雲水の表現で「赤ちゃんを産む」状態になります。つまり、紫色に変色し腫れ上がり、そのうち皮膚が破れて、血が衣からにじみ出ることもあります。雲水の古株は背中のアザの痕を誇り気に新到たちに見せたりしますから、いずれ自分もそうなるのだろうか、半ばあきらめた気持ちで警策を受けます。
限度の知らない若い雲水達は今回の摂心で警策を何本折ったか、競争したりします。そのばからしさをモッさんに訪ねると、平気な顔で言います。
「妙心僧堂(注: 臨済宗の中でも一番厳しいとされている京都の本山僧堂)の摂心で毎回百本以上おれるそうだ、うちは二十本でまだ少ない方だよ」  
警策にかかる費用は僧堂の大きいな出費の一つですから、あまり折れると逆にフッさんから苦言がきます。そこで直日が浮かべた名案は警策の先著に布テープをグルグル巻くことでした。そうすれば、あらん限りの力で「後進」(注 僧堂の後輩のこと)をしばいても、すぐには折れませんし、ひびが入ってもしばらくは使えるのです。  
破れた背中をそのまま打ち続けると、ケロイド状になるので、衣から血がしみ出た雲水には「バットスイング」なるものが用いれられます。今度は背中ではなく、前方から野球のバットを振るう要領で胸を打ちます。この際、首からかけている絡子の環(注 絡子の左側についている白い輪)が真っ二つに割れることも珍しくありません。これが本来あってはならない叩き方であることはいうまでもありません。だからこそ、雲水に絡子を外すタイムすら与えないのです。

軍隊でも、地獄でもない  

 ある日、モッさんにこぼしました。  
「これはあまりにもひどい!まるで軍隊みたいじゃないですか」  
「いやいや、軍隊ではそこまでひどくやられないよ。ふらふらになるまで走らされたりはするけど、これほどやられたら社会問題になるよ。それにメシも好きな分だけ食えるし、暖房は効いているし、睡眠時間だって長い。こっちの方が全然ひどいよ」  
「そういわれればそうですね。ここは軍隊じゃなくて、まるで地獄です」  
「それもそうじゃないよ。目玉を抜かれるわけではないし、夜だって布団に入って四時間も寝れる。地獄のどこにこんな贅沢なところがあるか?すこし考えてご覧なさい、叩かれる俺たちも痛いけど、叩く方だって痛いさ。先輩の手を見たかマメだらけだよ」  
これには参りました。背中を腫れるまで叩かれても、モッさんはそれでも加害者であるはずの先輩に同情していました。まるでストックホルム症候群(注: 一九七三年、ストックホルムでの銀行強盗人質立てこもり事件において、犯人が人質を解放後、人質が犯人をかばい警察に非協力的な証言を行ったという事件から名付けられた。精神医学用語の一つで、犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くことをいう。)です。自分が置かれている状況を前向きに解釈するのは勝手ですが、「叩く方だって痛い」というのはないでしょう。  
「でも、オーム真理教とどう違うんですか、人権もなにもあったものではないじゃないですか」 そこにたまたま私の訴えが耳に入ってしまった高単の先輩が現れました。  
「あん、人権だと?ぼけえ、そんなもんあるわけねえだろうが。入門時に『規矩を破った時はどんな刑罰もお受け致します』って誓約書に書いたろう。死んでも文句は言えねえんだよ!ええか、死人になることだ」  
下駄を履いた足で下腹を蹴られて、私は石畳みの上でしゃがみました。モッさんは横でじーっと見つめているだけです。下手に口出しをする、自分にもその怒りが振り向かれるのが間違いありません。  

 蹴ったのはゲンさん、修行歴四年目で僧堂のナンバーツー。子供の頃にはバレー教室に通わされたという運動神経の鋭い、しかも切れやすい性格。老師には「バターフライ」と呼ばれたりもしますが、老師以外にはちょっと使えないあだ名です。  
「第一、オメエはまだ無になっとらん!」  
ゲンさんの「無」の解釈は独特でした。

「無」ということ  

 臨済宗の僧堂では、旦過詰めの終わった入門者に老師からまず「趙州無字」という公案が与えられます。「独参」といって、毎日二回老師にマンツーマンで会って、その公案に答えなければなりませんが、これは決して容易なことではありません。臨済宗の眼目はこの公案修行にあるとさえいえます。最初の公案は次の通りです。  
趙州和尚、因みに僧問う。「狗子に還って仏性有りや無しや」。州云く、「無」。   
僧堂の公案修行で一番やっかいなのは、その読み方を調べることです。夜坐が十一時に終われば、老師の字で書かれている公案のコピー紙を着物の袖から出して調べますが、懐中電灯のわずかな明かりで浮かぶ文字の意味が全く分からないことがほとんどです。「趙州和尚」ってだれ?因みに?狗子?仏性?無?クエスチョンマークだらけです。モッさんに後で読み方を教えてもらいました。  
「じょうしゅうおしょう、ちなみにそうとう・・・、理屈じゃないんだよ。なりきるものだ。まぁ、頭のでかっちなオマエには時間がかかるだろうね」  
本番の際、老師の前で参拝した後、まず必死で覚えた公案を棒読みしてみせました。  
老師の一言、「どうじゃ」。  
なにが「どうじゃ」か分かりませんが、この公案の回答が腹の底から「ムーー」と叫ぶのを、以前どこかの本で読んだことがありました。それならやってみることにしました。  
「ムウゥ…」と、大きな声を出そうとしたら、「声が大きい、外に漏れるじゃないか」と止められました。どうやら、回答の中身には問題がなさそうでした。ボリュームだけで引っかかりました。次の日はもっと小さく「むぅ…」とやったら、こんどこそ「うむ、見所(注 公案に対する弟子の理解を言う。見解(けんげ)とも。)はそれでいいが、なぜそれでいいのか、説明してごらん」  
これには脱帽でした。「理屈じゃない」はずの公案を「説明してごらん」というのです。  
「仏性(注 ぶっしょう、ありとあらゆるものに備わっているとされている仏の性質。仏教では元来、動物や植物をも含む一切のものは仏になれるポテンシャルを有しているとされてきたが、この公案の問題点は、ありとあらゆるものに備わっているはずの仏性をどうして狗子(くし、犬のこと)が表していないのか、というところだが、僧がこの問答で問うているのが、犬ではなく自分自身の仏性である)が無いということか」  
そのはずはない、それでは簡単すぎます。「いいえ、仏性がないというわけではありません」  
「それじゃ、なにが仏性じゃぁ」  
深く考えもせず、「無が仏性」といってみたら、意外なことに「そうじゃ、それでいいんじゃ。つぎに雑所を調べて来い」  
雑所というのが、大事な公案を通った後に答えなければならない復習問題です。その復習問題が十個くらい書いてあるコピーを渡されました。たとえば「無字の体いかん」とか「無字の用(ゆう、働きのこと)いかん」。自分自身が「無字」になりきらなければならないので、対外は自分の体、自分の働きを表せばいいのです。しかし、ここにもややこしいのがあります。  
「尽大地沙門の一隻眼、何処に向ってか?屎送尿せん」  
これもまた、夜坐が終わって、東司(注:とうす、禅寺のトイレのこと)の明かりを利用して調べましたが、なかなか分かりません。「尽大地」とは全世界のことでしょう。「沙門」とは雲水の古い言い方。「一隻眼」が目玉ひとつ。しかし、「?屎送尿」の「?(あ)」の字も辞書に乗っていません。次の朝モッさんに聞いたら  
「このバカ。くそをし、しょんべんをすることじゃないか。一晩中、トイレで何をしらべたんだ。ところで、『何処』の読み方って分かる?」  
「それくらい分かりますよ、先輩。『どこ』でしょう」  
「ブー。老師の前では『いずれのところ』といわなければ通らないよ」  
そうか、老師の前で用を足せというのです。もちろん、実際にはそのまねで十分です。少し衣をめくって、しゃがむだけで「そうじゃ」と通されます。一番めんどくさいのが「語がある、探して来い」といわれる時です。その公案の見処に当てはまる禅語を「禅林句集」という本のなかから探さなければなりませんが、その解答集にはなんと二〇〇〇も禅語が載っています。公案の見所は一発で認められても、二〇〇〇の内に一回の独参で多くても三つの語をトライすることしか許されません。それらしい言葉をやはり夜坐の終わった後に頭に叩き込んでも、「正解」とされている語を見つけるまでかなりの日数を要することもあります。  
猛獣になりきらなければならない公案がありました。「ガオー」とやっただけでは、老師は「うん」と言いませんでした。やがて老師は体を乗り出し、思い切り私の太ももを噛んでいるのではありませんか。臨済宗の一派の管長です。今まで何百人の新米雲水の汗臭い脚を噛んできたのでしょうか。その時、この人はやはり本物だなと思いました。   
ところが、ゲンさんの無の解釈はある意味でさらにリアルでした。彼自身は入門した当時、先輩から「本当にここで修行をする気があるのなら、裸で山門まで走って、パンフレットをもらって来い」といわれたことがあったそうです。それを即座にやり遂げたことに、山門の入り口のおばさんはもちろんのこと、先輩もびっくりしたらしいです。今となって、彼が人に命じられる立場に立っています。  
「裸でムーンウォークをせ」  
庭掃除の時間です。新米のキチさんが作務衣を脱ぎマイケル・ジャックソンになりきれば「おぉ、のってきた、オマエの境地が深まってきたな」とゲンさんは褒め、ポイ捨てカメラでぱちぱちと写真をとります。後ろの順路で不思議そうな目で見ている観光客をまったく気にせずにです。かなりいかれています。別の日、台所で典座をしていたモッさんに「オマエはオナニーが好きだろ。オレの前でこいでみ」  
やっきになって実行しているモッさんも「無になっとる」とゲンさんから認められます。

臘八摂心とその後  

 一年のうちで一番厳しいとされている摂心は十二月一日から八日の朝方まで行われる「臘八」(ろうはつ)です。一週間の間、一切横になることが許されません。夜は十一時までではなく、朝の二時まで庭で坐禅をし、二時から三時までは坐ったままでお堂の中での居眠りが許されるだけです。そして朝の三時は再び警策で叩かれながらの坐禅が待っています。臘八はみなそれぞれ幻覚を起こします。周りのものが透明に見えたり、松に木に光明が射したり、いろいろな幻聴が聞こえたりします。寝ているときと寝ていないときの差がつかなくなってしまいます。ですから、意識の流れが途切れ途切れになり、感覚が傷だらけのDVD映画みたいです。その感覚の中心をなしている「わたし」のもろさに誰しもが気づきます。わたしって、DVDの傷に過ぎないかもしれない、と。  
この摂心もやがて終わり、一週間ばかり普通のスケジュールが続きましたが、十二月十五日から再び摂心が始まります。この摂心で始めて「飯台看」という給仕役を任されました。みなの食べるタイミングにあわせて横に並べてある飯台の上から下へ「飯」と「汁」を運び、雲水の鉢に盛ります。高単の方々には少なく、下の同輩たちには食べられるぎりぎりのところまでぎゅうぎゅうと器からこぼれんばかり押し込みます。モッさんと二人で「ハン・ジュ」の桶の両端を持って運びます。正座して立ち上がって動き、正座して「ハン・ジュ」を盛ります。一番下の雲水に盛っていてから、上の方にお変わりを進めなければなりません。高単の食べるスピードより遅れると、「おい、いつまで待たせるつもりだい!」と起こられるのがオチです。何回目に回ったときでした。左足の指に鋭い痛みが走って、思うように立ち上げれなくなりました。どうやら、正座しているときに変に負担をかけていたらしいです。しかし、食事を給仕している最中はそんなことは言っていられず、モッさんに引っ張られながら何とかしてその場をしのぎました。  
後でモッさんとに心配されました。「どうした、その足?大丈夫か?」  
「痛いけど、我慢できない痛さではありません」  
「今は摂心だからな、しばらくは我慢しておけ」  
十二月半ばの摂心が終わってから「方便が効く」用になりました。これも僧堂特有の表現で、いろいろな面で毎日の生活が和らげられたのです。その中で一番ありがたかったのが、障子です。雪が降っても風がヒューヒュー吹いても障子は坐禅中に開けっ放しにされていましたが、十二月後半からようやく閉めてもよいということになりました。新米雲水は襦袢の下では半袖のTシャツを一枚しか着ることが許されていませんから、助かりました。もっとも、私は寒くなり始めた当初長袖のシャツを七枚も重ね着したことがありましたが、警策の音と感触ですぐ先輩たちにばれて、「あいつは要注意だ」とにらみ続けられました。警策がまわる度に襦袢の下をチェックされました。だいぶ後にゲンさんから教わりました。  
「オマエ、あの時ふわふわの下着にしたのがいけなかったのだ。オレは新米のときに衣の下で革ジャンを着てたぜ。あれじゃ、ばれないぜ」

ひさびさのお風呂  

 二ヶ月ぶりにお風呂につれてもらったのも方便のひとつでした。そもそも僧堂には「四」と「九」のつく日(注:僧堂では「四九日」といい、その日は托鉢が行われず、内外の大掃除に当てられている)に開浴といって、雲水が入浴ができる機会が五日にいっぺんありましたが、実際に五右衛門風呂の中に入れるのが高単の先輩のみです。新米雲水はお風呂を巻きで沸かしてから、先輩の背中を流します。先輩がゆっくりと湯船に使った後、一刻も早くフッさんに「堂内、開浴終了致しました」と報告しなければならないので、自分の体には洗い桶から残ったお湯を何杯分かかけるだけで何とかして一番ひどい垢を流さなければなりません。困ったことに、最初に三ヶ月間は石鹸の使用も禁止されています…。  
その夜、モッさんに「今日の夜坐が終わったら、銭湯に行こう」といわれました。  
「夜坐が終わったらですか?外へ出てもいいんですか」  
「『出ていい』というわけがない。しかしこれも方便のひとつだ。オレだって、半年前に先輩に久しぶりに銭湯につれてもらったよ。そのときは、今のオマエ同様、オレは『くさい』で有名だったよ」  
なるほど、そうでしたか。自分のにおいにはまったく気づきませんでした。「それは失礼した」と心の中で思いました。  
「しかし、どうやって出られるんですか」  
「まだ気づいていないのか。先輩はほぼ毎晩、塀を越えて外に出ていくよ。少しタイミングをずらして行こう。帰りの際だけ、鉢合わせにならないように注意をせねば…」  
十一時過ぎにモッさんについていったら、塀の一箇所にあらかじめ高さ一メートルほどの木箱が用意されているのではありませんか。路地で人の行き来がないことを確認してから向こう側へ降りました。表通りへ出ると、町は恋人同士であふれていました。思えば、この日はちょうどクリスマスイブ、あちらこちらでツリーが飾ってありました。僧堂から一番近い銭湯は避けて通りました。  
「あそこには今ころ先輩が入浴しておられるので…これからがデートらしい」  
大学時代で付き合っていた彼女と今でも塀を越え時たま会う先輩たちもいたようです。あの生活と恋を両立させるのにかなりの苦労が要ったはずです。  
別の銭湯はかなり込んでいましたが、脱衣所で作務衣を脱ぐと、私たちの周りに自ずとスペースが開きました。かなり「くさい」ようです。体を洗ってからジェットバスに入りました。勢いよく泡が噴出される方に股間を当てるようにとモッさんにいわれました。  
「あわぷくぷく、ちんちんぷいぷい」  
まるで子供のようにはしゃぐ二人でした。後で脱衣所で牛乳を飲みながらテレビを見ました。平和なひと時でした。  
「モッさんは彼女とか、いませんか」  
「いないよ。俺は僧堂に入る前に分かれた、四国だったからな」  
「それにしても、あの檻に戻らないで、このまま四国に帰っておかあさんにコタツの中でみかんの皮を向いてもらうという生活も悪くないじゃないですか。どうして明日の三時からまた寒い思いをして修行を続けるのですか」  
「そりゃ、オマエ、このままじゃとても親に合わせる顔ないだろ。親父には一年間修行して来いといわれたから、てっきりそのつもりで入門したが、実際に来てみると『最低三年間』といわれた。ショックだったけど、本山でちゃんと資格を取っておけば、表に出たときには胸を張れるよ。一生、檀家に拝まれながら暮らせるから、三年間の辛抱だ。オレによく分からないのが、ホッさんだよ。曹洞宗だし、将来お寺を持とうと思っていないだろ。オマエこそ、このまま僧堂に戻れるか」  
いわれてみればそのとおりでした。お風呂を上がってから赤く腫れた左足を見下ろしながら思いました。今ころ手をつないで町を歩いている若者たちもうらやましいし、ツリーの下で穏やかなクリスマスを過ごす家庭の温かさに憧れていないわけでもありません。しかし、「生きる密度」でいえば、僧堂で得られるような実感はないではないでしょうか。僧堂のあの凄まじいテンションの中から生まれる、痛みを伴う現実感を彼らが持っていないように見受けられました。あるいは、「修行している」自分に酔っていただけでしょうか。

「生きる」ことは問題ではなく、答えだった  

 なぜ僧堂に居続けるのか、自分自身にこの問いを向けてみました。覚玄さんにいわれていた「半年間、もしく一年間」だけはどうしておらなければならないと思いました。しかし、それだけではありません。  
ある日、東司に入ったときでした。一日のうち、何回か何も心配することなく、安心して用が足せるときのみがほっとできる時間ですが、そのとき窓の向こうで木の葉の上で水溜りが見えて、その中で太陽が光っているのが見えていました。何のことはない、ありふれた光景でしたが、この葉っぱも、この水溜りも、そしてお日様も私のためにここにあるのだ、というような感覚になりました。自分の力ではなく、これら自分を取り囲んでいるすべてのものに自分は支えられている、と。そのとき思いました。  
「私は生きている!」  
それまでは「私はどうして生きなければならないのか」という疑問が頭から離れませんでしたが、「生きている」ということは私が解かなければならない難問ではなく、実は答えそのものだという歴然の事実にはじめて気づきました。もちろん、そんなことぐらいは安泰寺でも教えられていました。  
「気づいていても気づいていなくても、みな天地いっぱいの命を生きているのさ。頭でそれを理解しようとするから間違ってしまうのだ。その頭をお手放すことこそが坐禅だ」  
ところが、安泰寺ではまだ考える余裕がありました。その余裕がまったくないここでは、おのずと頭を手放せずにはいられない環境が用意されていました。「手放そう」と思わなくても、手放してしまうのです。いったんそうしてしまうと、心は非常に楽になりますし、怖いことがなくなってしまいます。  
その夜モッさんと二人で再び塀を越えて僧堂に戻ったのはいうまでもありません。  

(ネルケ無方)

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